夏悟り 2

 「こら倉田。そんなに一度に花火を持つな」

 「六刀流だぜ!」

 「うわ!倉田花火こっちに向けるなよ!」

 「あはは。けいちん燃えちゃうねー」

 潮の香りがする暗闇の中、鮮やかな火花がいくつも踊る。光の残像をのこして揺れ動く様は綺麗なのだが、いかんせんその火花の先が自分に向けられているとなっては話しは別である。綺麗な花には棘がある。なんて言うけれど、あの花の棘に触れてしまうと火傷を負いかねない。棘よりも遠慮のない灼熱を、あの美しい花はその身に宿しているのだ。
 火薬に火をつけ燃え上がらせているのだから当たり前なのだが、どうやら倉田の頭の中にはその常識がインプットされていないみたいだ。両手に三本ずつ花火を手にもった倉田は、何かをわめき散らしながらその火花の先を俺へと向けてくる。

 「京師討ち取ったりー!」

 「うぉ?!だからやめろって倉田!」

 「けいちんうけるー」

 「なにもウケねぇよ!笑ってる暇があるなら倉田を止めろ馬神栖!」

 「馬鹿って言ったからとめませーん」

 「神栖!京師を挟み撃ちだ!」

 「りょうかーい」

 「く……っ。お前もか、馬神栖!」

 「お前ら…」

 火花のむこうで木橋が呆れている。
 夜の海辺、砂に足を取られ逃げ惑う俺を倉田と神栖が追い回す。倉田の花火はいまだにその勢いをなくしていないし、新たに神栖の花火も加勢してきて俺はあっという間に追い詰められる。
 やばい。後ろは海だ。何を思ったかスニーカーできてしまったので、海の中に入ることは避けたい。まさに背水の陣。成すすべがないとはこのことか。こんなことなら神栖の口車に乗らず、サンダルでくるんだった。「蚊に足の指さされると大変だからさ」って神栖が言うからスニーカーにしたのに、まさかそれがアダになるとは。……は!まさかこれを見越して神栖は俺にスニーカーを履かせたのか!?なんて勘ぐってしまう。

 「げへげへ観念しろ京師!」 

 「観念しろけいちーん」

 「ぐっ…!」

 おばか二人にじりじりと追い込まれる。倉田だけならまだしも、悪乗りの神童神栖くんも加わるとタチが悪い。轟々と光が怪しい動きで暗闇のなかを移動して俺の動きをふうじていく。
 花火のあかりで照らされる奴らのニヤケ顔に腹がたって仕方がない。見てくださいあの楽しそうな顔!憎たらしいったらありゃしませんよ!

 「お前らほどほどにしろよ」

 離れた暗闇から木橋の声が飛んでくるが、俺を囲む二人の耳には残念ながら届かない。二人の餌食である俺の耳にはしっかりと届いたのだが、それだと全く意味がないんだ。意味がないんだよ、木橋。どうせなら今すぐこの二人を、無理なら倉田だけでも回収して欲しいな。なんて…あぁ、そうか、線香花火をしてるから手が離せないんだね、ごめんな木橋!
 まさか一人線香花火に励んでいるなんて思ってなかったから無責任にも木橋を責めてしまうところだった。
 ふぅ。やれやれ危ないぜ。と心の中で汗を拭った時だった。

 「あ」

 「あー」

 「よし!」

 勢いよく燃え上がっていた倉田の花火がひときわ大きな音を立てて消えた。まずは一本。そして連鎖するようにまた一本と夜闇を照らしていた光が消えていく。消えていくごとに暗闇は濃くなり、ついには俺を襲う熱源は神栖のもつ花火だけとなっていた。その花火も倉田よりサイズが小さめのものなので、きっともう少ししたら鎮火するだろう。
 これ幸いと花火の亡骸を両手に立ち竦む倉田の横を走り抜ける。

