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『今日はなんの日?
おむつの日!』
今年産まれる甥っ子のためにおむつの試し穿きをして欲しいと言われたのは、それはそれはとても清々しい昼下がりの時だった。
春と夏の狭間。
まだ暑くりなりきれない丁度いい気温の中、遅めの昼飯にいやぁ、満足満足。と互いに満たされた腹を撫でていたはずなのに、予想斜め上のところからぶっ飛んできた内容に俺の思考と動きは静止する。
おむつ、おむつ、おむつ。
言われた言葉がカルガモの親子みたいに脳内をぐるぐる回る。おむつ。おつむではなくて、おむつ。あの、ごわごわとした、高級水性ポリマーを使ってつくられた、幼児とかが着用する、あの、おむつのことだろうか。
「あー…。ごめん。よく聞き取れなかったからもっかい言って?」
「はぁ。仕方ないな。…だから、甥っ子のためにおむつを試し穿きして欲しいんだ」
「え。なんで?」
俺のこの疑問は間違いではないと思う。なんで高校生にもなっておむつの試し穿きなんてものをしなければいけないんだ。おむつの肌触りなら自分で触って確かめればいいし、むしろそこで試して穿く意味がわからない。まったく。というかそのひと手間は無駄としか言いようがない。
というのはあくまでも俺の主張であり、そんな馬鹿げたお願いをしてきた人物は至極当たり前なことを言っていると信じて疑わぬ顔をして首をかしげた。
「なんでって、赤ちゃんの肌は敏感肌なんだぞ?もし肌に合わないおむつを使ってかぶれたりしたら甥っ子が可哀想じゃないか」
その前に俺がおむつを穿かされて可哀想だ。という発想は浮かばないものなのか。高校男児がおむつを穿いている絵面を、お前のその優秀な脳みそでイメージできないのか。放送事故としか言えないそれをイメージできないのであればお前のその脳みそはポンコツだ。ポンコツ極まれりだ。
頭がいいのに馬鹿って、きっとお前のことを言うんだろうな。
「可哀想なのはむしろお前のおつむのほうだ。真顔でそんなこと言えちゃうお前のおつむのほうが俺はとっても心配です」
「……」
「理解できないって顔しない」
無言で訴えてくる男にぴしゃりと言い渡し、念のため男との距離を取る。狭い室内。逃げ場なんてそんなにないが、ずりずりと後退していく俺を男はジト目で見つめる。「なんで逃げるんだ」視線を据えられたまま拗ねた声で聞かれる。「さぁ。なんでだろうね」視線を受け止めたまま軽い声で答える。その答えがお気に召さなかったのか、男はむすりと表情を歪めた。
「お前はひどいな」
口の両端をへの字に曲げた男が言う。
「俺はただ、これから産まれてくる甥っ子の敏感肌を守ろうとしただけなのに」
嘆かわしい。そんな風に今度は眉毛がはの字をえがく。
「それなのにお前はおむつを穿いてくれないし、俺を馬鹿呼ばわりする」
実に悲しいぞ、俺は。なんて己の美貌をフルに使って憂う男を見る俺の瞳はきっと氷点下のように凍えていることだろう。
甥っ子の敏感肌を守ろうとしているのはよく分かった。たしかに赤ん坊の肌は俺たちとちがってデリケートだ。おむつでお尻がむれてかぶれてしまう可能性があることもおおいに理解できる。だけどそれとは別にどうしたって理解できないことが、納得のいかないことが、ある。そのことについて俺はそろそろ声を大にしてもいいだろうか。いや、いいに決まってるよな。うんうん。むしろしないほうがおかしいってもんだ。
「そもそもなんで俺がおむつを穿く前提なんだよ。穿くならお前でもいいんじゃんか」
「え?お前、俺がおむつ穿いてるとこ見たいのか?」
「断固拒否する」
「だろ?だからお前が試し穿きするのが妥当なんだよ。むしろ適役だ」
踏ん反り返りそうな勢いで言われた言葉に俺の顔面は渋面にくずれていく。ちょっとこれは、残念な意味で毒性が強すぎる。誰だこいつに変な薬をもったのは。怒らないから素直に出てきなさい。
「…俺敏感肌じゃないぞ?」
「知ってる」
なにをいまさら。男の表情は語る。「むしろ俺のほうが肌は弱いからな」それは俺も知っている。なんども風呂上がりに保湿クリームを塗ってやったし、太陽の日差しから守るための日焼け止めも塗ってやっていたのだから。
「…敏感肌が心配なら、お前が穿いたほうがよくね?」
「それは断固拒否する」
即答だ。即答しやがったぞこいつ。人にはおむつを穿け穿け言ってくるくせに、自分に矛先が向くと速攻で拒否しやがった。理不尽だ。理不尽すぎる。こんなにも世の中が理不尽さに溢れてるなんて、俺知らなかったよ。
「じゃあ俺も断固拒否だ。お前の甥っ子への愛は分かったけど、やっぱりおむつの試し穿きとか意味がわからないし」
「……」
「そんな顔してもダメだからな。穿かないもんは穿かないの」
「……」
「…だからその顔やめろってば」
昔からそうだ。なにかあるとすぐにこうして黙り込んでただひたすらもの言いたげな顔で見つめてくる。じーっと、色素の薄い茶色の瞳で何かを訴えるように見つめられると、どうしてか是と頷きたくなってしまうのだ。『目は口ほどに物を言う』とはよく言うが、たしかにあの目は言葉よりも雄弁に俺に語りかけてくる。
「……」
「……」
ずりずりと後退した分の距離を埋められる。言葉をやめて、視線での応酬を重ねるうちに男は二人の間にあったローテーブルを押しのけ、ついには手の届く範囲にまで接近してきた。その際男の後ろ手に見えた白い物体に、たらりと冷や汗が流れる。
「真尋」
「………………くそ」
とどめとばかりに懇願の色で名前を呼ばれ、その瞬間新たに刻まれた敗北の文字に、俺は小さく毒吐くしかないのであった。
この後俺がおむつの試し穿きをしたかどうかは、みなさまのご想像にお任せするとしよう。
END
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