罪証の夜に




 この行為は、懇願だ。




 夜になれば人は眠る。
 昼間活動した分の疲れを癒すため深い眠りへと落ちていく。
 両針は共に真上を過ぎ、静けさを圧縮した空間は闇に包まれている。空気さえ眠りにつく、そんな時間。俺は一人体を起こしベッドから足を降ろした。裸足から伝わる床の冷たさに一瞬だけ足を引っ込め、恐る恐る床へと降ろす。春が近いとはいえ、夜はまだ冷えるし薄着で歩くには空気も冷たい。
 床に足を降ろし、薄手の寝間着の上から放り投げられたパーカーを掴み羽織ってから俺は足音を忍ばせ扉の方へと歩いていく。
 別に、トイレに行きたくて目が覚めたわけではない。なぜならこの目覚めは意図的のものであったし、そもそも俺は眠ってなどいなかった。だって俺は、俺以外の人間が寝静まるのを今か今かと待っていたのだから。布団の中で身を丸め、指折りこの時間を待っていた。
 そろりと手を伸ばしドアノブに触れる。少しでも小さな音で済むように、細心の注意をはらってドアノブを降ろした。何度も繰り返したお陰か僅かな音を立てるだけで開いた扉は新たな闇へ俺を誘うかのように細長く口を開いた。身一つ通れるほどに開けたその隙間から廊下へと出て、完全に閉じ切らないように扉をしめる。
 ここまででひとつ吐息をはいて、俺はどくどくと煩い心臓を隠すように胸に手をあてた。下手をすればこの心臓の音が聞こえて彼が目を覚ましてしまうかもしれない。と思うほど何度目となってもこの心臓は落ち着きをみせてはくれなかった。
 大丈夫。大丈夫。
 自分の部屋の前で息を整えながら言い聞かせる。心臓は変わらず大きな音をたてているけれど、この音が彼に聞こえることはないのだ。爆音のように聞こえているのは俺だけで、この音が外にもれだすことはないのだから。
 強く胸元の服を掴みすぎて手が血の気を無くしてきた頃、ようやっと俺は本来の目的を果たすため動き出した。衣擦れの音さえ出さないようにゆっくりと手を降ろし、足を進める。冷たい床の上を歩くたび足の温度が奪われていく。冷え性でもないのに手も氷のように冷たくなっている。だけど温度に反して手のひらはじっとりと汗で湿っていた。
 一歩。
 進んでいくたび耳元で爆音が大きさを増していく。潜めようと思っても浅く速くなる呼吸音が空気を揺らして緊張は高まっていくばかりだった。
 だけど、それでも俺は、この足を止めることは出来ないのだ。
 距離にすればわずか二メートルしかない距離を果てしなく長く感じる。
 まるで途方の無い荒野を歩いているような心細さと、目的の場所には辿り着けないのではないかという不安に襲われる。でも、それらは俺の錯覚というか思い込みで、実際には二メートルの距離しかそこには存在しない。
 そんな風に感じてしまうのはきっと、俺の抱いているこの感情のせいなのだろう。
 表には出せない、後ろめたい感情があるからこそただの距離をそうとは思えなくなってしまったのだ。
 長い長い、けれども短い距離を歩き終え、俺は目的の場所へとたどり着く。
 目の前に立ちはだかるのは俺の部屋と同じ形をした扉だ。でもこの扉が意味することは全く違う。だって同じ扉でもこれは俺の部屋の物ではないし、なによりこの扉の向こうにいる人間が俺にとっては重要だった。
 静かに、闇に溶け込むように息をついて、閉ざされたドアノブに手を伸ばす。
 かちゃりと小さな音を立てて開いた扉に俺の鼓動はけたたましさを増していく。加速する心音に呼吸を乱されないよう息を潜めて、さっきと同じように僅かなスペースを開けて身を滑らせる。その途端鼻腔をくすぐる香りに頭がくらりとした。
 自分の部屋とは、何もかもが違う。
 そんな当たり前のことを思いながら俺は暗闇の中だというのになんの迷いもない足取りで部屋の奥へと進んでいく。床に敷かれた色違いのラグを踏み越えて、ガラス張りのローテブルを避けて、意外に整理整頓された部屋の中を歩いていく。
 気配を殺して、足音に注意して。
 そしてついに夜闇に慣れた目がこんもりと盛り上がったそれを認めた。緩やかに上下する山と僅かに聞こえてくる呼吸音が目の前の人物が今日も深い眠りの中に居ることを教えてくれる。数秒、その様子を観察して彼が起きないことを確認する。
 昔から彼は一度寝たらなかなか起きないタイプだった。それは今でも変わっていないらしく、ちょっとやそっとの事じゃ彼はその眠りから目覚めることはない。
 まだ自分達の部屋が一緒で、同じ部屋で寝ていた頃、彼は自分のベッドから転げ落ちても起きる事なく寝続けていたくらいなのだ。大きな音にびっくりして起き上がってしまったのは俺の方で、床に落ちてもなお眠り続けている彼を見てどこか変なところでも打ってしまったのかと心配し、けれど聞こえてきた健やかな寝息に呆れ返ったのを覚えている。
 あの頃は、まさか自分がこんな感情を彼に対して持つなんて思いもしなかった。あるべき風に成長していくと思っていた感情は、いつの間にかこんなにもカタチを変えてしまっていた。
 闇の中で佇む俺の耳には変わらず彼の寝息が滑り込んでくる。
 小さい頃から変わらない横向きに体を丸めて眠る彼に溢れ出てくる感情は大分前にカタチを変えてしまった。と、どこか他人事のように思う。昔は、こんなにも彼に触れたいだなんて思わなかった。触れて欲しいだなんて、願わなかった。いつから、いつから俺は変わってしまったのだろう。