「ずるいぞ京師!」

 お門違いな非難の声は無視だ。花火がなければただの人。そうなれば恐れるものはなにもない!
 砂に足を取られながら二人から離れるために走る。スニーカーの中に砂が入り込んでくるが、構わず俺は足を進めた。後ろでまた花火の消える音、終わりを惜しむ声がした。潮の香りと、火薬の匂い。わずかな月明かりだけを頼りに俺は走る。

 「神栖!Go!」

 「Goって、犬みたいに言わないでよね」

 まぁ、追いかけるけどさ。
 なんてやりとりの後に砂を蹴る気配がする。その音は迷いなく俺の方へと向かってきていて、恐る恐る後ろを振り返ればうっすらと見える人影。その後ろで「たーまやー!」と倉田の声がお約束な掛け声とともに花火を打ち上げた。どうやら俺を追い詰めることには飽きたらしい。飽き性の倉田があげたそれはまっすぐ夜空に向かって伸びていき、小ぶりながらも花を咲かせる。綺麗だなとその花を愛でたいところだが、確実に近づいてくる人影に俺は前を向いて視界の悪いなか砂浜を駆けていく。
 薄明かりでその表情は見えないはずなのに、俺には弧を描く奴の口元がはっきりと見えていた。
 それに本能が告げるのだ、奴に捕まってはいけないと。

 「あははー。待ってよけいちーん」

 暗い人影が反した明るさで呼びかけてくる。心なしかその語尾にハートマークがついているような気がしてならない。そしてそれは俺にどうしようもない不安を抱かせる。なぜかって?そりゃこういう風にあいつが俺を呼ぶときは、ろくなことがないからだよ!

 「止まらないといたずらしちゃうぞー」

 「い、いたずらってなんだよ!」

 「ロケット花火と爆竹どっちがいい?」

 「ひぃいっ!鬼!鬼畜!人でなし!」

 「あははー」

 やはり俺の嫌な予感な的中していた。
 あろうことか奴は、神栖はその手にロケット花火と爆竹を持って俺を追いかけていたのである。ただでさえ人に向けてはいけない花火の中でもワースト3に入るであろうものをわざわざ選んでくれてありがとうな馬神栖!お前の友情にはさすがの俺も感動で前が見えないぜ!
 心の中で叫んで、走る。走る。走る。
 むかし読んだ漫画の、足腰を鍛えるために砂浜を走っていたスポーツ少年たちをなぜか思い出しながら、体育2の俺は走る。
 限界を訴えてくる足をなんとか騙して背後の気配から逃げようと駆け回るうちに、あれだけはっきり聞こえていた倉田の声がわずかにしか聞き取れないくらいになっていた。かすかになった倉田の声の代わりに、背後の足音はどんどん近づいてくる。ホラーかよ。
 俺たち以外人のいない月明かりの下、夜の砂浜を駆けるのはなかなかにロマンティックなシチュエーションのはずなのに時と場合と相手によってこんなにも雰囲気を違えるとは。

 「ぜぇ、ぜぇ、はー、はー」

 全力疾走しているせいで上がりに上がりまくった俺の無様な呼吸音が漣にまじって、消えていく。聞きようによってはただの変態さんだが、別に聞いているのは神栖だけなので気にしない。

 「けいちーん。そろそろ限界なんだから観念したらー?」

 後ろを走る神栖の息はむかつくほど平常運転だ。さすが体育5。顔も良くて運動もできるとかスゴイデスネー。ウラメシイデスネー。

 「う、うるさい…!俺はまだっ、走れる……っ!」

 「走れてないから言ってるんだけどー。もっとちゃんと逃げてくれないとなんだか俺が弱いものイジメしてるみたいじゃん」

 「みたいじゃなくて!してるんだよ馬神栖!」

 間延びした声にぴしゃりと言い放てば「けいちん被害妄想はげしいね」と今度は哀れみのこもった声が返ってくる。なんてことだ。奴の脳みそにかかるとすべての事実は歪曲してしまうらしい。ある意味優秀な脳みそである。

