「こんの…!バ神崎!!!!!!!」
「す、すいませんでした…!!」

「この帳簿は学園予算に関わる大事な帳簿故に潮江会計委員長が直々に計算するから絶対に手を付けるなとあ!れ!ほ!ど!言っただろうが!!よりにもよって墨を零して内容を読めなくするとは一体何事だぁ!!」

「も、申し訳……!」

今が何徹目かよく覚えていないけれど、田村先輩がこんなにお怒りになるなんてこと、ユリコたちがバカにされた以外にあまりないことだ。連続した徹夜で気がたっている所に僕が失敗してしまえば、そりゃぁ機嫌も最悪になるところで。一年坊主は二人気を失い潮江先輩の膝で死んでいるし、僕も正直そろそろ限界を迎えそうだった。予算会議が近くなれば徹夜が続くことは覚悟の上だったのに、最悪な事に連日の校外実習続きで全く体を休める機会がない。外に出て授業をし学園に戻れば夜通し帳簿をつけて、座学の時間で机に伏せようものなら作兵衛から注意されるし、僕はここ何日寝ていないんだろうか。

「あー…田村、もういい」
「で、ですが委員長!」

「左門、お前ももういい。一旦寝てこい」
「しかし…」
「どうせこれ以上筆を持たせていても間違いが起こることは目に見えてる。あとは俺と田村がやっておくから、お前はも少し寝てこい」

「…はい……」

寝不足で仕事が手につかないなんてことは、忍者として弛んでいる証拠だ。潮江先輩にも田村先輩にも迷惑をかけてしまった。四年もやれば慣れてきているのか田村先輩は欠伸一つすることなく再び筆を持って算盤を弾きはじめた。凄いなぁ。僕も四年生になったらこれぐらいでヘマしないように仕事することができるかなぁ。田村先輩にも怒られ潮江先輩にも呆れられ、なんだか僕は珍しく凹んでいるようだった。でも確かに眠い。潮江先輩のお言葉に甘えて、少し部屋で寝たらもう一度この部屋に来て帳簿付けを手伝わせていただくことにしよう。足を引っ張ってしまったのだから、その分は自分で取り戻さないと。


「馬鹿みたいな陰気が感じると思ったら、神崎じゃないか」


「あ…磐長先輩……」
「どうしたそんなに落ち込んだ顔をして」

自分の部屋に戻ろうと思い縁側を歩いていると、木の下で本を読んでいたのは桃色装束の六年生の磐長先輩だった。木の幹に背を預け難しそうな本を膝に置いていた磐長先輩に実はと言いながらさっき失敗しちゃってと笑いながら言うと磐長先輩は本を閉じ、それはそれはと慰めてくださった。

「明るいだけが取り柄のお前がそこまで落ち込むとはな」
「田村先輩に怒鳴られちゃいましたから。このバ神崎ー!って」
「あっはっはっはっは!バ神崎とは上手い事を言う!」

目に涙を浮かべる程に磐長先輩は膝を叩いて笑った。僕としては怒られたからちょっと悔しかったけれど。

「神崎は頭が良い。記憶力もあるし勉強もできる。方向音痴が傷なのだが、今回の一件、寝不足が大方の原因だろうに。それさえなんとかすればもう神崎が怒られることはないさ。膝を貸してやるから安んじて一度眠りにつきなさい」

少し力強くぐいと腕を引かれ、眠気で力が抜けていた僕はあっという間に磐長先輩の膝に頭を乗せてしまった。磐長先輩は右手で本を開き左手で僕の頭を撫でてくださった。なんだか恥ずかしいけど、とっても心地良い。お言葉に甘えて、此のまま眠らせていただいても、いいんだろうか。

「どうした神崎。寝れないか」
「…あの、磐長先輩」
「うん?」

「僕の事名前で呼んでくれませんか?」

「名で?何故だ?」
「いや、なんか、その、バ神崎って呼ばれた後だったんで……」

膝に頭を預けたまま見上げた磐長先輩は突然の僕の言葉に少し首をかしげたが、理由を話せば「あぁ」と理解してくれたようだった。

「本当に名で呼んでいいのか?」
「良いんです。僕も名前で呼んでももらえたらとても嬉しいです。っていうか、磐長先輩、僕のことずっと名字で呼んでましたけど、名前知ってます?左門です。神崎左門」

