その日の三時間目の授業が終わってすぐに、突然校内放送が鳴った。

朝から降っていた雨は強い風雨に変わっていた。
全校生徒緊急帰宅の放送内容を聞いた律のクラスは授業が無くなった喜びの声と、いそいそと帰り支度を始める音で騒然としていた。
放送によると市内に大雨暴風洪水警報が発表され、この後更に雨風は強くなるらしい。わりと大事である。

「律!一緒に帰ろう」
「あ、兄さん」

声がした教室入り口を見る。
こちらに手を振る兄の肩越しに、見覚えのある女子生徒が昇降口とは真逆の方向へ必死の形相で駆け抜けていった。
一瞬我が目を疑ったが、律はすぐに気付いた。

彼女だ。

「兄さんごめん!先帰ってて!!」
「え?え?忘れ物?」

教室から飛び出して急いで後を追いかける。
律には彼女が向かう先に目星がついていた。この角を曲がれば、あの校舎裏側の渡り廊下だ。
はやく追いついて声をかけないと彼女はこの雨の中花壇に行くだろう。
あと少しのところなのに、律の足が重くなる。伸ばした手がまた、ただ空気を掴む。
いろんな思いが律の頭を駆け巡ったが、結局また同じことの繰り返しだ。

もう渡り廊下だ。律はめぐる自分の理屈を振り払って、声を出した。

「ちょ、ちょっと待って!」
「えっ?!」

花壇が見える。足が止まる。

「この雨の中花壇を見にいくの?!またびしょ濡れになるよ!」

屋根はあるが、渡り廊下はもう横殴りの雨風でしっかり湿っていた。
雨粒が律の頬を叩く。彼女のスカートがはためく。

「で、でも、花が…」

「緑化委員の仕事かもしれないけど、今日はもう仕方ないから」

言いかけて律は身を乗り出した。

「危ない!」

強烈な風が律と彼女に雨粒と共に吹きつけ、強風で折れた大きな枝が飛び上がる。
槍のように飛んできた見覚えのある紫の花がついたそれを、律はぐっと手に引き寄せて止めた。

「これ…ライラック…」

轟々と唸る風と雨の音に花の持つ言葉をつぶやきかけて律は口をつぐんだ。
背中にいる彼女に気付かれぬよう、見えない力で止めた枝を静かに下ろす。

「大丈夫?ケガはないよね」
「はい…あの、また助けてもらって、すみません」

「いや…謝るのは僕の方だ。
あのとき、廊下で無視して、ごめん。」

律はぽつりとつぶやいた。

「君から貰った花を、枯らしてしまって、ごめん。」
「え、?」
「知らなかったんだ。花の名前も、育て方も、それを廊下で会った女の子に聞く方法も、」

未知のものだった。得体が知れなくて目をそらしていたら、枯れてしまって慌てて本で探した。

花も、花の名前も、花が持つ言葉も
ずっとふわふわと律の周りを漂っていた花の香りも
ずっとウズウズと心が焦っていたことも

律が彼女を初めて見た時から、既に見覚えがあったことも
そしてその彼女の目に映る自分の姿も

「何も知らなかったんだ。君の名前すら、僕は」

「…私は、知っていました。」

俯いた彼女が、ぽつりとつぶやく

「校舎裏の誰も知らない小さな花壇をこっそり手入れしていたら、いつも上から眺めている人がいて」
ちょっと嬉しかった、と彼女は小さく笑う。
「名前すら知らなかったけれど、どうにかまた話をしてみたかった…だから摘んでいたライラックをあげたんです」
俯きがちに微笑んだ彼女の顔に、律は手にした紫の花を思い出す。

花言葉は、初恋の感激


「…僕の名前は、影山律」

「私はミドリ、花屋ミドリ」


自分にぶつかって、知らないものに触れて
少年少女は大人になっていく。

風は木が軋むほど強く、雨は更に地面を叩いた。
嵐を越えて、夏が来る。


秘密の花園






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