 「ほらほら、逃げないと捕まえちゃうぞー」

 「くそぉ…!」

 足場は悪いし、運動不足だし、脇腹は痛いし。花火をしに来ただけなのにどうして俺は汗だくになりながら走り回ってるんだろう。そんな疑問が頭をもたげるが、どうしてか足を止めるという選択肢が浮かばない。
 体育の授業でだってこんなに必死に走らなかった。
 汗だくになって。靴の中を砂でいっぱいにして。暗闇の中をがむしゃらに走って。どこまでいっても真っ暗で、どこまで走っても潮の香りはついてきて、どれだけ走っても背後の気配は離れない。

 「けいちーん!」

 「なんだよ!」

 ひときわ大きく名前を呼ばれる。
 神栖しか呼ばない名前に足は止めずに返事をすれば「けーいーちーん!」とまた呼ばれた。

 「だからっ、なんだよ!」

 名前を呼ばれたらちゃんと返事をしましょう。と幼き日々から教えられてきたので、ちょっとイラっとしながらも返事をする。
 走りすぎて息が苦しい。かなり走ったような気がするのだが、ゴールはいっこうにあらわれない。

 「いい加減つかまえてもいー?」

 「あ?……?!」

 神栖の言葉といっしょに、何かに引火する音がした。まさか。そう思った瞬間光の筋が俺の横をものすごい速さで駆け抜けていきあれだけ止まらなかった足がいとも簡単に止まる。走ったからではなく、別の意味で心臓がばくばく騒ぐ。おいおいまさか、冗談だろ。
 文句を言ってやろうと振り返った俺の足元に、何かが飛んできて、そして、それは、大爆発。

 「おま!馬神栖!!お前いま…っ、ぎゃぁぁぁあ!」

 「けいちんの踊り焼きー」

 けらけら無邪気に笑う神栖の顔面を殴ってやりたい。
 ロケット花火を人に向けて放った神栖は、それだけでは飽き足らず火をつけた爆竹まではなってきたのである。
 大音量で次々に爆発する爆竹を前にわたわたと慌てる俺をみて笑う神栖は絶対に悪魔の生まれ変わりである。人に向けてはいけませんとあれだけ言い聞かせてきたのに、どうしてこいつは人の言うことを全く聞かないのだろうか。きっと常識も聞き分けの良さも全部全部生まれてくるときおばさんのお腹の中においてきてしまったんだ。そうに違いない。そうして、置いてけぼりをくらったそれらは弟くんが全部拾ってきたのだろう。
 だから神栖はこうなのだ。
 なんて本人に言ったら「けいちんお仕置きね」と必要のない仕打ちを受ける羽目になるので言わないけれど。

 「つーかまーえた」

 爆竹がやっとすべて爆発し終わってホッと肩の力を抜いた瞬間、暗闇の中から伸びてきた腕に抱きしめられる。
 火薬の匂いにまじってかぎなれた匂いが鼻腔をうめた。

 「けいちん汗だくだね」

 なんて笑う神栖は、予想に反して冷たくない腕で俺を抱きしめる。いつもは他人をはじくようにひやりとしている体温も、さすがに走った後では熱をもつようだ。それでも、俺のと比べるとその熱量は少なく感じる。
 だけど布越しに感じる神栖の熱に、どうしてか安心してしまう自分がいた。

 「あんだけ走ったんだから汗だくなのは当たり前だろ」

 「そう?俺はそんなに汗かいてないけど」

 「お前の汗腺おかしいんじゃねぇの」

 それより。と抱きしめられたまま神栖の腹に拳を当てる。

 「お前、よくもロケット花火と爆竹をぶちまけてくれやがったな」

 「ごめんねー」

 「心がこもってない」

 「うん。込めてないもん」

 「てめぇ」

 「いたい!いたいよけいちーん!」

 恨み辛み。ロケット花火と爆竹の件を咎めるも全く反省の色が見えない神栖の腹を少し力を入れて何度も殴る。ふざけんなよ。もし俺の玉肌に火傷の痕が残ったらどうしてくれるんだ。責任持って嫁……はなんか違うが、何かしらの形で責任を取ってくれるんだろうな。とそんな思いを込めた俺の拳攻撃をくらう神栖は、痛そうには聞こえない声音でそう言うと俺を抱きしめる腕に力を込めてきた。

