誘影恋慕
『元誘拐犯と被害者』
「俺のこの想いは病気なんだって」
高い高い塀の向こうから出てきた人物に俺はそんな言葉を投げつける。
そしてそんな言葉を投げつけられた人物はこの場に俺がいることが驚きなのか呆けた顔をして立ち竦んでいた。あの異常な空間では見ることのなかったそんな人物の表情にこんな場所であるというのに思わず笑ってしまう。
「なにその顔。口開きっぱなしだよ?」
「え?あ、いや…」
「…そんなに俺がここに居るのが意外?」
「…うん」
「だろうね。俺も自分の行動が信じられないもん」
そう言って俺は笑う。なのに目の前の人物の反応は目覚めたばかりのように鈍かった。
「どうして…」
「さぁ?どうしてだろうね。俺にも分からない。どうしてここに来ちゃったのか」
けれどどこか反応が鈍いのは俺も同じだ。今になってもどうして自分がここに居るのか分からないし、靄がかったように頭の中ははっきりしない。だけど今日、この日に、数年前に俺の日常を壊して新しい日常を創り出してしまった張本人である彼がここから出てくるのだと思ったらじっとしていることなど出来なかった。
気がつけばこの寒空の下駆け出し、何時間も彼が出てくるのを待っていた。
会ってどうするのか。会って何がしたいのか。
何一つ俺の中で確かな形を持った感情はなくて、どうするのかも何がしたいのかも分からない。分からないけれど、分からなかったけれど、ここに来ないという選択肢が俺の中にはなかったのだ。
だから俺はこんな寒空の下、彼が出てくるのを待ち続けた。
「もう、会えないと思ってた」
大股三歩の距離をあけて滔々と声が降る。
「うん。俺も会わないと思ってた」
俺のそんな言葉に記憶よりも小さく感じる体をびくつかせ、彼は顔をうつむかせる。
あんなに綺麗だった髪の毛は見る影もなく、今は彼の沈鬱な表情を隠すことなくさらけだす。
あぁ、けれども、肉付きは薄くなってしまったがその頬にかかる睫毛の影は変わらない。変わらないまま、嫌に俺の視線を惹きつける。そう言えばはじめて会ったときからそうだった。彼は俺を惹きつけるなにかを持っていた。助けがきたその瞬間でさえも、俺は彼の様子が気になって仕方がなかった。疑問よりも興味を、恐怖よりも関心を。俺の世界を壊し、鮮烈に創り変えた彼。だからこそもう会わないと決めた。会うこともないと思った。それなのにどうして俺はまたこうして彼の前に立ち、彼を見つめているのだろう。
視線の先では穏やかに俺を支配していた彼が、親に怒られた子供のように小さくなって震えている。
俺はその姿をみて、どうしてか抱きしめてあげたい衝動に駆られる。今すぐにでも彼を抱きしめてしまいそうになるのを拳を握りしめることで抑えて、少し多めに息を吐き出し吸い込んだ。それにさえ目の前の肩は大袈裟に揺れる。あの空間とはまるで別人のような反応に、俺の中の記憶がぶれていく。
「なら、どうして来たの?」
会わないって思っていたのなら、何で。
そう彼の瞳は言っていた。
綺麗に澄んだ薄茶色の瞳に疑念を乗せて、彼が俺を見つめている。
濃縮され、凝縮されたあの空間の中で何度も向けられたその瞳。三日だ。たったの三日しか彼と時間を共にしていないのに、その瞳はそれから数年の時が経っても色褪せることなく俺の脳内に居座り続けた。彼はもう居ないのに、なんどもあの瞳に見つめられているような気になった。
でも今は気のせいでも、記憶を再生しているわけでもない。数年ぶりに会う本物の彼が、そこに立って、褪せることのない瞳で俺を見ているのだ。
「…今年も寒いね」
質問の答えとは程遠い俺の言葉に、不思議そうにしながら「そうだね」と頷く彼。昔は頭の動きに連動して長めの髪も揺らめていたのに。サラサラと揺れ動く髪が、とても綺麗だった。あの傷みを知らない美しい髪の毛がなんだか懐かしくなって、もう一度あの髪に触れたいなと思った。
「だから炬燵を買ったんだ」
我ながら突拍子もないことだと思う。俺がそう思ってしまうのだから、それを言われた彼はもっと意味が分からないだろう。現に彼は言葉の意味を考えあぐねて首を傾げている。