磐長先輩は僕の言葉に、何故か笑顔を無くした様にも見えたのだが、再び目を細め微笑むと、今度は頭じゃなくて僕の瞼に手を置いて、光りを遮り睡魔を呼ばせた。


「おやすみ、左門」


なかなかどうして、磐長先輩の優しい声で呼ばれたそれは心地よくて、僕はいつの間にか眠っていた。



















「おい起きろ左門!いつまで寝てんだ!!」

「うわっはい!!!!!」


突然の怒鳴り声。僕は体を跳ね飛ばすかの如く勢いよく飛び起き、僕の上で叫んでいる先輩に目を向けた。隈もなく腰に手をやり怒る田村先輩は、僕が目を覚ましたことを確認すると「全く…」と呆れたようにため息をついた。

「いい加減起きろとお前の部屋に起こしに行こうと思ってみれば、なんでこんなとこで寝てんだ!」
「だ、だって………あれ…?」

あれ、そういえば僕を膝枕してくれていた磐長先輩は何処へ行ってしまったんだろう。本もないし誰もいない。それにいつの間にか日が落ちている。僕は一体どれだけ眠ってしまったんだろう。っていうか、磐長先輩に御迷惑かけてしまったな…。きっとご用事ができて離れたに違いない。次にあったら謝らなきゃ。

「とっとと戻って来い!潮江先輩も休ませて差し上げなければ!今夜から六年生は校外実習だと聞いた!委員会のせいで潮江先輩が成績を落とされることがあったら我々の責任なのだからな!次はミスするなよ!」
「は、はい!もう大丈夫です!今度こそ頑張ります!」

またバ神崎と呼ばれてしまった。それは仕方ない事だ。僕がミスをしたことには変わりないのだから。でもいいんだ!磐長先輩は僕の事を「左門」と呼んでくださったのだから!


「左門」

「はー……」


眠気も消え田村先輩の背を追いかけようとしたその時、僕の名前が背から呼ばれた。返事も途中に振り返ってみるとそこには

「……?」

誰も、いなかった。

「何やってんだ、行くぞ」
「むむ?田村先輩、今僕の事呼びました?」
「いや?呼んでないが?まだ寝ぼけてんのかお前…」

気のせいだったのか。磐長先輩に僕の名前を呼んでもらえたことが嬉しくて、空耳でも聞いたのだろうか。

「会計委員会室はこっちかー!」
「こんのバ神崎ィイイ!こっちだっつってんだろ!!」
「ほげげげ!!」

襟を引っ張られ田村先輩に引きずられるように、進行方向とは逆へ連行された。あれ、こっちだと思っていたのに。間違えてしまった。連れていかれた先の部屋では時すでに遅く潮江先輩は気を失うかの如く眠りについていて、畳を枕に眠る潮江先輩の右腕を団蔵が、左腕を左吉が占領し、三人は大の字で眠っていた。田村先輩はようやくお眠りになった潮江先輩に安心するように息を吐きだし僕を会計委員会室に投げ入れた。「茶を淹れてくるからお前は仕事に戻れ」と戸を閉め、田村先輩は部屋から離れていったので、僕は眠る前までやっていた途中の帳簿に再び手を付けることにした。潮江先輩と団蔵と左吉の鼾が響く会計委員会室で、再び、


「左門」

「!」


僕は誰かに名前を呼ばれた。筆を紙に付ける直前に聞こえたそれは男の人の声の様な、低い声。だが、声がした正面の方へ顔を上げても

「……」

誰も、いなかった。

潮江先輩達が寝ているのは僕の左手で、正面から声が聞こえるわけがない。そういえばさっきも、田村先輩が僕の事を呼んだと思ってたのに気のせいだった。



…本当に、気のせいだったのだろうか。



「お、どうした左門。顔色悪いぞ。まだ眠り足りないってか」
「……た、田村先輩、」
「あ?」
「…い、今」



「左門」



「!!」


背筋が凍った。今、確かに僕は田村先輩の口を見ていた。動いていない。左門という形には動いていない。だけど、今確かに僕の名前はどこからか呼ばれた。此れで三度目。三度も空耳を聞くなんて、こんなの空耳なんて言わない。誰か、いる。