 「…ぐっ、はなせ、馬神栖…!」

 「いやでーす」

 めきゃめきゃ。いったいどこにそんな力があるのかとびっくりするくらいの怪力に俺の背骨が悲鳴をあげる。こんな音を聞くのはいぜん連れていかれた整体ぶりだ。あの時は気持ち良さがあったけれど、今は違う。息苦しさだけが俺を襲う。断じて神栖いい匂いがするな。とか思っていない。

 「はなせ!はーなーせー!」

 「なら自分で抜け出してよ」

 「さっきからやっとるわ!」

 帰宅部なめるなよ!
 こちとらお前と違って必要最低限の筋力しかついていないんだ。そんな俺にお前の拘束がとけると思っているのか。答えはもちろん否に決まっているだろうが。

 「なら大人しくしてなよ」

 「なんでだよ?!」

 抵抗をやめない俺にやれやれといった感じで神栖が言う。まるで俺の聞き分けが悪いみたいな風に言っているが、どちらかというと聞き分けが悪いのはお前のほうだからな?本当に、お前は少しでもいいから弟くんを見習え。

 「どうしてけいちんは大人しくしてくれないのかなぁ」

 頭上から心底不思議そうな声がふってくるが、俺はその言葉をそっくりそのままお前に返してやりたいよ。いや、大人しくというか、言うことをだな。どうしてお前は俺の言うことを聞いてくれないのかなぁ。
 どこまでも揺るぎない神栖に、なんだか俺は抵抗するのが馬鹿らしくなってしまった。体力と気力の無駄だ。引き離そうと前に突っ張っていた腕を脱力させて、全体重を神栖にかけてやる。「お?大人しくなった」突然の体重負荷にも、神栖の体の軸はぶれない。ぶれることなく、俺の体を支えてくれる。

 「あーもー。神栖のせいでめっちゃ汗かいちゃったじゃん」

 ざざーん。ざざーん。打ち寄せる波の音が聞こえる。
 喚くことをやめれば、夜の静けさと波の音がその存在感を増していく。どれだけ遠くにきてしまったのか、倉田の声は全く聞こえなくなっていた。だけど火薬の匂いが潮風にまざって運ばれてきているので、まだ花火は続けているのだろう。

 「あとでお風呂入ればいいじゃん。むしろ俺の家に泊まる?」

 「あー…」

 神栖の提案に思案する。
 そういえば今日から一週間、神栖の親は旅行に行って留守にしていると言っていたような気がする。弟君も部活の合宿かなにかで家にいないと。つまりは、今神栖の家にはこのやんちゃ坊主しかいないということだ。
 こいつ、メシとかどうするつもりなんだろう。
 そんな不安が頭をよぎる。これでもし料理も作れるとか言われたら俺はもう、神栖と絶交してしまうかもしれない。

 「どうしよかなー。服とかないし」

 「俺の貸してあげるよ」

 ゆらゆらゆーら。俺を抱きしめたまま神栖はゆらゆら揺れる。

 「でも泊まるとか母ちゃんに言ってないし」

 「俺の母さんが、俺のこと頼みますってけいちんのお母さんに言ってたから多分電話すれば大丈夫だと思う」

 「まじか」

 「うん」

 そうか。なら、いいか。
 俺の家より、神栖の家の方が近いし。

 「じゃあ、泊まる」

 「わーい」

 時間的にもそろそろお開きになるだろうし、出来ることならはやくお風呂に入って汗を流したかったので神栖の家に泊まることにした。それに暗がりのなか一人家までの道を歩くよりは、こいつと馬鹿なことを言い合って帰る方が楽しいし。
 せっかく夏休みが始まったのだ。友達の家にお泊まりというイベントを逃してしまうのはもったいない。