 「  」

 感情を言葉にできない俺は小さく彼の名前を呼ぶ事しかできなかった。
 けれどそれも両耳にヘッドフォンをつけて眠る彼の耳には届かないだろう。何の曲を聴いているのかは分からないけれど、このヘッドフォンのお陰で彼の名前を呼ぶ事が出来るのは確かである。深い眠りと、声を遮るヘッドフォンという隔たりがあるからこそ、俺はこうやって彼の元へとこっそりやってこられるのだ。裏を返せば、それらがなければ俺が毎夜彼の部屋に忍び込むなんて未来は起きなかったという事なのだが。
 そうすれば昇華できない想いを抱え日々を過ごすだけで、こんな、もしバレてしまえば終わりな危険をおかすことも無かっただろう。
 けれども人とは何処までも強欲な生き物で、僅かでも可能性があるとつい欲してしまう。縋り付いてしまう。それはおもれも同じである日気がついてしまった可能性に、逆らうなんて出来なかった。
 駄目だ駄目だとは思いつつ、もう何度もこの部屋へと忍び込んだ。
 生まれた時から側に居る、血肉を分けた彼の元に闇に紛れて忍び寄り、光の下では言葉にも態度にも出せない想いを吐き出し続けている。
 きっと、俺のこの行為は普通ではない。そんな事、考えるまでもなく答えは出ている。家族に抱くには色を変えてしまった感情を持て余したあの時から、俺はこの家族の中で異質の存在となってしまった。
 だけど、それでも。

 「…ごめんな。本当に、ごめん」

 この想いは消えること無く俺の中で燃え続けるのだ。何度水を打ちかけても消えてはくれない。むしろ嘲笑うかのように隠せば隠すほど、時が経てば経つほど、抑えきれないくらいの大きさで轟々と燃え盛るばかりであった。いっそのことその炎で俺を燃やし尽くしてくれればいいのに。けれどその炎は決して俺の全ては呑み込んでくれなかった。火の中心に理性とか罪悪感とかを包み込み、燃え尽きない火力で甚振るように焼き続ける。
 まるでその痛みは俺への断罪みたいだった。
 道を間違えてしまった俺に対する贖罪の火。
 それでも、俺は求め続けるのだろう。
 夜闇に慣れた目で、壁の方を向いて眠る彼の後頭部を見つめる。まだ染めたことのない髪の毛が、俺のものとは違って滑らかに指の隙間をすり抜けていくのを知っている。日の下に出れば痛みを知らない髪に天使の輪っかが出来るのも。身長だっていつの間にか追い越されて、今ではどちらが兄か分からない体格差になってしまった。中学から始めたバスケのお陰で身体は引き締まっているし、バスケをする姿は女の子達がキャーキャー騒ぐほど格好いい。昔はいつだって俺の後ろを付いて回っていたのに、いつの間にか兄離れをし俺の事を名前で呼ぶようになった。声変わりして低くなった声で呼ばれる名前に何度胸を高鳴らせたことか。
 そんなことを思いながら俺はゆっくりと彼の眠るベッドへと乗り上がる。俺の膝の下で低反発のマットが沈む。かなりの値段のするそれは些細な音も吸い込むように静かに俺を受け止めた。
 起きるな、起きるな。ーーー起きて欲しい。
 矛盾した感情に、心臓の脈打ちは酷くなる一方だ。体内を駆け巡る熱に、吐息さえ色を持ちだした。肩までかけられた布団と髪の毛の間からのぞく白く浮かびあがる首筋から目が離せない。あの首筋に、所有の印を付けられたなら。そして彼から付けてもらえたなら。そんな叶わぬ事を夢想して何度自分を慰めたことだろう。その度そんな自分に絶望して、けれどもそれ以上に彼の熱を求めて。
 兄としての矜持なんてものはとうの昔に無くしてしまっていたのだ。今の俺は兄ではなく、ただの恋に溺れた一人の人間でしかなかった。
 決して抱いてはいけなかった感情を持ってしまった、愚か者。
 マットについた膝に体重をかけて、眠る彼へと顔を近づけていく。近づくたび鮮明になる寝息に、強くなる香りに、何度この行為を繰り返そうと慣れることはない。ギシリ。彼の背後に手をついて傾ぐ体重を支える。俺の体重を乗せられて沈むベットに、それでも彼は起きる様子を見せることなく眠り続けていた。それに安堵して吐き出した息が彼の髪にあたり、さらりと流れた。

