うつしの鏡
『相思相愛、似た者同士』 「納豆はいれるなって言ったよな?」
「ご、ごめん。なんだかいきなり納豆が食べたくなって」
「だとしてもどうして味噌汁に納豆を投下した?」
「そ、そこに味噌汁があったから…!」
「……」
「ご、ごめんなさい」
じとりと睨まれて、俺は素直に謝罪の言葉を口にした。
今回は納豆の誘惑に勝てなかった俺が悪い。その自覚がありまくるので自ずと体も声も小さくなっていく。どうして耐え切れなかったんだ俺よ。前はもっと忍耐強い子だっただろう?と過去の自分を嘆いてみても現状はまったく変わらないので、いまだ無表情でこちらを見てくる男の前に置かれた器をさげる。その間ずっと男は無表情のままだった。美形の無表情は迫力がありすぎるからやめてほしい。切実に。
あぁでも今回は俺が悪かったし仕方ないか…。うう、でもやっぱり無表情は怖い。何を考えているのかぜんぜん分からないし。嫌いな納豆を味噌汁にぶち込んでしまったことそんなに怒ってるのかな…。いつもなら何を考えているのかその表情で教えてくれるから分かりやすいけれど、こういうふうに無表情でいられると感情が読み取れなくて不安になってしまう。
「創作料理をするなとは言わないけど、味噌汁に納豆を投下するなら自分のだけにしてくれ」
「…はい。誠に申し訳ありませんでした」
テーブルにめり込む勢いで反省。全身全霊で謝罪の気持ちを表す俺に、男はそれはもう大きなため息を吐きだした。うぅ。そんなこれみよがしにため息をつかなくてもいいじゃないか…。なんて、俺が全面的に悪いので思ったりなんかしないぞ!
「爽やかに朝を迎えたはずなのに、俺が最も嫌う食べ物である納豆がはいった味噌汁が出されたときの俺の気持ちが分かるか?」
「そ、想像を絶します…!」
苦手であるゲテモノ料理が朝の爽やかな食卓に並んだ様子を想像して、俺は今更ながらに犯してしまったことの重大さに気がついて泣きそうになった。
俺、朝からゲテモノ料理出てきたら発狂しちゃう。
なんて罪深いことをしてしまったのだろうか、俺は。出逢った最初の頃なんか納豆の臭いに意識をなくすくらい、納豆が苦手というかもはや鬼門だったのに味噌汁にぶち込んでしまうなんて。いくら修行を重ねて意識は無くさないようになったとはいえ、この行いは非人道的だった。どうしよう、これを期に嫌われて別れようとか言われたら…!家なき子になっちゃう上に、バイバイしなきゃいけないなんて耐えられないぞ俺!せっかく一緒に暮らせるようになったのに!もう、俺の馬鹿野郎―!
「ノゾム、落ち着け。俺は怒ってないし、お前のことを嫌ったりしてないし、ここから追い出す気もない」
「で、でもぉ……!」
「ちょっとした意地悪だから落ち着けって。震えすぎて味噌汁こぼれてるから」
その指摘に慌てて手元を見やれば、味噌汁の器に手をそえたまま震えていたらしく、味噌汁の量が半分以上減っていた。テーブルの上と俺の手にかかったわかめ、玉ねぎ、そして納豆が俺の罪をつきつけてくる。あわわわわわわ。これは、俺の、罪の証だ。
「やだぁぁぁぁぁ!ごめんなさいれいじぃぃぃぃぃぃぃ!!もう納豆断ちするから二度と納豆なんて口にしないし買わないから俺を捨てないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「ノゾムさん!?かかってる!震えすぎて俺に納豆入り味噌汁がかかってるから!」
「後生ですからぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!嫌いにならないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「うぇっぷ!口に入った!」
「ひぃえぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!!」
「お前じつはわざとやってるだろ!?」
愛に生きる俺は、愛されないと生きていけない。
だからといって誰の愛でもいいわけではない。今の俺を生かしているのは玲司から惜しみなく与えられる愛なのだ。俺が求めているのは、玲司ただ一人からの愛なんだ。玲司にでろでろに愛されていないと俺は心身ともにぼろぼろになってしまうのである。水をもらえなかった植物みたいに、しなしなのへろへろだ。ふにゃちんだ。一日に一回は玲司にギューッとされないと元気が出ないし、とにかく、俺には玲司がいなとダメなんです。
それなのに俺ときたら一時の気の迷いで味噌汁に玲司の嫌いな納豆をぶち込んでしまうという、やってはいけない失態を犯してしまった。その事実は俺に重くのしかかり、追い詰められた精神状態は阿鼻叫喚だ。
病は気から。
なんだか精神状態がおかしすぎて体も痙攣を起こしているような気がする。もうだめ。お願いだ玲司、俺を捨てないでくれ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん」
「ノゾム!お前その思い込みの激しさどうにかしろ!」
なんだか玲司がなにか言っているような気がするけれど、どうしてだろう上手く言葉が拾えないや。玲司の声ならいつでも聞いていたいのに、なんで綺麗に聞こえてこないんだろう。
ちなみに補足しておくと、恐慌状態に陥ると俺は玲司の言葉さえ耳に入ってこなくなってしまうらしいのである。玲司が言っていた。愛の反動って恐ろしいね!