 「あと、いつまで抱きついてんだよ。あつい」

 「んー」

 「んー。じゃない」

 離せ。ともう一度くりかえせば、俺の首元に顔をうずめる神栖。何度か甘えるみたいに頭をグリグリしてくる。その仕草に、一人っ子の俺にはないはずの兄性が刺激される。
 長男坊のくせに、こいつは人に甘えるのが上手なのだ。男の俺でもこうなのだから、こいつに恋する女の子たちはたまったものじゃないだろう。どこまでも自然に甘えてきて、なんでもしてあげたくなるような、そんな気分にさせる。きっとこいつは自分の魅せ方が上手いんだろうな。どういう風に言葉を吐いて、行動すればいいのか無意識的にも、意識的にも分かっているんだ。そのくせ自分の深いところには一切触れさせない。相手の深いところは晒け出させるのに、自分の心は深く深くしまい込む。

 (ほんと、タチが悪いよな)

 だからこそ神栖はとどまらない。
 だからこそ神栖は人を惹きつける。
 届きそうで届かない。
 そばに在るようで、そばに居ない。
 そのジレンマに、みんな神栖の特別になろうと必死になる。我こそはと群がる人たちの中で笑う神栖は、周りの思いに反して誰も求めてなんかいなかった。笑って、そこにいるだけで、神栖から誰かに手を伸ばすことはない。はたしてそのことに気がついている人間は俺たち以外にどれだけ居るのか。

 「けいちん」

 俺の首元に顔をうずめた神栖がぐずるような声を上げる。どうやらワガママ神栖くんのご機嫌をそこねてしまったらしい。のだが、あいにく俺には何が神栖の機嫌をそこねてしまったのか分からない。分からないけれど「なんだよ」と、どうしたのだという意味も込めて返事をする。
 いい加減暑いし絵面的にも厳しいので離してほしいなと思っていれば、なにか肉厚で温かいものが首筋を這う感触がした。
 ねっとりとまとわりついて離れたその感触に、俺の体は一気に筋肉を収縮させた。

 「…なにしてんのお前」

 まさにあっけらかん。今一体なにが起きたんだ?と推測しながらも理解ができないので聞いてみる。

 「しょっぱい」

 だろうな。だって汗だし。
 ペロリと、自分の唇を舐めてそう言う神栖に心の中でつっこむ。埋めていた顔を上げ、俺を見下ろしてくる神栖に俺の頭の中はハテナでいっぱいに埋め尽くされていた。
 なにがしたいんだ、こいつ。
 神栖の奇怪な行動はなんどか目の当たりにしてきたけれど、今のは俺の理解の範囲を超えている。男友達の首を舐める意味もわからないし、ていうか、そもそも今首を舐めるタイミングだったか?
 混乱をきたす俺だが、俺を見下ろす神栖はどこまでもいつも通りだった。

 「けいちんのなら甘いかなと思ったんだけどな」

 ついに神栖が宇宙語を話しだしてしまった。

 「あぁ、でもーーー」

 左頬に手を添えられる。右手は、俺の腰を力強く引き寄せた。いつもより温度が高くなっている神栖の手のひらに、ドキドキする。
 左頬の手にドキドキしていれば、暗闇の中神栖の顔が近づいてくる。どんどんその顔は近づいてきて、まつげの長さまではっきり見えるほど近づいてきて、ついには近すぎて神栖の顔はボヤけてしまった。
 ボヤけても神栖の瞳が俺をまっすぐ見てきているのが分かる。俺はまるで瞼をこじ開けられてしまったみたいに目をまん丸にして、その瞳を見つめ返した。
 波の音、潮の香り、神栖の背後に欠けた月が浮かんでいる。
 見つめた瞳はこの暗闇よりもずっと深くて、その奥でなにかがきらめいた。ような気がした。

 「こっちは、あまかった」

 神栖が月を背負って微笑む。ゼロ距離から解放されたおかげで、神栖の微笑みが恐ろしいほどしっかりと見える。俺に触れたその唇も、よく、見える。
 ゴクリ。喉が鳴る。触れられた唇から外気とは違う熱が広がっていく。神栖に触れられているところから炎が燃えだしてしまいそうだ。