「…おい、どうした左門。本当に具合でも悪いのか?」
「あ、え、えっと…」
「……はぁ、もういい。後は私がやっておく。もう部屋に帰れ潮江先輩には私から言っておく」

行け行けと追い出されるように、僕は部屋から出されてしまった。

さっきまでのは一体なんだったんだろうか。今はもう聞こえないが、確かに僕は誰かに名前を呼ばれていた。低い声。地を這うような低い声だった。思えば、あの声は田村先輩程高くないし、潮江先輩よりももっと低い声だった。誰の声だ。先輩とか誰かが部屋のどこかに潜んでて、僕の事をからかっているのだろうか。…いや、そんなわけがないのに…。

「おいこら左門!何処行く気だ!」
「わっ!…さ、くべ」
「これから三之助捕まえて食堂行くぞ!体育委員のとこまで迎えに行くんだ、ついてこい」

今名前を読んだのは紛れもなく作兵衛の声。名前を呼んだ主を目で確認できることにこれほど安心した覚えはない。頭からぱさっと縄をかけられいつも通り腰でぐっと結ばれたのだが、何も言葉を発さない僕を見て作兵衛は顔を覗き込み大丈夫かと心配してくれた。こんな話をして気味悪がられても嫌だ。なんでもないぞと無理に笑顔を作って見せれば、作兵衛は納得はしていなさそうなものの、体育委員がいるであろうグラウンドに向かって歩きはじめた。だが、厠近くにさしかかったところで

「左門」

再び、姿も見えぬ誰かから僕の名前が呼ばれた。だけど、この声に返事を返してはいけない気がする。正直、怖い。一体誰に僕の名前を呼ばれているのか、なんで、僕の名前を呼んでいるのだろうか。どきどきと心臓がはねてしまうけど、作兵衛にも三之助にも、きっと聞こえていないんだろう。

「左門」

それはずっと僕の近くで名前を呼んでいた。低い低い声は僕の返事を待っているようで、食事をしている時も風呂に入っている時もずっと近くで僕の名前を呼んでいた。一定間隔で呼んでいるわけもなければ、終わったかと思ったらまた呼び始めたり、うっかり忘れて名を呼ばれ、再び心臓が喧しく騒ぐのだった。

「左門」

イライラなんてしない。むしろ呼ばれるたびに心臓がはねる。怖い。なんでこんなに、僕の名前を呼び続けるんだろう。低い声が耳にまとわりつく。怖い。怖い。怖い。


「おーし、作兵衛、左門、布団引けた?」

「おう、大丈夫だ」
「僕も大丈夫だぞ」

「……なんか左門今日ずっと元気ないな。大丈夫?身体の調子でも悪い?」


作兵衛もどうやら同じことを思っていたらしく、三之助と同じような心配そうな顔で僕を見ていたけど………言えるわけがなかった。姿が見えない誰かにずっと名前を呼ばれているなんて。自分でもわかるほどに気分が上がらない。気味が悪いし、何よりも怖い。姿も見えないのにすぐそこで誰かが僕を見ているようなのだから。

「な、なんでだ?なんともないぞ?」
「…まぁそれならいいけど」
「徹夜あけだしな。今夜はゆっくり休めよ」
「おう!」

三之助がふっと蝋燭に息を吹きかけて、部屋は真っ暗になった。何も見えない暗闇で右側の方の布団が上がった音がして、すぐに作兵衛の声で「おやすみ」というのが聞こえた。返事をして僕も布団の中に入ったのだが、


「左門」


それはまるで、僕の耳元で聞こえる様な声だった。真横に誰かいる。真ん中に作兵衛が寝ててその向こうに三之助が寝てて、左はこの部屋の扉になってるから誰かがいるわけがない。でも誰もいないとは限らない。扉の向こうに誰かがいたら。もしかしたら僕が目を瞑っているだけで何も見えてないからいいけど、目をあけたら誰かがいるのかもしれない。地を這うような低い声だった。もしかしたら目の前に誰かの顔があるかもしれない。

「左門」

怖い。恐ろしい。考えただけでも涙が出そうだ。誰が僕の名前を呼んでいるんだろう。返事をしないんだから、いい加減に諦めてほしい。なんでこんなことになっているのか。声の主は誰なのか。そういえば、放課後に磐長先輩が僕の名前を呼んでくれてから、こんなことがずっとおこっている。磐長先輩が僕の名前を呼んでくれたのがとても嬉しかった。でも、こんな得体のしれない誰かに名前を呼ばれて、嬉しいわけがない。放っておいてほしい。やめてくれ。僕の名前を呼ぶのは、もうやめてくれ。この低い声が、僕の耳にくっついて、離れない。