 「…ん、」

 「…っ」

 短く上がった声に彼が起きてしまったかと身を強張らせる俺の不安をよそに、より体を丸めただけで再び寝息を立て始めた彼に今度は心の中で安堵のため息をつく。
 ここまで近づいてもなお眠り続ける彼になんだか心配になりつつ、でもそのお陰で自分のこの行動が成立しているのだと思うと複雑な気持ちになる。家の中、それも自分の部屋なのだから安心するのは当たり前なのだが、ここまで無防備で大丈夫なのだろうか。もしよからぬことを考える輩に寝込みを襲われたらひとたまりもないだろう。と自分の事は棚に上げて不安に駆られているのだから本当に救いようがない。

 「……アキ、」

 小さく名前を呼んでも彼が起きる気配はない。目と鼻の先。眠る彼は穏やかだ。穏やかじゃないのは俺の心臓と抱いてしまった感情だけだろう。この静かな夜の中で俺の感情だけが荒れ狂っている。
 俺が堂々と触れられない彼に触れる女性達を見るたびどうしようもなく嫉妬した。彼と楽しそうに笑い合っている友人達が羨ましかった。いつの間にか俺が出来なくなっていた事を、いとも簡単にやってのけられる彼らがずるくて仕方がなかった。俺はもう、こんな風に夜中こそこそと忍び込んででしか彼に触れられないというのに。ずるい、ずるい、何の気なしに彼に触れられるなんて。まるで小さな子供みたいに心の中の俺が駄々をこねる。
 止まっていた動きを再開し、僅かな距離を埋めていく。強くなる香りに脳は痺れ、ベットについた手を強く握りしめた。体を丸めて眠る彼、ヘッドフォンをつけて、その鼓膜を揺らしているのはどんな音楽で、一体どんな夢を見ているのだろうか。その夢の中に、ほんのちょっとでも俺はでてきているのかな。
 かがんだせいで頬に流れてきた髪の毛をおさえて、俺は瞼を閉じてより深い闇を招き入れる。そうしてちいさく、夜闇に消えてしまうよう、罪を落とすのだ。

 「……すき」

 唇に触れた感触。闇に溶けた言葉。
 この瞬間、俺はいつも強く願うのだ。
 叶わぬ恋など、この冷たく広がる闇に呑み込まれてしまえばいい。
 暗く、深く沈んで、二度と浮き上がってこなければいい。
 消えてしまいたくなりながら、そんな事を思う。
 静けさを圧縮した暗闇の中、繰り返される俺の罪。自分で断罪できない俺は、いつか彼がその目を開けて俺を断罪してくれるのをこの闇の中、息を殺して待っている。
 そうして彼がその両目を開けて俺の醜い姿を映すまで、俺の夜は罪を重ねていくのだろう。

 「…」

 纏う闇、落とす名前、抱いた罪、触れた感触、それらはすべて、言葉にできない俺の懇願だ。面と向かってでは何一つできない俺に、唯一残された方法だ。






 「…好きになって、ごめんな」
 


 俺の罪は、まだあけない。



 END



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