 「…なにしてんの、お前」

 熱い。顔が体が、なにもかもが。
 大きすぎる熱量に、俺は逃げだすこともできずに先ほどと同じ問いをするしかできない。

 「ねぇけいちん。もういっかいしていい?」

 俺の質問は無視して、神栖が首をかしげる。
 もういっかい。もういっかいとは何のことだろうか。ぐるぐる。熱に浮かされた頭ではうまく今の現状を理解できない。だけど神栖は俺の答えを待つようにじぃっと視線を向けてくる。まるで待てを言い渡された犬みたいに、俺のGoサインを待っている。

 「えっと、あー…、え?」

 だけどやっぱり俺の頭はハテナでいっぱいで、うまい言葉が見当たらない。
 どうしよう。なにがだ。いったい、俺はなんと答えればいい。
 思考は逃げをうとうとするのに、俺を見る神栖の目がそれを許してくれない。お前ってそんな顔できたんだな。とか答えにもならないことが頭に浮かぶ。
 その時、俺の視線の先で、神栖の首筋に汗が流れた。熱を知らない、熱を弾く男の首筋に、一筋の汗が流れた。月明かりは想像以上に、俺たちを照らす。
 伝い落ちて、それは神栖の着るシャツに吸い込まれていく。なぜだか俺はそれがもったいないと思ってしまった。何よりも先に、惜しむ気持ちがわきおこる。
 いぜん頭は熱に浮かされ判然としない。脳内にまとわりつく熱気にゆっくりと思考力を奪われ、神栖の流れる汗を見た瞬間から熱が増して仕方がない。
 俺はかかとを上げ、背伸びをする。
 左手は神栖の服を掴み、右手は俺の頬に添えられた神栖の手を握る。ふくらはぎがピンと伸びる。砂浜を走った後に足に負担をかけるのはキツイけれど、そんなことも頭の中から抜け落ちていた。「けいちん?」困惑を乗せた神栖の声が聞こえる。だけど俺は構わずその距離を詰めていく。
 そうして目的地にたどり着いた俺は、ゆるりと口を開く。

 「…なにしてんの、けいちん」

 俺を見下ろす神栖は、それはもうおかしな表情をしていた。イケメンの間抜け面に笑いを堪えつつ、俺はさっき神栖がしたようにペロリと唇をなめてみた。

 「しょっぱいな」

 やはり、汗は汗だ。それがたとえイケメン神栖のものだとしても。体内の塩分を含んだその液体が、甘いなんてあるわけがないのだ。だけど、どうしてだろう。

 「でも、嫌いじゃない」

 「……っ」

 自分でも不思議なくらい、舐めとったそれに嫌悪感がわかなかった。普通なら他人の汗を口に含むなんてことは嫌なはずなのに、嫌悪のけの文字も出てこない。
 どうしてかな、不思議だ。
 でもそんな俺以上にびっくりして、不思議がって息を呑んで固まる神栖を見るとまぁいいかとなってしまう。
 浮かせていたかかとを砂の上に落とす。急激な運動を強いられた足の筋肉がぴくぴくと痙攣を起こしていた。はやくお風呂にはいって、眠ってしまいたい。とびきりに、ガンガンにクーラーをきかせて、布団に丸まって眠ろう。
 考えなければいけないことはもっと他にもあるはずなのに、考えるのは問題解決にもならない、他愛もないことばかり。
 頭のなかがふわふわで、まるで夢と現実の狭間を行き来しているようだった。

 「けいちん」

 頬に添えられた神栖の親指が、俺の唇をなぞる。柔らかい指の感触と、俺の名前を呼んでくる神栖の声。いつになく、神栖が近くにいる。

 「神栖…」

 「…なに」

 俺の呼びかけに答える声は、いつもより硬い響きをまとっていた。いつもはひょうひょうとしているのに、それがなんだかおかしくて笑ってしまう。
 俺が抱くこの熱と、同じものを神栖も抱いているのだろうか。思考力を奪われて、考えるよりも前に体が動いて、……いつもだったら隠せる感情がひょっこりと顔を出す。