気が付いたらもう朝日が昇っていて、僕はどうやら布団を被って眠りについたようだ。こっそりと布団から顔を出せば部屋の中は明るいが二人はまだ眠ったままだった。此のまま一人で起きているのも嫌で、二人を起こして顔を洗い食事をとって授業へ向かった。

「左門」

それでもその間僕の名前を呼ぶ声は止まらなかった。変な慣れも生まれるもので授業中に聞こえても気にしないようにすることにした。

「左門」
「なんだ作兵衛!」

聞き覚えのある声には一度振り返って姿を確認してから返事をするが姿の見えないそれは未だに正体がわからないままだった。放課後になってもその声は聞こえ続けている。いつまでこの声が聞こえ続けているのだろうかと思ったその時、六年生が無事に帰還したと言う話を耳にした。

「潮江先輩!お帰りなさい!」
「おう左門、ただいま」
「御怪我はないですか!?大丈夫ですか!?」
「お前らが俺の代わりに帳簿付け頑張ってくれたからな!ギンギンに課題をクリアしてきたぞ!」

泥だらけの潮江先輩はかけよった僕の頭をがしがしと撫でてくださった。姿が見える誰かに名前を呼んでもあるというのは此れほどまでに心地よいのに…。そうだ、磐長先輩にならこの話をしても大丈夫だろうか。磐長先輩が原因というわけじゃないだろうが磐長先輩に聞いてみるのは手かもしれない。潮江先輩に頭を下げて、僕は磐長先輩のお姿を探すために縦横無尽に学園内を駆け回った。気付いたら昨日磐長先輩が僕を膝枕してくださったあの木の処に来ていた。磐長先輩は昨日と同じく、木の下で本を読んで座られていた。

「あ!磐長先輩!」
「あぁ左門、昨夜はよく眠れたか」
「はい!あと昨日の放課後はありがとうございました!」
「私も急にいなくなってすまなかった」

おいでと手招きをされたので磐長先輩の前に僕は正座した。そしていきなりすぎるかもしれないけれど、本題に入らせていただくことにした。………だけど、変な声が聞こえるなんて話して、磐長先輩に嫌われたり、しないだろうか…。

「……あっ、あの、磐長先輩」
「なんだ左門」

貴女が僕の名前を呼び始めてから、なんて


「…やっぱり僕の事、名字で呼んでもらえませんか」


言えるわけがない。

「うん?なんだ、気が変わったのか?」
「え、えぇ。やっぱり神崎って呼ばれていたのに慣れていたんで!なんだか気恥ずかしくなっちゃって!」

僕の嘘笑い、バレていないだろうか。あははと冗談っぽく笑いながら僕がそう言うと、磐長先輩は本を閉じて「解った」と言ってくださった。良かった。疑われてはいないかな。

「神崎」
「は、はい」


「名を知らない者に、自分の名前をそう易々とバラすんじゃない。名前というのはそのもの自身の力の塊。呪いにもなる。何に憑りつかれても文句は言えないんだぞ」


「は…はぁ…」

憑りつかれるだなんて、怖い事をおっしゃる。

「返事はしなかっただろうな」
「は、はい。全部無視しました」
「お前は賢い。"神崎左門"の名に恥じぬよう真っ直ぐ生きなさい」

磐長先輩は其処まで仰ると本を持って立ち上がり、僕の頭を撫でて何処かへ行ってしまわれた。あっという間に消えたお姿。磐長先輩が何をおっしゃろうとしていたのか、僕には解らなかったけど、一つだけおかしい事がある。



なんで磐長先輩は、「返事をしなかっただろうな」と聞いたんだろう。

まるで僕が、変な声に呼ばれていたのを知っていたかのように。



「おいこのバ神崎!またこんなところで昼寝か!?さっさと委員会いくぞ!」

「田村先輩……」
「…お前昨日から様子がおかしいぞ…?本当に何があったんだ…?」



あと僕にはどうしても、一つだけ、思い出せないことがある。



「あの、田村先輩って、田村三木ヱ門先輩で、あってますよね」
「そう、だが…?」

「…田村先輩って、三木ヱ門って名前に呪われてます?」
「ちょっと何言ってんのか解んないわ」




そういえば…。




「……磐長先輩」
「はぁ?なんだって?」

「…あれ?」









磐長先輩の下の名前は、なんだったっけ。

っていうか、教えてもらったことあったっけ。









低音火傷
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