02



 「いやぁ、まさか真愛くんにまたここで逢えるなんてね」

 もしかしてこれって運命ってやつなのかな?

 と目の前で楽しそうに笑う男に、俺は何も答えることが出来なかった。
 俺の口は言葉を忘れてしまったかのように吐息だけを零し、視線は緩く笑う男に釘付けで、指先ひとつの動きでさえ男に支配されたかのように動かない。それなのに心臓は今にも壊れそうなくらいバクバクと血を循環させて、全力疾走にも程が有る。
 俺だって、またここであんたの声で名前を呼んでもらえるなんて思わなかったよ。
 思わぬ遭遇に驚いて腕に抱えていた資料が滑り落ちる音をどこか遠くに聞きながら、俺は馬鹿みたいに目の前でネクタイを緩める男の姿に、魅入っていた。もしかしたらこれは俺の願望がみせた白昼夢かもしれない。そんな想いから目の前の人物を見る目に力がこもる。

 「あらら。なんか色々と落っことしてるよ。意外とおっちょこちょいなんだね」

 なんて嬉しそうに言ってくる男に、落としてしまったのはあんたのせいで、別に俺はおっちょこちょいでもなんでもない。と言い返したいのに、やはりというか俺の口は浅く呼吸を繰り出すだけだった。
 放課後の資料室、教師から頼まれて資料を置きにきたその場所に居た先客に俺の全神経が持っていかれる。
 もしかして…と期待する心が無かったとは言い切れない。けれど、まさか、またこの場所で、彼に逢えるなんて思わなかった。
 期待する心を押し付けて開いた扉の向こうに、彼が居るなんて。

 「あぁ、そうだ。この間のことちゃんとナイショにしてくれてありがとね。お陰で山センのねちっこい説教受けずにすんだよ」

 彼の言う山センとは生活指導の先生の事で、バレバレのハゲを隠した七三わけとねちっこい説教で有名だった。故にあまり生徒からの評判はよろしくない。
 そう言えば前に一度、彼も下半身事情で山センの説教を受けたと聞いたことがある。そして山センに『女の子にモテないからって、僻まないでくださいよ山内先生』と言い切ったツワモノであるとも。それからというもの山センの彼に対する突っかかり具合が凄まじくて、あの逸話を知る生徒は皆山センに哀れみの視線を向けていたっけ。そりゃ学校一のイケメン(それもふたまわりも年下)にあんな事言われたら腹が立つってもんじゃないよな。きっと山センの心の中の何かが一本も十本も百本も折れたに違いない。まぁ、俺には関係のないことだからどうでもいいけど。
 今の俺にとって何よりも優先すべき事は目の前に存在する彼だ。彼の一挙手一投足さえ見逃したくはなかった。

 「今日は、一人なんだな」

 自分でも脈絡のないと思う問いかけに、男は虚を突かれたような表情を浮かべたのち、いつも遠目で見つめるしかできなかった笑みを浮かべた。その笑みに、俺の心臓が大きくはねる。

 「なんか今日は一人でいたい気分だったから。…でも、一人で居て正解だったな」

 「…正解?」

 「うん。一人で居たおかげでいい事あったから」

 「そっか…」

 いい事ってなんだろう。聞いてみたかったけどそこまで踏み込む勇気は無くて、そんなそっけない返事しか出来ない自分に自己嫌悪。気の利いた返しもできず会話が途切れる。それでも、この場から去ろうという考えが浮かばないのだから、自分の現金さに笑ってしまう。
 しばらく、何も動かない時間が続いた。
 男は変わらず笑みを浮かべながら俺を見ていて、俺は加速する自分の心音を聞きながら男を見つめていた。
 足元に散らばる資料も、放課後の部活に励む生徒達の喧騒も、何もかも遮断されてまるで世界に二人きりしかいないようだーーーとそんな事を考えてしまった。
 そんな事ありはしないのに。あぁ、でも夢の中でくらいならそう望むのは自由だろうか。彼と俺の二人だけの世界を、いや、二人だけの世界なんて大層なものは望まない。ただ俺は、彼に認識される世界にいたい。ただそれだけなんだ。

 「…真愛くんは、先生のおつかい?」

 「え?あ、うん」

 「そっか、大変だね」

 おつかいだなんて子供っぽい言い方にでさえドキリとしてしまう。
 二、三歩つめれば届く距離、俺の名前を静かに呼ぶ彼の声、何よりも彼の瞳に俺がうつりこんでいるのが信じられない。やっぱり自分は白昼夢の中にいるに違いない。でなければこんな風に彼が俺の名を呼ぶことも、親しげに笑いかけてくれるなんて奇跡が起こるはずないんだから。
 そうか、これは夢なのか。
 バクバク鳴り響く心臓や、熱を持つ頬がこれは現実だと訴えかけてくるけれど、許容できない現実が俺の中で夢となる。
 夢の中でならば、ずっと不思議に思っていたことを口にしてもいいだろうか。現実では踏み込めない、彼の中へと踏み込んでもいいだろうか。
 そう考えながら、夢だと認識した俺の脳は言葉にしろと伝令を送り出していた。

