四十万鬼


 『君が鬼か、僕が鬼か』








 朝の誰も居ない学校が好きだった
 朝の部活動もまだ始まらない、そんな時間。
 ひっそりと静まりかえった空間。
 どこか厳粛さがただよう空気。
 反響するのは己の息遣いとくたびれた上履きが床を踏む音のみ。
 夜の静寂とはまた異なる朝の静けさが肌を取り巻くのがとても好きだった。
 耳を煩わせる雑音はなりを潜め、無音の世界に頭を垂れる。
 早朝から自慢の声で囀る鳥の鳴き声も、風に揺れてざわめく葉の音さえも、この空間の中では静けさに沈んでいく。
 本来ならその静けさを楽しむところなのだが、俺は沈黙の中を急かされたように歩いていた。俺の荒い足音が静寂を壊してしまっていると分かっていながらも、急ぐ足を緩めることはできない。
 あぁ、早く。
 早くこの階段を登って教室に着かなければ。
 どこか焦りにも似た思いに階段を踏む足のスピードをあげる。運動不足である体が音を上げ酸素が足りないと呼吸が浅くなるけど、それでも俺は足を止めない。止められない。
 ただひたすらに、最上階にある教室を目指して登る。
 この心地良い世界を殺す存在が来てしまうその前に。俺は早くこの階段を上って教室に着かなければいけないんだ。背中から忍び寄る焦燥を振り払うかのように俺は一歩一歩を足早に歩く。
 息が上がる。思った以上に速いスピードで登っていたらしくぜぇはぁと格好悪い音が口から漏れる。三年間帰宅部だった俺の体力の無さを呪ったところでどうにもならないが、これならちゃんと自分の体を鍛えておくべきだった。後悔したところで体力がつくわけでもなく。せっかくの静けさを自分の不恰好な吐息のせいで台無しにしてしまうのが悔しくて奥歯を噛み締めた。
 鼻だけで息をするのは苦しいけれど仕方がない。奥歯に力を込め、前を見据える。目の前にはまだ、立ちはだかるみたいに階段が続いていた。はたしてこれには終わりがあるのか。長く続くこの階段は、いくら登ろうとも終わりがないのかもしれない。もしそうだとしたら、俺がこの階段を登る意味はあるのか…。削がれていく体力のせいか、脳が馬鹿なことを考えてしまう。そんなことを考えている暇があるなら足を動かせ。と弱音を吐きたがる心を押さえて命令をくだす。
 だけど呼吸苦しい視界に3/4という文字を見てため息をつきたくなった。どうして一番年を取っている自分たちが最上階まで息を切らせながら登らないといけないのだろうか。体力的に考えたら俺たちではなく、若い奴らを最上階するべきだろう。勉学に励む前にこの階段地獄で息絶えてしまうじゃないか。はたして学校側に俺たちに勉強をさせる気があるのか。
 そんなことをつらつらと考えながら階段の角を右に曲がった。瞬間。

 「やぁ、おはよう。今日もはやいんだね」

 誰もいないはずの空間からおどけた声に話しかけられる。
 あぁ。やっぱり。
 やっぱり今日も、間に合わなかった。そんな諦観に足を止めれば、曲がったその先の階段の二段目に、細長の目をもっと細めたあいつがいた。
 学校であるというのにそいつは制服を着ておらず、代わりにその体をゆるく纏った着物に包んでいる。
 仄暗く色のついた着物が口元をあげて嗤うあいつの雰囲気をより一層妖しくうつし、はだけた胸元からのぞく白い肌が噎せ返るような色香を漂わせている。どこか気だるげな雰囲気もその身にまとった人物に、自然と俺は眉間を寄せた。
 そんな俺の反応に、あいつは愉快そうにくつくつと喉の奥で小さく嗤う。
 笑った途端あいつの雰囲気が色濃くなり、なんだか甘ったるい香りまでしてきて、俺の眉間のシワは深い深い渓谷を刻みだす。
 本当にもう、どっかに行ってくれないかな。
 切実な願いにたまらずため息がこぼれ落ちる。静かだった空間にその音は水面を揺らす波紋のように広がった。思った以上に大きな音で広がったそれは、やがて静寂に溶けて、消えた。それによって再び静寂が訪れたけれど、まだ安心はできない。声をかけたきり沈黙しているあいつを探るように見つめる。いつだって俺の静寂を破るのは、目の前にいるこの人物だった。
 監視、観察。
 次にどうでるかと伺っていれば、視線の先で絹のような髪を揺らしながらあいつが顔をあげる。

 「そんな熱心に見つめられたら、穴があいてしまうよ」

 顔を伏せて笑っていたあいつとバチリと目が合った。不思議な色合いの瞳に見つめられ、一瞬虹彩の輝きに吸い込まれそうになる。その瞳が、上弦の月みたいに細くなる。綺麗だ。頭の隅でそんなことを思った。けれども全ては瞬きの出来事で、惑わされてなるものかと顔を歪める。

 「はは。そんなに嫌そうな顔をしなくたっていいじゃないか」

 「うるさい。黙れ変態」

 「変態なんて酷いなぁ」

 「本当のことだろう」

 「それもそうか」

 納得するのかよ。
 あっさりと頷いてみせるあいつに、つい心の中でツッコミをいれてしまう。
 こっちは誰かさんのせいで機嫌がMAXに悪いと言うのに、なんでその原因であるお前がそんな楽しそうに嗤っているのだ。俺を馬鹿にしているのか。

