望むは君の巡廻死 2




 決行は夜にすると決めていた。

 昼間のあの熱帯のなか外に出るのはやはり気が滅入ってしまう。今から死ぬ人間がなにに滅入るというのか。矛盾した考えに自分でも笑ってしまう。けれど、残念なことに俺はまだ生きているし、死ぬけれど、どうしてもあの暑さの中で上手に死ねる自信が無かった。下手をすればどこかの道端で志半ばで倒れて、病院おくりにされてしまって計画がパーになってしまうかもしれない。俺は昔から夏の暑さには弱いのだ。それになにより俺は人様に迷惑をかけるような死に方はしたくなかった。

 家で首吊り?それだと部屋を汚してしまい大家さんに迷惑をかけてしまう。飛び降り?人の往来のある道で飛び降りて、いたいけな子供たちの目にとまってしまったらいけない。電車に飛び込む?それこそ大迷惑である。この死に方は最初から論外だ。電車が遅延してどれだけ大変なことになるか、都会に暮らす俺は嫌というほど知っている。とまぁ、ろくに死に方の勉強をしていない俺の知識は貧困で、自分の死に方一つなかなか決められなかった。

 そんな風に自分の死に方に悩むこと三日。ついに俺は思いついたのだ。

 そうだ。沈んでしまおうと。

 つまりは、入水である。

 そして俺は海を選んだ。

 あの大海原の底に沈めば、誰にも迷惑をかけずにすむんじゃないか。ということで次に決めなければいけないのは死に場所だ。沈むといっても、その場所によっては他人に迷惑をかけてしまうので俺は慎重に場所を選ばなければ仕事終わりに、休日に、自分の死に場所を見つけるため足を運んだ。ちゃんと夜の雰囲気を知るため、夜にまぎれて場所を探す俺は、人生の中で一番がんばっていたかもしれない。

 今までこんなに何かに必死になって取り組んできたことがあっただろうか。いや、ない。親が聞いたら泣き崩れてしまいそうな事実に少しだけ気分が沈んでしまったのはここだけの秘密だ。

 そんなこんなで死に方を見つけて三日、死に場所を探し出して一週間、俺はとうとう理想の死に場所に巡り合えた。真っ暗闇にざざーん、ざざーんと波が鳴る。人の住む場所から少し離れたそこは、いきなり海深が深くなりその深さに昔人が溺れたとかで遊泳禁止区域になっていた。潮風で錆びた有刺鉄線のむこうに広がるあの海は、すでに俺以外の誰かの命を飲み込んでいるのだ。海側からすれば迷惑な話しかもしれないが、そこにもうひとり俺を追加させていただこうと思います。すみません、人の勝手であなたを汚す俺を許してください。人しれず零した謝罪は、ちゃんと届いただろうか。

 駅から結構歩かされるせいか、人影もないし、うん。ここにしよう。ここで決定だ。

 額をつたう汗をぬぐいつつ、俺は心に決めた。

 今日はまだ準備が出来ていていないので、準備が出来たらまたきます。

 ざざーん。ざざーん。暗闇のむこうで鳴る波の音に耳を傾け、俺はようやっと見つけられた終わりに泣いてしまいそうになるのを必死にこらえた。親の顔が頭をよぎらなかったといえば嘘になるが、それ以上に俺が抱いていたのは生きていることにたいする申し訳なさだったので、俺は安堵の気持ちで胸がいっぱいだった。

 これでようやく、解放されるのだ。

 解放を願わない人間はいないだろう。死に場所を見つけて初めて、俺もそれを自分が強く願っていることに気がついた。自分で思っていた以上に、俺は俺の生き方に疲れていたらしい。

 だけど、まずは準備をしなければ。

 冷蔵庫に入っている食材を使い切らないと、観葉植物たちはどうしよう、親にも手紙を書いて、会社には死ぬと決めた次の日に辞めることは伝えてあるから大丈夫。

 これからしなければいけないことを一から順に頭の中で浮かべて整理する。考えれば考えるほど心が軽くなって鼻歌なんて歌ってしまった。誰もいない夜の海、誰にも知られることなく沈んでいく。あぁ、なんて素敵なことだろう。なんて、なんて、なんて。