 「あんたって、何人も好きな人がいるの?」

 こぼれ落ちた声は思ったよりも掠れていた。
 今にも擦り切れそうな俺の恋心のように掠れた言葉はちゃんと男の耳に届いたらしく、男が愉快そうに口元を歪める。
 威圧するような男の雰囲気にこれは夢だと己に言い聞かせて、逃げ出しそうになる足を押さえつけて男の言葉を待った。

 「…ねぇ、それは一体、どういう意味かな?」

 こてんと首を傾げる男から目に見えないはずの色香が溢れ出すのが分かった。ジリジリとした熱がまとわりついて、肌がざわつく。
呑み込まれる。
 そう思うほど、男から放たれる空気がその場を満たしていた。

 「あれでしょ。真愛くんは俺が色んな女の子とエッチするのは、エッチしてきた女の子達全員の事を同じように好きだから。って思ってるんでしょ?」

 「…違うのか?」

 「違わないけど、違うかな」

 男が色んな女の子達と関係を持つ理由。を自分なりに推測して言葉にしてみたが、返ってきたのはどこか曖昧で意味深なものだった。その煮え切らない返答に『関係を持つイコール好いている』という方程式が頭の中で成り立っている俺は困惑した。考えに考えて、もしかしたら男はどこまでも独善的で利己的な博愛主義者なのかもしれないと予想を立ててみたのだがどうやらそうではないらしい事がその反応で分かる。
 ならば一体どんな理由で、彼は関係を求めるのか。
 そういった経験が全くない俺には、男の思考回路が皆目検討つかなかった。

 「あはは。そんな思いつめた顔しないでも簡単な話だよ。…まぁ、きっと真愛くんには理解出来ない理由だろうけどね」

 ぐるぐる悩む俺を見て男は言う。
 けれど男は核心に触れる事はなく、曖昧な言葉と曖昧な表情で笑って本心を見せてくれなかった。
 ーーあぁ、夢の中でさえその内側へは入れてくれないのか
 そんな考えがよぎったが、そもそも自分は彼を語れるほど彼の事を知らなかったと、横たわる絶対的な距離に寂しくなる。それと同時に彼の事を知りたがる欲求が心の中で大きく膨れ上がっていった。
 知りたい。
 知りたい。
 何よりも、彼の事が、知りたくて堪らない。
 だから俺は、鉛のように重い口を開く。

 「…セックスは、本当に好きな人としかしちゃいけないって、言われた」

 「うん」

 「言葉に出来ない想いを、相手に伝えるためにするものだって」

 「うん」

 「…好きだから、愛してるからしたくなるんだって」

 「…うん」

 俺の言葉に男は静かに相槌を打つ。
 そこには肯定も否定も疑問もなかった。
 我が子に質問される母親みたいに、男は黙って俺の言葉に耳を傾けている。
 ならば俺も幼子のように無垢なフリして核心に触れてやる。

 「でも、お前は違うのか?」

 ひたと見据える。
 絡み合った視線の向こうで、男の瞳が不思議な色合いで揺れたような気がした。

 「ごめんね、真愛くん」

 返ってきたのは謝罪だった。
 それは一体何に対する謝罪なのか。
 その謝罪の意味を、教えて欲しい。

 「きっと真愛くんはみんなに愛されて育ってきたんだろうね。綺麗な綺麗な愛をもらって、同じように他の誰かを愛せるように」

 答えになっていないセリフを落として、腰掛けていた机から降りた男が二、三歩の距離を縮めるように近づいてくる。

 「『真愛』なんて名前を貰ってるのがその証だよね」

 証だと言った男は俺の見たことのない顔をしていた。
 羨ましいような、妬ましいような、愛おしいような、諦めたような、とにかくぐちゃぐちゃと色んな感情を織り交ぜたような不安定な表情で男は笑う。

 「ーーーねぇ、真愛くん。好きとか愛ってなんだろうね。気持ちいいだけじゃダメなの?みんなそれを欲しがるけど、それはそんなにいいものなのかな?それがあれば俺はもっと気持ち良くなれる?」

 ぐしゃりと、足元から落ちた資料が男の足で踏みつけられた音がする。
 いつの間にか見上げなければその顔が見えないような近さに来た男が問うてくるが、俺はその問いに応えることが出来なかった。
 応えられない俺は沈黙し、男の胸元を凝視する。あまりの近さに男の香りが漂ってきてなんだか発狂してしまいそうだ。
 男の香りが鼻腔を通り抜けていくたび俺の体は震えを増していく。
 おかしい。これは夢の中なのにどうして男の香りが分かるんだろう。それに心臓も煩いし、頬も熱い。そしてなによりも夢にしては何もかもが鮮明で現実味がありすぎる。もう何が何だか俺には理解できなかった。いや、そもそもこれは本当に夢の中の出来事なのだろうか。でも、夢でない限り彼がこんなに甘やかな声で語りかけてくることはないはずだし。…あぁ、もう何も分からない。けれどもこんな白昼夢を見てしまうほど男に焦がれる俺の愚かさだけは良く分かる。
 そうして夢か現実か判別できずに混乱する俺なんて知ったことかと男ーーー秋野愁は密やかに囁く。





 「だからさ、真愛君が俺に教えてよーーー愛あるセックスっていうやつを」


 そんなセリフと共に伸びてくる求め焦がれた腕に、恋の力は俺の中の常識さえ覆してしまうのかと…そんなことを思いながら、俺は目を閉じた。



 END



戻る
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -