なまえのなまえ
 
 『あなたのなまえは、なんですか』







 あの炉端に咲く花の名を、俺は知らない。
 幼い頃から見慣れているあの花の名前はなんと言うのだろうか。俺がただの花と呼ぶあの花にもきっとつけられた名前があるはずだ。それを俺が知らないだけで、俺にも名前がついているように個種を識別するための名前があるはずなのだ。
 けれども俺はその名前を知らないので、あの花をただの花と呼ぶ。
 転がる石も、石と呼び。
 生える草も、草と呼び。
 あれはあれで、これはこれで。
 その物の総称で俺は呼ぶ。
 そこに固有も個別的認識も存在しない。
 物は物だし、人は人だし、命は命はだから。
 全ては等しく存在し、朽ち果てるその時まであり続けるだけだから。

 「だから俺もその他大勢にしか見えない?」

 「まぁ、そうなるな」

 こぽこぽ。何か液体が落ちる音にまぎれて落とされた言葉に俺は曖昧に頷いた。その曖昧な態度に、顔に『人』と大きくかいた男が大袈裟に両肩をあげる。

 「こんなに毎日のようにアタックしてるのに、それでもお前にはただの人にしか見えないのか」

 そうか。それは困ったな。
 困ったな。なんて言いながらその口調はどこか楽しそうだ。言っている事と声音があっていない男に、内心で首をかしげる。
 不思議に思って男を見てみるが、変わらず大きく『人』とかかれた顔しか見えなくて男の本心は窺い知れない。そもそも個別で認識できない俺が個人の感情を慮る事など出来るわけがないのだが。それでも気になるものは気になるし、不思議なものは不思議に思うのだ。

 「…あんたも毎日毎日、俺なんかの所に来て飽きないの」

 「藤堂だよ。…はぁ、俺はあと何回自己紹介すればお前に名前を覚えてもらえるんだろうな」

 「まぁ、ごめん」

 「…その心無い謝罪もあと何回聞けばいいんだろうな」

 「…さぁ?」

 真似して両肩をあげれば顔に『人』とかいた男が、「さぁ?って、先はまだまだ長いという訳か…」と項垂れる。ガクリと音が聞こえてきそうな勢いで項垂れる男のこの大袈裟な動作はどうにかならないのか。どうしてそんなに行動の一つ一つが演技じみるんだろう。
 そもそも項垂れるくらいなら俺の所にきて、俺に名前を覚えてもらおうとするのを止めればいいのに。何度こられようと俺は物事を全体像でしか捉えられないから、男を個人として認識することは出来ないのだから。
 その事を何度説明しようとも、この男は「もしかしたら死ぬまでやり続けたら認識できるようになるかもしれないだろ」と俺にとっては迷惑極まりない自論を披露するばかりで全く聞く耳を持たなかった。
 そういう問題ではないと頭を抱える俺に構わず、それからというもの男の傍迷惑な行為は続いている。誰もいなかった俺の周りに、男がうろつくようになったし。朝はどこからともなく現れておはようと声をかけ、そのまま隣を陣取り昨日のテレビの話しや、なんでもない日常の話しをしながら登校し、教室まで俺を送ると自分のクラスへと帰っていく。時間の許す限り授業間の休み時間にも現れて、昼休みも弁当片手に押しかけて、残念なことに家の方向が一緒なので帰宅中もぺちゃくちゃと喋り倒される。
 毎度毎度、俺なんかの所にきて暇なのだろうかこの男は。授業以外の時間をほぼこの男と過ごしてる事実にも驚きだが、その行動の理由が俺に『名前を覚えさせる』というものなのだから、なんというか驚きを越えて呆れてしまう。いや、むしろその行為は憐れである。
 両親でさえ個人として認識できない俺に、どうして赤の他人の男を認識できよう。
 そんな俺が男を個人として認識して自ら名前を呼ぶなんて、出来るわけがないじゃないか。そんな火を見るよりも明らかな事実があるのに、男は何度も俺の前に現れる。

 「あんた、」

 「藤堂な」

 「…藤堂はさ、暇なの?」

 「暇じゃねぇよ。誰かさんに構うのに必死だわ。必死すぎて毎日大忙しです」

 『人』こと『男』こと『藤堂』が言う言葉も、俺の中には残らない。通り過ぎる風のように、僅かな感傷を残して消えていく。その感傷さえ、しばらくすれば跡形も無くなってしまうのに。きっとこのやり取りも、俺と『藤堂』は何度もしてきたのだろう。何度も、何度も、気がつけば彼が側に居る事に気がついた回数くらい、行われてきたのだろう。それなのに俺にはどうしても彼は彼でしかなく、人は人でしかなかった。それ以上でも、それ以下でもなく。嘘でも冗談でもなく、そういう風にしか認識出来なかった。
 花は花だし、草は草だし、動物は動物だし、人は人でしかない。
 ネームプレートのように『人』という文字を顔に貼り付けているようにしか見えないのだ。どれだけ時間を共にしようとも、その認識が変わったことはない。

 「やめたほうがいいよ」

 『藤堂』を見る。
 変わらず俺の目にうつるのは『藤堂』の顔ではなく、『人 』と書かれた文字だったけれど。

 「こんな馬鹿なこと、やめた方がいい」

 彼は、『人』 とかかれた男は、静かに俺の言葉を聞いていた。何も喋らないから男が何を考えているのか表情を読み取れない俺には分からないけれど、分からないからこそ、もうこんな事はやめて欲しいと、強く思った。

 「あんたがどれだけ頑張っても、俺はあんたを認識できない」

 『人』という文字。あの文字の多分目の位置であろう場所を見据えて、言い放つ。白い背景で黒字のそれは、これだけ見つめてもなんの感情も教えてくれない。ただ無機質に、『人』であり続ける。
 いつの間にかこぽこぽなっていた音もやんでいて、かわりに芳ばしい香りが辺りに充満していた。苦くも甘いこの香りは何だったっけ。すんすんと鼻を鳴らして香りを吸い込む。なんだかとても嗅ぎ慣れた、懐かしい香りがするな。ーーあぁ、そうだ珈琲だ。そう言えば男が珈琲好きで豆も自分で挽いて淹れていたような気がする。

 「実はこのやり取りも何回もしたって言ったらどうする?」

 「何度もやってるのに諦めないその精神にドMなのかなって思う」

 「おぉ。その答えははじめてだな」

 そう言って男は楽しそうに笑う。『人』は表情を変えないけれど、その声音は楽しそうに跳ねている。男は、一体何がそんなに楽しいのだろうか。楽しむ要素なんてどこにもないはずなのに、むしろやめたほうがいいと俺は男に忠告しているのに。

 「やっぱりあんたって、ドドMだな」

 思わず同じセリフがこぼれ落ちていた。今度はさっきよりも感情多めに。ドも多めに。
 今まで出会ってきた『人』 の中でも、多分、きっと、この男は変わっているのだろう。と思う。
 でも、やっぱりそれだけだ。
 それだけで、それ以上にはなれないけれど。

 「…俺、本当はドSなんだけどなぁ」

 でも覚えてもらえるならドMでもいいか。
 なんて、続く言葉はやはり楽しそうで。だから、今日も明日もその次の日も同じように俺に話しかけてくるかもしれない男の事を、少しでも認識できたらいいなと思うのだ。
 特別をつくれないこの世界の中で、はじめての、唯一の特別になってくれたらいいのになと頭の片隅で思った。


 「ま、気長に頑張るかな」


 だけどそう願う俺の気持ちに反して、俺の目に映る男の顔はやっぱり最後まで『人』のままだった。



 END
 



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