「ライラック?」
「そうそう、律の机の上に萎びた紫色の花があったでしょ」
あれもうかなり傷んでたから捨てておいたわよ、という母の言葉に律は持っていた箸を静かに置いた。
俯いた彼女の顔を思い出す。
大事な花ならちゃんと水を換えなきゃダメよ、という言葉を背に律は朝食の席を立った。


言わぬが花


「律もう行くの?」
「ごめん兄さん、今日は生徒会の朝のミーティングがあるんだ」

「律ー、今日雨だから傘持ちなさいよ」
「わかったよ母さん」

母は何も悪く無いが、少し乱暴に傘を持って家を出た。
あの花から目をそらし続けた自分が悪いのは苦しいほどわかっている。
暗い灰色の雲が空を覆い、遠くから冷たい風が吹き付けた。小雨だ。
兄にも悪いが、今日は朝のミーティングはない。
律は後ろ髪を引く何かから逃げるように急いで学校に足を進め、到着してすぐに図書室に向かった。

普段は行かない図鑑のコーナーで立ち止まり、目についた植物図鑑を引っぱり出す。
重い装丁の表紙を開くとほこりと古い本のにおいが鼻を突いた。
ライラック、という朝聞いた名前を反復し、ぱらぱらとページをめくる。
見覚えのある花が描かれているページを見つけると、そこに書かれていたひとつの言葉に律は目を奪われた。


予鈴が鳴り、はっとして図鑑を閉じる。随分長い時間が経っていた。
図鑑を元に戻し静かだった図書室から一歩出ると、窓の外は大雨だった。
見慣れた雨だ。しかし勢い良く窓ガラスを叩くそれは、いまの律には未知のものに見えた。

雨音は不思議と、律の鼓動を優しくした。

触れないでいたけど、やっぱりちゃんと向き合わなければならない。
もう枯らしたくないんだ。




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