「あぁもう!落ち着けノゾム!ほら、どーどー!」
「ふーふー!」
「よーし。いい子だぞノゾム。まずはそのお椀を置こう。な?」
おいおいと叫ぶ俺を落ち着かせようと玲司が優しく声をかけてくれる。あんなことをしでかしたのに、優しい声をかけられて俺の感情のダムは決壊した。
なんてことだ、こんなに優しい玲司を俺は裏切ってしまった。
その思いに支配されて目の前が霞んでいく。霞んだ視界のせいで玲司の表情が見えにくくなって、それがまた怖くて泣きたくなんてないのに涙が溢れてくるという悪循環に陥ってしまった。嫌いなものを出したうえにみっともなく取り乱して泣き喚く男なんて最悪極まれすぎるだろう。自分がまいた種とはいえ、こんなことで最愛の人と別れないといけないなんて悲しすぎる。せっかく頑張ったのに、その頑張りがこんな一瞬のことでぱぁになってしまうなんて…。覆水盆に返らず。脳裏に浮かぶのは、『絶望』の二文字だった。
「れいじぃぃぃぃぃぃぃ」
「よしよし。ほらもう泣くなって。嫌わないから、捨てないから、大好きだから」
「ごめんなさぃぃぃぃぃぃ」
「ん?もういいって。逆に朝から刺激的で良かったし。だからまずはそれを置きなさい」
霞む視界のむこうで玲司が立ち上がって俺の横に回ってくる。となりにきた玲司は泣きながら許しをこうように見上げる俺の頭を優しく撫でてくれて、思わずその手に擦り寄ってしまう。玲司はやれやれって感じで頭のてっぺんに唇を落として、いまだ俺の両手に持たれた器を指差した。ようやく玲司の声がちゃんと聞けるようになった俺が素直に器をテーブルの上に置いたのを確認すると「よいしょ」という掛け声と一緒に持ち上げられる。突然の浮遊感にびっくりはしたが、されるがままでいれば俺が座っていた椅子に玲司が座り、その上に向かい合わせになるように俺も座らされた。近くに置いてあったウェットティッシュで両手を拭われている間も俺の涙は止まらない。
「本当にノゾムの思い込みは一級品だな」
綺麗に俺の手を拭きあげてくれた玲司が苦笑する。使い終わったウェットティッシュをテーブルに置いて「泣きすぎ」と滝のように流れる涙を笑いながらぬぐってくれる玲司に心臓が握りつぶされるかと思った。少しクリアになった視界で笑う玲司は、優しい顔をしていた。
その顔を見るともうダメだった。たえきれずに玲司に手を伸ばす。
「……怒ってない?」
「怒ってない」
「……捨てない?」
「捨てません」
「……ごめんなさい。大好きです」
「もういいって。あと俺も大好きです」
玲司に抱きついて、玲司の匂いをかいで、玲司に言葉を返されて、ようやく俺の不安は消えていく。抱き返してくれるこの腕を失くすことにならなくて、本当によかった。
ほうっと安堵の息をついて玲司の肩に頬をのせる。鼻先で首元にすりすりしたら「くすぐったい」と笑われた。無表情じゃなくてちゃんと笑ってくれる玲司に安心する。よかった。この笑顔は嘘じゃない。本当に心から笑っているときの顔だ。
「もう誘惑に負けません」
「べつにいいって。ノゾムの創作料理、独創的で面白いし」
「…もう二度と納豆は使いません」
「あー。そうしてくれると助かるかな。でもノゾムが食べたい時は食べていいんだからな?」
背中をぽんぽんと優しく叩いてくれる玲司に、俺は後で誓約書を書こうと心に決める。
病めるときも健やかなるときも、玲司も食べる料理に納豆は使いませんと誓います。
そこまでしなくていいと玲司は言うかもしれないけれど、それだと俺の気がすまないので悪いけど付き合ってもらおう。…でも誓約書なんて面倒くさいと思われるかな。あぁ、どうしよう。面倒だと思われるのは嫌だし、玲司に面倒をかけてしまうのも嫌だ。どうしよう、どうしよう。俺はどうすればいいのだろうか。
「誓約書でもなんでも書いてやるから泣くなってば」
俺の心を読んだみたいに、いや、もしかしたら声に出してしまっていたのかもしれないけれど答えをくれる玲司に大好きがつのっていく。
大好きだ。俺は玲司さえいれば生きていける。
「嫌わないで、玲司」
「嫌いになるわけないだろ。どこにノゾムを嫌いになる要素があるんだよ」
ノゾムこそ俺のこと嫌いになったりするなよな。と眉をさげる玲司にありえないと首をふる。どう考えても嫌われる要素が満タンなのは俺の方だ。現に納豆味噌汁を作ってしまったし。玲司に嫌われることはあっても、俺が彼を嫌うなんてことは絶対にない。
「嫌わない。嫌うわけない。…納豆いれてごめんね」
「もう納豆はいいって。でもまぁ、そんなに悪く思ってるんだったらずっと俺のこと好きでいてよ…。なんてな」
「玲司、大好き」
「…なんかあらためて言われると照れるな」
「玲司は?俺のこと好き?」
「んー?さっきも言っただろ?俺も大好きだよ、ノゾム」
真正面で向かい合って大好きだよと言い合うのはたしかにちょっとだけ恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しさのほうが大きかった。はにかみながらも大好きだと言ってくれる玲司の唇に自分の唇を重ねて、またぎゅーっと抱きつく。「してやられたぜ」なんて言って笑う玲司の声を聞きながら俺は、
(いつまでも玲司と一緒に居られますように)
と、ただそればかりを願い続けていた。
「まぁ、もしノゾムに嫌われても離してなんかやらないけどな」
「うん。そうして玲司」
落とされた言葉に嬉しくなる。絶対だよ、約束だよ。
これこそ誓約書を書くべきじゃないだろうか。うん。そうしよう。やっぱり後で誓約書を書いてもらおう。
「絶対に俺を離さないでね」
だって俺は、玲司がいないと生きていけないのだから。
END
戻る