 「夏って、こわいな」

 人をその熱量をもって翻弄する。翻弄されて、ついさらけだしてしまう。
 絶対に自分はそうならないと思っていたのに、どうやら例にもれず俺もその毒牙にかかってしまったようだ。
 やれやれと笑えば、神栖も人を食ったようなものではない笑みを浮かべる。

 「そうだね。夏はいけないや」

 抱きしめられる。深く強く。
 縋るように首元に顔を埋めてしまった神栖の背中をなでながら、俺は自分を包む体温になんともいえない感情を抱く。
 夜の浜辺、月明かりに照らされる俺たちの姿がどうか誰にも見られませんように。
 この感情も、このぬくもりも、誰にも見咎められないように波にのせて流さなければ。
 バレないように、鼻から息を吸う。そうすれば神栖の匂いが鼻腔をみたし、暑さとはちがう意味で頭がくらりとした。
 夏は、人を馬鹿にする。
 その暑さで思考力を奪い、その開放感でいつもより深い部分の心をさらけださせ、なんでもできるような、なんでもしていいような、そんな気持ちにさせる。
 だけどそれはあくまでも気がするだけで、本当にしたいことは出来ないようになっているのだ。
 一呼吸おいて、その背中をぽんとたたく。

 「戻ろうか、神栖」

 「……うん」

 でも、もうちょっとだけ。
 俺の提案に、くぐもった声がかえる。俺はそれに「分かった」とかえして口をつぐんだ。これ以上口を開いたら、なにかとんでもないようなことを言ってしまいそうな気がしたからだ。友人の汗を舐めておいて、いまさらな感は否めないけれど。
 しばらくして、神栖が顔を上げた。
 その顔は、いつも通りの神栖の表情に戻っていた。自然に体を離してへらりと笑う。

 「戻ろうか、けいちん」

 「おう」

 「余った爆竹けいちんのパンツの中にいれてもいい?」

 「やったら絶交だからな」

 「けいちん小学生かよ」

 「うるせぇ」

 軽い調子で言い合いながら、肩を並べて歩き出す。まるで、先ほどのことなんて無かったかのように。俺たちはいつも通り、言葉を交わしていく。
 ざくざくと、砂を踏み歩く。靴の中に入り込んだ砂がわずらわしくて片足ずつ脱いで砂を落とすとかなりの量が入っていたらしく、その量に神栖が「砂やべぇ!」とけたけた笑う。誰のせいだと小突けば「スニーカーなんかはいてきたけいちんのせい?」と首をかしげる神栖にあぁ、そうだな。お前はそういうやつだよな。と遠い目になってしまう。

 「後で覚えておけよ神栖」

 「俺とりあたまだから覚えてられなーい」

 「嘘つけ」

 とりあたまな奴がテストであんな高得点を取れるわけがないだろう。お世辞にも真面目とは言えない授業態度なのに、奴は毎回張り出されるテスト順位表の上位に食いこんでいる。家でこっそり勉強しているのかもしれないけれど、本当に嫌味なほどハイスペックさである。
 弟君みたいに真面目に勉強をしている姿を見せてくれれば素直にその努力を認められるんだけどな。つい神栖のことになると恨み言のようになってしまう。

 「本当なのに。ーーー俺、忘れるの得意だよ」

 呟くように言われたセリフになぜだか俺はなにも返せなかった。
 小さな声でささやかれたそれを、波の音で聞こえなかったふりをして歩き続ける。
 そんな俺に気づいているはずなのに、神栖はそのことに対して何も言わなかった。だけど一瞬の間のあと「けいちんは俺よりもとりあたまだけどね」と軽口の続きを始めてくれる。

 「俺に理解できない授業をするのが悪い」

 「うわー。責任転嫁してる」

 「違う。これは事実だ」

 「先生に言っとこ。『京師くんが先生の授業が下手くそすぎて全く理解出来ませんって言ってました』って」

 「ごめんなさい。嘘だから冗談だから先生に言いつけるのだけはやめてください」

 とんでもなく恐ろしいことを言う神栖に俺は光の速さで慈悲をこう。もしそんなことをされたら俺のお先は真っ暗である。深淵の底が待ち受けている。俺はまだ、その底を覗き見るつもりはない。

 「けいちん必死すぎ。言わないから安心しなよ」

 「本当に?」

 「本当に」

 そう神栖は言うけれど、でも相手は神栖だからな…。と本人が聞けばヘソを曲げそうなことを考えてしまうのは、神栖の日頃の行いが悪いせいである。
 だけど人を疑ってばかりじゃあれなので、俺は神栖の言葉を信じることに決めた。

 「おーい!神栖ー!京師ー!どこですかー?」

 覚悟を決めたと同時に、遠い暗がりの中きら聞きなれた声に名前を呼ばれる。
 その声は他の誰でもない倉田のもので、どうやら帰りの遅い俺たちを探しにきてくれたらしい。「あいつらどこまで追いかけっこしに行ったんだ」という木橋の呆れ返った声も聞こえてくる。

 「おー。探されてるね、俺たち」

 「なー。探されてるな、俺たち」

 二人同時に足を止めて、しみじみ言葉を交わす。

 「神栖の『か』は神栖のかー!京師の『け』は京師のけー!」

 そのままである。
 あまりにも捻りがなさすぎて俺と神栖は立ち尽くした。
 まぁ、でも、倉田だから仕方がないといえば仕方ないか。だって倉田だし。
 そんな空気が俺たちの間にただよう。

 「木橋の『き』は北原白秋のきー!倉田の『く』は空海のくー!」

 「なんでお前らだけ偉人なんだよ!?」

 「あ。神栖と京師発見!」

 あぁ。お馬鹿さんだなぁ、倉田は。なんてのんきに聞いていれば日本の偉人の名前を出した倉田に驚き半分、反論半分でツッコミをいれてしまう。「じゃあ俺は葛飾北斎で、けいちんはけしかすかな」と隣で失礼なことをのたまう奴は無視だ。
 ぴょんこぴょんこ跳ねるように走り寄ってくる倉田と、やれやれ顔で歩いてくる木橋。我らが長男坊木橋くんはひとつため息をついて、一言。

 「お前ら遠くに行きすぎ」

 「ごめん木橋。でもそれもこれも全部全て神栖のせいだから」

 「けいちんが逃げるからじゃん」

 「ロケット花火と爆竹を向けられて逃げないわけがないだろうが」

 「俺めっちゃお腹すいた!」

 空気を読まない倉田の発言が俺たちの会話をぶった切る。絵面的には長男坊に怒られる次男三男と、自由気ままに振る舞う末っ子だろうか。三人同時に言葉をなくし、そして三人同時に小さく吹きだした。

 「そろそろ帰るか」

 笑いながら言われた木橋のセリフに、俺たちはそうだなと歩き出す。
 倉田は大きな声で変な歌をうたいだし、それを木橋がたしなめる。そんな二人のやりとりを俺と神栖は笑いながら眺めている。いつも通りの光景、いつも通りの雰囲気に俺は少しだけ肩の力を抜いた。
 さっきまでまとわりついていた熱も無くなった。暑いことに変わりはないのだが、思考力を奪っていくような熱は過ぎ去った。体を包み込んだ熱も、すぐに別の熱にすり替わるだろう。
 残念だと、こぼす心には気づかないフリをして、何事もなかったかのように俺と神栖は日常の輪の中へと戻る。すべてを夏の暑さのせいにして、抱いた感情も熱も、この夜の海辺に置いていく。
 だけど。それでも。

 「たーまやーー!!」

 「もう花火は終わってるからな、倉田」

 「なんか買ってかえる?」

 「あー。ファンタとポテチ食べたい」


 あいつに触れた唇だけは、いつまで経っても熱を帯びたままだった。
 







 

 END
 



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