「二人なんて余裕で入れるし」
寒い。寒くて冷たい風が吹く。
急いで出て来たせいでマフラーを忘れてしまった。コートの襟を立てるだけじゃこの寒さはしのげはしない。
「座椅子も買ってみたんだ」
だからはやく炬燵に入って暖まりたい。座椅子にもたれかかって、テレビを見て、ゆっくりしながら暖を取ろう。
「…小さいけど、家も買った」
古い日本家屋なので隙間風とかが大変だけど、それはこれからリフォームでもなんでもしてなおしていけばいい。小さな家に見合った小さな庭もあるから、家庭菜園なんてしてみてもいいかもしれない。
「いいとこに就職出来たから、お金はあるし」
まだまだ若造だけれども、がむしゃらに働いたお陰か同僚たちの中では一番の出世頭になった。もしかしたら役職ももらえるかもしれない。たくさんたくさん働いて、忘れる為に働いたのに、あの場所と俺たちが居た家に似た物にお金が入れ替わっていた。
「四年だ」
白昼夢のような出来事から、四年経った。
「俺もあの時のあんたと同じ年になった」
見つめる彼が困惑の色をのせる。
俺の言っていることが、言わんとすることが理解できないと書かれたその表情に、ここではじめて俺は口元を緩ませた。
「降参だよ」
だって四年だ。
四年という期間が長いのか短いのかよく分からないが、俺にとってその数字は決して短いものではなかった。
「あんたの勝ちだ」
四年も経ったというのに、俺の中にある感情は怒りや憎しみに変わる事はなかった。俺のこの感情は一種の自己を守る為の催眠状態で、いずれその催眠は解けるはずなのに。それなのに俺の催眠は解けることなく、馬鹿みたいに彼と過ごした時間をこいしんだ。焦がれた。病気だなんだと喚く周りの声も俺には関係ない。たとえそうだったとしても、ここ数年俺の中をしめていたのは今、目の前で、変わらず困惑顔を浮かべている男だった。片時も彼のことが頭から離れなかった。いつも何をする時でも、彼の片鱗がチラチラと見え隠れする。これではまるで恋だ。好きな人に恋い焦がれているみたいではないか。
いや、みたいではなく、そうなのだ。
たったの三日。
何も語らず、何も危害を与えず、手足を紐布で緩く結ばれた、あの空間の中で、俺はすっかり彼に囚われてしまっていた。
何も語らず俺を見つめるだけの瞳が綺麗だと思った。時折申し訳なさそうに伏せ睫毛の影を落とす頬に触れたいと思った。そうして耐え切れず形ばかりの拘束をほどいてその髪に触れた時の彼の表情と、指の間を流れていく髪の感触が忘れられない。俺がはじめて彼に触れた瞬間、まるでそれを見計らったかのように二人の時間は終わってしまったから。
だからもう一度、やり直すのだ。
今度はちゃんとお互いに自己紹介をして、好きなことも嫌いなことも、色んなことを話そう。
「だからさ、これからは俺と一緒に生きてよーーー優希さん」
たとえこの想いが病気だとしても、それを治せるのは貴方だけだから。
知らなかった彼の名前を呼べば、大きく見開かれる瞳。あぁ、その表情も初めて見るものだ。と目を細める。暴かれていく彼の一つ一つに益々惹きつけられていく自分を自覚する。
「で?答えははいとイェスどっちなの?」
「…っ。好きなんだっ、智也くん…ッ」
「はは。答えになってないよ優希さん。ていうか、そうじゃないと許さないし」
俺をこんなにしたんだから、責任は取ってもらわないと。だけど安心して。今度は俺も、責任を取るから。
「ということで、はじめまして橘優希さん。俺は逢沢智也。…これから末長くよろしくお願いします」
「こちらこそっ、よろしくお願いします…っ」
泣きじゃくる彼との距離を詰め、あの時は知ることのなかった熱を抱きしめる。吹き止まぬ冷たい風の中ではっきりと分かる暖かさに俺はちょっとだけ涙を流して、笑った。
ーーー健やかなる時も病める時も、貴方を愛すると誓います。
End
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