 頬を何かが伝う。

 踵を返す俺の頬を伝ってアスファルトの上に落ちたそれが汗だったのか、はたまた違うものだったのか、俺には分からなかった。

 等間隔に配置された街灯のあかりを頼りに駅へと歩いていく。

 街灯のまわりには、光にさそわれた虫たちが飛び回る。夏だから、その数は他の季節に比べると多いような気がする。バチリと、街灯の熱に焼かれ虫が地べたに落ちていく。

 街灯の下、足をとめて背後を振り返る。

 「……」

 振り返った先、そこにはすべてをのみこまんとする真っ暗闇が、広がっていた。

 おいでおいでと手招かれているような、そんな気分になりながら俺は光の中から抜け出し駅への道を再び歩き出した。

 あの日から一週間。

 すべての準備を終えた俺は夜の電車に乗って、あの海に来ていた。
 最終便。降り立った駅には俺以外の人間は見当たらない。俺を乗せてきた電車の運転手が不思議そうな顔をして寂れた駅から鉄の塊を発車させていく。音を立てながら暗闇へと飲み込まれていく電車を見送った。もうあの乗り物に乗ることはないんだと思うと、少しだけ不思議な感じがした。今までお世話になりました。俺はどこかへ続く線路に背を向けた。
 駅からでて目的地まで十五分ある道のりを、汗だくになりながらも歩いていく。いくら夜でも夏は夏。まだまだ熱帯夜をぬけない暑さに、俺のシャツは汗で湿っていく。今から死のうというのに、体は変わらず生命機能を果たしていることがなんだかおかしくて笑ってしまう。今日もあの時みたいに周りに人の気配は感じられないので、誰も俺を見て変に思う人はいない。俺が乗ってきた電車が終電だったし、もとより人の集まるような場所でもないことが、少しだけ俺の気分を大きくさせた。

 人の多いところは苦手だった。

 うるさいし、つかれるし、楽しそうなのはなによりだが、俺にはとうてい理解のできない世界がそこには広がっていた。俺はその世界を前にするとどうしようもなくなってしまう。なにが。とはわからない。ただどうしようもなく自分が惨めに思えて、どうしようもなく消えてしまいたくなる。蝉のように、俺の命も一週間で終わってしまえばいいのに。そんなことを何度考えたことだろう。だけど、それも今日で終わるのだ。俺の願いは、ついに形となる日を迎えたのだから。

 知らず歩くスピードが上がっていく。等間隔にならんだ街灯が導のように海までの道を案内してくれる。そしてようやっとたどり着いたそこでは、以前と変わらない海が俺を待っていた。

 家から持ってきたペンチで有刺鉄線を何箇所か切断して中へと入っていく。砂浜には空き缶やペットボトルなどのゴミが散乱していた。打ち捨てられたそれらを踏み越えて、俺は月明かりをたよりに海へと向かって歩いていく。

 潮の香りが強くなる。月を映す水面は漣でゆらゆら揺れていた。誰の気配もしない本当に俺ひとりだけの空間に、世界には俺だけしか人間が存在してないんじゃないかと錯覚してしまう。だけどそれがただの錯覚でしかないということはよくわかっていた。わかっているからこそ、俺はここに居るのだ。錯覚の中で生きられたらどれだけよかっただろう。本当にそれがいいことなのかは分からないけれど、その錯覚を信じられたなら俺はもっと違う生きかたができていたのかな。なんて。

 それも今となっては考えても意味のないことだけど。

 海の前に立つ。底知れない黒が、目の前に広がる。どこか不気味ささえ感じる光景だけど、俺の胸に去来するのは絶対的な安堵だった。

 携帯も財布もおいてきた。帰るためのお金はない。今俺がみにつけているのは服と、ペンチと命だけ。それも今から捨てにいく。

 一歩。前にすすむ。靴の底が海水に触れる。また一歩進めば、靴全体を海水が濡らした。進めば進むほど俺の体は濡れていく。まだまだ浅瀬だけれども、聞くところによればこの海はいきなり底が深くなるらしい。それに足をとられ、知らない誰かは命を落とした。濡れる面積が増えていくたび、ドキドキと俺の胸は高鳴っていく。腰元で、波が当たって過ぎてゆく。あと一歩。そう思って足を進める。

 「アンタなにしてんの?」

 誰もいないと思っていた暗闇から声が飛んできた。
 自分しかいないと思い込んでいたので、俺は驚いて声のした方を振り返る。振り向いた先には、暗がりでよく見えないがたしかに俺以外の誰かが立っていた。
 まったく気がつかなかった。一体いつからそこに居たのだろう。