 「阿呆らし。お前には付き合ってらんねぇわ」

 そう言っていつものように締め括って、これ以上の会話を続けたくない俺はあいつの横を通り過ぎようとする。
 だって、そうしないと俺が何よりも嫌う時間が来てしまう。
 深く深く、心の奥を曝け出そうとする時間が。
 自然と硬くなる所作であいつの横を歩いていく。あいつは未だ階段に座ったまま前を見据えていた。チラリと横目でその顔を見た時、あいつの口元がゆるくつり上がっているのが見えて心臓が不穏に跳ねあがった。
 階段を登ってきた時とは違う息苦しさに襲われ、眩暈がする。大きく視界はゆれ、踏みしめる足の感覚が覚束ない。
 ドクドクと鳴る心臓の音が妙に静まり返った空間に、あいつの耳に届いてしまうのではないかと不安に駆られる。そんな事はないと分かっていても、疾走する脈に不安は募る一方だった。
 どうして自分がこんなにも追い詰められなければいけないのだ。どうしてこいつは静寂を狙って俺の前に現れる。
 息があがる。心臓が煩い。訳のわからない恐怖に襲われる。
 あいつの存在が、あいつの声が、あいつの香りが、全部が全部俺をどうしようもなく不安にさせる。

 「そうやって今日も逃げるんだね」

 「…っ」

 愉快気な声に足が止まる。恐る恐る振り返って見てみれば、あいつはまだ前を向いたままだった。だというのに、この威圧感は、なんだ。ただの言葉が、この場から離れたいと思う俺の足を留める。

 「いつになったら、君は俺の名前を呼んでくれるのかな」

 甘さと、糾弾を含んだ声だ。
 その声と、言葉に、無様に喉がなる。
 油がきれたロボットのように体が動かない。
 今すぐにでもこの異常な空間から逃げ出したいのに、体が全く言うことを聞いてくれなかった。
 俺はこんな状態になっているのに、未だその瞳にさえ俺の姿を映さないあいつにどうしようもない悔しさがつのっていく。
 けれどもその悔しさよりも勝るものがあって、何一つあいつを責める文句は出てこない。
 煩い。
 とにかく、自分の鼓動の音が煩かった。
 煩いのに、煩いはずなのに、なのにどうしてあいつの声はこうもはっきりと鮮明に鼓膜に届くのか。

 「逃げて、逃げて、逃げて。…君は一体何がしたいんだろうね」

 「やめろ…」

 「やめないよ。君が決めるまでは。俺の名を、呼ぶまでは」

 「…っ!」

 それまで俺を一切見ていなかったあいつが振り返る。
 苛烈な瞳に射抜かれて、今度こそ俺は指一本さえ動かせなくなった。

 「いつまでそうやって犠牲にするつもりだい」

 「…うるさい」

 「俺はこんなにも渇望しているのに」

 ふわり。空気が動いた。と頭が理解した時にはもうあいつが目の前に立っていた。いつの間に立ち上がったのだろう。それさえ、もう俺には分からない。
 視界一面があいつに埋め尽くされ仄暗く染まる。距離が近づいたせいで、あいつ独特の匂いが強くなる。脳が痺れるような、思考を鈍らせるような、そんな香りが否応なしに侵入してくる。その、俺の全てを呑み込もうとするような存在が恐ろしくて動かない体でなんとか逃れようともがくけれど、どんなに頑張っても体は俺の意思に反して動いてくれない。なんでだよ。焦る俺の頬に、ひやりとしたものが当てられた。
 突然の感触に目を見開く。頬に触れたものをみて、それを視線で辿れば着物の袖から伸びるあいつの生白い腕。あいつの腕は、白すぎて青白い血管が透けて見えていた。ドクドクと脈打つそれは、俺の中で流れるそれとは違う。白すぎて輪郭がぼやけるその腕は、今にも空間との境界線を無くして消えてしまいそうだ。

 「…そろそろ我慢の限界だよ」

 あんなに俺を見ていなかった瞳が真っ直ぐに向けられている。煩い。限界なのは俺の方だ。だいたいなんだよ我慢って。一体お前がなにを我慢しているっていうんだ。俺の邪魔をしているのはお前だろうが。この空間も、交わす言葉も、いたくないのに、したくないのにお前が引き止める、から。

 ーーーあぁ、やめろ。やめてくれ。そんな手で俺に触れるな、そんな目で俺を見るな。その手で触られると消えてしまいそうだ、その目で見られると全てを見透かされているようで心許なくなる。

 逃げたいのに逃げられなくて、お前は力も使わず俺の動きを封じてしまう。
 本当に、一体なんなんだお前は。
 どうしてお前は、俺の前に現れた。
 人ではない温度で俺の頬を撫でて、真意の読めない笑みを浮かべて、どうしてお前は俺に望むんだ。
 朝の四十万。何もかもをも呑み込んで、その腹の中に収めようとする。
 お前なんか消えてしまえ、この静寂に呑み込まれて。
 そして二度と俺の前に現れないでくれ。お前を見ると、お前が居ると、俺の心はいつまでたっても静けさを手に入れられない。
 だけど、そんな俺の想いも虚しくあいつの声は今日もすべてを壊してく。


 ーーーだから、俺の名を呼んで。

 
 人ではない温度の手で頬を撫でてあいつは甘く密やかに、崩壊の音を囁くのだ。



 END




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