 「こんな時間に着衣水泳?……な訳ないか」

 「……」

 声からすれば男だと分かるのだが、この暗闇の中遠目ではその全貌を伺い見ることは出来ない。目を凝らして見るけれど、やはり鳥目の俺に男の姿をとらえるのは難しかった。

 「やめときなよ。溺死って、苦しいらしいよ」

 「…なんのことですか」

 「あれ?死のうとしてたんじゃないの?」

 不思議そうに言われて俺は一瞬口を開きかけ、だけど何も言うことなく口をつぐんだ。
 まさにその通りなのだが、第三者から改めて指摘されると否定したくなってしまうのはなぜだろう。違うと、そう言いそうになる口を閉ざし黙り込む俺に、謎の男は言葉を続ける。

 「まぁ、死ぬ死なないにせよ、それはあまりおすすめしないけどね。俺は」

 生きたまま肺に水が入り込むとかありえないよね。
 そう言って男は近づいてくる。放っておいてくれればいいのに、男は俺との距離を詰めてきた。俺しかいなかったはずの夜の空間に、別の存在がずかずかと入ってくる不愉快さに俺は眉をしかめる。なんだこの男は。だけどこの暗闇ではそんな表情もとらえられなくなってしまうようで、男との距離はどんどん縮まるばかりだった。
 俺がそうしたように、男も海へと近づいてくる。暗闇の中、じっと息を殺してそんな男の気配を探る。ただの冷やかしなら、今すぐ立ち去ってほしい。

 「で?何してるの」

 男の言葉は真っ直ぐだった。なんの躊躇いも遠慮もない言葉が俺へと届けられる。

 「それ、答える必要ありますか」

 「必要はないけど気になるじゃん。ここ立ち入り禁止だし、一応」

 「…別に。ただ海に入りたいなって、そう思ったただけです」

 「服のまま?腰までつかるくらい?」

 「どんな格好で海に入ろうが、人の勝手でしょう」

 「でも死ぬ気じゃん、アンタ」

 暑いね、今日も。
 そんなノリで男は言う。あまりにも軽い。まるで既知の友と話すように男の言葉はなれなれしく、その調子に感化されたのかさっきは口をつぐんだその問いかけを俺は、

 「そうだよ」

 認めていた。

 「だから放っておいてほしいんだけど」

 自分でも驚くほどするりと言葉がこぼれ落ちていく。男のペースに乗せられている。そんな気がしないでもないけれど、今更出てしまった発言を取り消すことはできないしするつもりもない。
 せっかく誰もいない場所で死ねそうだったのに、見ず知らずのやつに邪魔されてたまるか。
 男の様子からしてどうやら冷やかしたいだけのようだし、それならばはやくこの場から去ってくれ。うるさいところは嫌いだ。うるさい人間も嫌いだ。だから今すぐにでも俺を一人にしてほしいのに男は立ち去ることなく、むしろその逆だった。

 「はぁ。仕方ないなぁ」

 「は?…って、なんでこっちにくるんですか」

 「え?だって死ぬんでしょ?」

 「そうですけど!」

 バシャバシャ。音を立てながら男が海の中へと入ってくる。数メートルあった距離があっという間に縮み、手を伸ばせば届きそうなところにまで近づいてきて俺は焦る。
 近づいたせいで先ほどまで見えなかった男の顔が薄ぼんやりとではあるが見えるようになる。背は、高い。少し見上げなければその顔を見ることはできない。薄明かりの下、それでも分かるくらい綺麗な顔をした男が、笑っている。まるで夜の幻みたいに、男の顔は綺麗だった。

 「別にアンタが死ぬのはいいけど、ここはだめ」

 ここはだめと男は言う。

 死ぬのはいいけど、この場所ではだめだと。
 どうして男がそんなことを言うのか分からず、俺は内心で首をかしげた。ここは、男の地元なのだろうか。地元で人が死ぬのは嫌だからここはだめだと言うのだろうか。自分なりにその理由を考えてみるけれど、俺に男の真意を計り知ることなど出来る訳がないのですぐにあきらめる。考えるよりも、聞いてしまった方が早いし楽である。

 「どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃいけないんですか」

 俺が死のうが死ぬまいが、赤の他人である男には関係ないはずだ。現に男だってそんなようなことをさっき自分でも言っていた。その後におすすめしないというセリフが付属してはいたけれど。でも、それでもたしかに男は俺の死は関係ないと言ったのだ。

 「どうして、放っておいてくれないんですか」

 いつもいつも、俺の描く未来とは違う方へ物事は進んでいく。
 望まない形で干渉してきて、俺の好きなようには決してさせてくれない。俺のことなんか放っておけばいいのに。干渉の上に成り立つ世界なんてまっぴらごめんだ。そんなの煩わしいだけじゃないか。人と関わるのは大変だ。大変だし、とても面倒。馴れ合うなんて馬鹿らしい、粗探しをし合うのなんて愚の骨頂だ。何がしたいんだ。何をしたいんだ。繋がりたいのか貶したいのか。どっちつかずで複雑にからみあって、傍迷惑にも巻き込まれていく。

 「まぁまぁ、ここで会ったのも何かの縁だしそんなに邪険にしないでよ」

 縁もなにも、俺は放っておいてほしいと言っているのだ。全く会話が噛み合っていないことに頭痛をおぼえる。言外にこの場から立ち去ってくれと言っているのに男は立ち去るどころか、なぜか親しげに話しかけてくるのをやめない。

 「何があって着衣水泳する羽目になったのかは分からないけど、残念ながら俺の目が黒いうちはここでアンタを死なせるわけにはいきません」

 「……は?なんであなたに決められなきゃなんですか」

 「なんででも。だからここで死ぬのは諦めてな。他の海なら俺は口出ししないし、止めない。でも、ここは、ダメだ」

 「意味が分からないんですけど」

 まったくもって、男の言っていることが理解できない。
 頑なに、この場所で死ぬことを拒む男の真意がまったく分からなかった。心の声そのままに落としたセリフに、男は肩をすくめる。一瞬、月が雲に隠れて僅かにあった光が無くなる。遠くに立つ街灯では照らすことのできない真っ暗闇が目の前に広がって、次に月が顔をのぞかせた時には

 「…っ!」

 さっきよりもそばに、男が近づいてきていた。
 突然のことに体を硬くする俺の前で、月明かりのもと男が笑う。その笑みは俺が今までの人生のなかで見たことのない笑みだった。ゾッとするくらい綺麗で、目の奥が熱を持つほど哀しそうで、抱きしめたくなるよう寂寥を含んだ、笑みだった。
 その笑顔一つで俺の言葉と動きを封じてしまった男は、静かな声で続ける。

 「だから俺が代わりに死んであげる」

 「え……?」

 告げられた男の言葉に、そう返すのがやっとだった。
 目の前では、穏やかに笑う男。
 なのにその笑みはどこか寂しそう、で。
 体がまるで金縛りにあったかのように動かない。視線は男をとらえて離さなかった。幻のように現れた男の姿を焼き付けるかのように視線が固定される。

 「これ以上こいつにくれてやるつもりはないからさ」

 やはり男の言葉は理解できなかった。
 彼の、彼だけの思考と世界の中で完結しているかのように話しが進められていく。彼の世界から弾かれた俺は、訳も分からず男の言葉を聞くことしかできない。

 「だからアンタはどっかに行きな。そんでついでに死ぬのもやめちゃいな」

 頭を優しく撫でられる。
 誰かに頭を撫でられるなんて、いつぶりだろうか。小さい頃はよく撫でられていたような気もするけれど、大人になってからは確実に初めてだろう。それも赤の他人、初めて会う人間に撫でられている。だけどその手つきがひどく優しいからか反発するような気持ちはおきない。
 まるで慈しまれているような、そんな錯覚を抱いてしまうほどに男の手は優しかった。

 「焦らなくても、ちゃんと死ねるから」

 「……っ」

 男の不思議な色を放つ瞳に見つめられる。
 瞬間、息が詰まった。
 鼻の奥がツンとして、目の奥が熱を持つ。焦らなくても、死ねる。それはそうだろう。この世の生きとし生けるものはすべて生まれる前からその命の終わりを決められているのだから。終わりがあるからこそ始まりがあり、始まりがあるからこそ終わりがある。そんなこと分かっている。分かっているんだ。テスト問題にさえ上がらないくらい、それは当たり前のことだ。だけどそんな当たり前なことを言われただけなのに、どうして俺の感情はこんなにも揺さぶられる。

 生き甲斐のない人生だったのだ。本当に。
 無為だと言われればそれで終わってしまうような、そんな人生だったのだ。
 自分の生い立ちが恵まれていないとは思わない。むしろドラマなどで描かれるような、ありふれた家庭だった。父がいて、母がいて、兄がいて、それなりに仲の良い家族だった。仲の良い友人だっていたし、仕事にもつけて衣食住にも困らない生活も送れている。
 だけどそれだけだった。俺は生きていたけど、生きているだけだった。それが、どれだけ恵まれたことなのかは分かっている。この世には生きたくとも生きられない人が居るんだ。なんてセリフを吐くつもりはない。それはきっとそんな立場に置かれていない人間の言う欺瞞に満ちた言葉だから。
 俺は今日、死ぬためにここに来た。
 それだけが事実で、今の俺にとっては唯一の目的だ。逃げていると言われてもいい。俺はこの海に沈むためにここに居るのだから。それなのに、男の言葉にどうしようもなく心が揺れる。

 「…それなら、なんであなたが死ぬんですか」

 男の手はすでに俺から離れており、俺は無くなってしまった感触を残念がる心を隠しながら男に問いかける。

 「焦らなくても死ねるなら、どうして」

 そう言った本人が死ぬというのか。
 男の言葉は、大きな矛盾に包まれていた。どこかちぐはぐで、噛み合わない。今にも瓦解してしまいそうな不安定さがある。
 死のうとしている俺が言えたことではないが、見るからに勝ち組の男が死にたがる理由がまったく見当つかないのだ。
 薄明かりの中でも分かるくらい男の容姿は整っているし、話しかたは砕けてはいるが声のトーンは落ち着いていてとても聞きやすい。軽薄なイメージを受けはするけど、それさえ男の魅力の一つだと言われれば納得してしまう。平凡野郎な俺とは何から何まで違う。今更自分の容姿に絶望するなんてことはないが、羨ましいなと思う感情はある。そんな容姿を持つ男は俺の代わりに死ぬと言う。そして俺には死ぬのをやめてしまえと笑うのだ。
 見るからに社会に望まれているのは男のほうなのに。排他されるべきなのは、俺のほうなのに。

 「さぁ。どうしてだろうね」

 わらう。

 夜の海と、月明かりと、死の狭間で微笑む男は息を忘れてしまうほどに美しい。
 海水を吸い上げた服が重みを増す。まるで海の底から伸びてきた手に引きずり込もうとするように。だけどそれを海上から男が沈まないように腕をひく。沈みたがる俺の顔を空気に触れさせる。
 俺にはもう、こっちのほうが息苦しくて仕方がないのに。綺麗な寂しい微笑みで、俺の望みを断とうとする。こんなに美しくて残酷な人間を、俺は他に知らない。
 呆然と見上げる俺の視線の先で男の形の良い唇がゆるりとひらいた。

 「でもきっと、アンタと同じだよ」

 「……おなじ」

 「そう。アンタも俺も変わらない。理由なんて、至極簡単だ」

 「うそだ。おなじなわけない。おなじなはずがない」

 「なんで?」

 「だって、あんたは俺とは違う」

 「どこが?」

 「どこが?って、そりゃ全部に決まってる。見た目も在り方も望まれ方も、ぜんぶ俺とは違う」

 ひび割れた声が耳の奥で鳴り響く。
 喧騒から逃れたくて静かな場所を選んだはずなのに、俺の中は静寂とは真反対だった。
 煩い。静かにしろ。
 同じだという男の言葉も、耳奥で鳴り響く声も。この漣に呑み込まれてしまえばいいんだ。
 妬む気持ちはなかったはずなのだ。絶望するほど、俺は自分自身に何かを期待していたわけでもなかった。この世にはどうにもならないことなんてごまんとある。それをいちいち気にしていたらあっという間に精神がやられてしまう。無関心と忘却でやり過ごさなければ俺は俺を保てない。だけど感情なんてそう簡単に消せるはずがなくて、無関心を装う心の下ではそれでも消しさりきれなかった羨む気持ちが顔を出す。
 羨みは、裏を返せば妬みになる。
 妬みを綺麗な言葉で表したにすぎない。

 「おなじなわけ、ないんだ」

 どうしようもなく羨ましいのだ、本当は。
 唇を噛み締めうつむく俺を、男が見ている。男の目に俺はどんな風に映っているのだろう。ふいにそんなことが気になった。整合性の取れない感情に動かされ、こんな夜中に、逃げるように明るい場所から背を向ける俺の姿はどんな醜悪さで男の目に映っているのか。
 もういやだ。
 虚しくなるのも、申し訳なさを感じるのも、無為に過ごすのも。

 「じゃあ、おなじになろう」

 「……え?」

 聞いたこともないくらい優しい声がふってくる。
 思わず顔を上げれば、伸びてきた指先が俺の目尻を撫でる。なにかを拭うみたいな動きをする指先に促されるように、目尻からなにかが滑り落ちた。

 「ここで会ったのも何かの縁だし」

 さっきも言っていたセリフを男は繰り返す。

 「いっしょに、おなじになろう」

 目尻をすぎて、男の指先が俺の顔の上を移動する。
 「おなじじゃないなら、おなじになればいい」
 やがてその指先は、唇をなぞり。

 「……ん、」

 ほうける俺の口の隙間から、男の指先が入り込んできた。親指の腹でほおの内側を撫でられて背筋が粟立つ。
 鼻からは抜けた声が漏れ俺の羞恥を煽る。男の指は、海水をおびてしょっぱかった。

 「俺はわかったよ。アンタをみたとき」

 「…んぁっ、ふ」

 「ーーーあぁ、俺とおなじなんだな。って」

 そんなわけない。そう言い返したいのに、男の指が舌を弄るものだから言葉にならない。やめて欲しいのに、俺の両手は縫い付けられたかのように体の両脇にくっついて動かなかった。
 縦横無尽に口内を行き来するものだから閉じきれない口の端から涎が溢れていく。

 「見た目とかじゃない。もっと奥でおなじものを抱えてるって」

 「…ぁ、おな、じ?」

 「そう。おなじ。さっきから何回も言ってるだろ?」

 首を傾げながら優しく言われる。幼子に語りかけるような口ぶりに反して、俺をいじる指先はどこか艶めかしかった。

 「だから死ぬなんて寂しいことしないでよ。アンタまで俺を置いていく気なの?」

 「…ん、やめ、」

 「ーーーそれともいっそのことしんじゃう?いっしょに」

 「……っ」

 ねぇ、どっちがいい?

 吐息のように囁かれて、今度こそ背筋がふるえた。
 答えをうながすように舌先から男の指が離れていくのを俺は見つめる。離れたくないとでもいうように指と舌を繋ぐ銀糸を見た瞬間、顔が燃えるように熱くなった。つられるように海水につかって下がっていたはずの温度もあがっていく。
 いっしょに、しぬ。
 落とされた言葉を舌の上で転がせば、それは極上の甘味のように俺の舌をしびれさせた。そのしびれは脳にまで達し、お酒を飲んだときみたいな酩酊感に襲われる。ふわふわと、ゆらゆらと、羨ましくてたまらない男を見上げる。

 「でもやっぱり、ここではダメだ」

 男は、男の世界の中で言葉を紡ぐ。
 俺はそれをおとぎ話を見守る子供みたいに結末が語られるのを待つしかない。物語の外にいる俺はじっと固唾を飲んで語り手の声に耳を傾ける。するりと入り込んでくる男の声は、いとも簡単に俺の思考に沁み渡る。
 なんのために俺はここに居たのか。
 見つめ合う男は誰なのか。
 抱えていた感情も、ぜんぶがぜんぶ。
 言葉を奪われる。視線を奪われる。思考を、奪われる。
 長年俺の中ではびこっていたものの上に今しがた会ったばかりの男の存在が塗り重ねられていく。

 「……いみがわからない」

 「そう?難しく考えすぎなんじゃないの?もっとシンプルに考えてみなよ」

 ぼんやりとする頭でこぼす俺に、男は甘やかに返した。艶美な笑みを深めて、はじめて会うのに慈しみの瞳で俺を見る。その瞳に見つめられると何もかもを見透かされそうで怖くなるのに、それ以上に頭の中がぼうっとして考えることが難しくなる。
 見上げる男の顔がゆっくりと近づいてくる。
 捉えて離さないその眼で俺を見つめながら。視界いっぱいに、男だけがうつりこむ。他には何もない、男だけで世界が満たされていく。顎に男の手がかかり、自然な動きで上を向かされた。触れる指先が湿っている理由に気がついて俺の体は震えと熱に侵される。
 近くにいる。とても、近くに。男の吐息が唇にかかるほど近くに。空気の熱気とは違うそれが唇にかかるたび俺はおかしくなっていくような気がした。立ち入り禁止の海、暗くどこまでも続くその海よりも深い闇色の瞳に魅入られて、俺は酸素の中でせわしなく喘ぐ。その度男の吐息が肺の中にも入り込んできて、まるで臓腑まで男によって侵されているような、そんな感覚に支配される。
 あつい。何も考えられなくなるくらい、あつくてしかたがない。
 空気が動く。そして男も。
 触れる直前、それはもうおかしそうに男がこぼした。


 「どうして生きてるんだろうね、俺ら」


 (あぁ、)

 
 
 


 俺の夏が、死に絶えた。






 END




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