「伊賀崎」
「は、い」

くのいちから話しかけるなんてことがあるのかと、一瞬心臓がはねてしまった。誰かが僕に近づいてくるのは解っていたし、周りには僕しかいないから、きっと僕に用事なのだろうという事は予測できていたけど。えぇと確か名前は。

「磐長先輩」
「おっ、私の名前知ってたんだ嬉しいねぇ」

毒蟻の散歩を終わらせ壺に蓋を閉め再び磐長先輩を見上げると、磐長先輩の首には

「あ、あれ!?ジュンコ!?」
「くのいち教室は大パニックだ。できるだけ恋人は側から離さないでやってくれないか」

ジュンコが巻き付いていた。驚いて自分の首に手を当てると、いつの間にか、さっきまで首に絡んでいた恋人の姿はなくなっていた。蟻達に夢中になっていて気が付かないなんて僕としたことが。磐長先輩はくのいち教室の騒ぎにひょこりと顔を出すとみんなしてクナイなどを構え一匹の赤い蛇を取り囲んでいたというのだ。くのたまとはいえ虫にも蛇にも未だになれない後輩たちにため息を吐き真ん中へ。蛇に向かって腕を伸ばせば思っていたよりも人懐っこい奴で、飼い主は何処だと問えば今僕がいる裏山の方の方へ体を伸ばした。つられるようにその方向へ歩いて行けば、目に入った萌黄色。そんな。ジュンコはいつの間にくのいち教室まで行ってしまったんだ。っていうか、それほど気付かなかった僕も悪いのだけど。

「す、すいません。本当に、ありがとうございます」
「気にするな。でもできればこれからは気を付けなさい」
「はい」

ぽんと頭に乗せられた手に再びジュンコが擦り寄っていった。なんというか、蛇が平気なくのいちも珍しいし、ジュンコがこれほどまでに女の人に懐くのも珍しい。僕自身もあまりこの人と関わったことないけど、毒蟻の壺見ても何も反応しなかったし、ジュンコを絡ませても平気。珍しいくのいちの先輩もいたもんだ。

「伊賀崎、お前今一人か?」
「え?えぇ、竹谷先輩なら学園の小屋の前ですし、一年生なら遊びに行きましたよ」
「そうかそうか。その壺は毒蟻か?」
「はい。僕のペットです」
「そうか」

磐長先輩はそれだけいって再び僕の頭を撫でた。なんだか、くすぐったいな。人に頭を撫でられているのに慣れているわけじゃないし、女の人とこんなに話したことないし。磐長先輩は僕にジュンコを届けに来ただけだろうに。なんでいつまでも僕に構いっぱなしなんだろう。いや、べつに、その、嫌ってわけじゃないけど。

「蛇とは美しい生き物だ。特に、お前の蛇は本当に美しい。赤い体に光りが射せば神々しく輝き丸でこの世のモノとは思えない。とても美しい生き物だ」

磐長先輩の口調はまるで詩人のようだと思ってしまうほどに綺麗な言葉が並んでいた。はぁと息を漏らしてしまうと磐長先輩は森の中へと歩き出し僕らから遠ざかっていってしまった。僕は此処へ蟻の散歩へ来たのだが散歩ももう終わってしまったし、愛しいジュンコも側に居る。これ以上此処に用事はないんだけど、なんだかもう少しあの先輩と話をしてみたくて背中を追いかけてしまった。壺を抱えた僕が横に並んで歩いているのを確認すると磐長先輩はふわっと笑ってジュンコを撫でた。

「伊賀崎は、いつからジュンコを飼っているんだ?」
「僕が五つの時の夏からですよ。家の近くでジュンコを見つけて、あまりにも美しかったので一緒に居ることにしたんです」
「ほう、急に現れたのか」
「えぇ。裏の小屋の柱に絡んでいるのを見つけて」

毒がある蛇だと知ったのはその後だ。手を伸ばしても噛みつくことなく僕の首に巻きついたジュンコはとても綺麗だし人懐っこかったので、もしかしたら誰かに飼われている子だったのかもしれないと最初は考えた。だけど、来る日も来る日も飼い主を名乗り出るような人はいなかった。母上と父上は最初こそ驚いていたが徐々に慣れてきて、僕の話を聞いて飼い主を捜してくれたりしていたらしいのだが、やはりそれらしい人が見つかることは一向になかった。半ば諦め始めてきたのと共に、ずっと一緒に居たから逆に離れがたくなってしまったのは僕の方だった。何処かへ行った時も、飼い主の所に戻ったのかなと最初こそ思っていたが、いつの間にか僕は彼女の姿を探していた。いつしかそれが当たり前になって、いつの間にかジュンコは僕の大事な相棒となっていたのだ。

「ほぉ、それはそれは良い話だ。ジュンコの事をどれだけ愛しているんだ?」
「それはもう、言葉では言い表せない程に。ジュンコはこれから先ずっと一緒ですよ」

「……ずっと一緒、ねぇ」

意味ありげにか少々声のトーンを落とした磐長先輩。何か不味い事でもいっただろうかと磐長先輩の顔を見上げると、磐長先輩は突然歩くのを止め立ち止まった。つられて僕も足を止めたが、止めて正解だった。ガラリと鳴る石の音。音に驚き振り返ってみれば、後一歩でも歩いていたら、僕はこの滝つぼに落っこっていたところだ。

「!!!」

「やぁさすがさすが。気配を察して足を止めるとは見事なり」

驚きで足が全く動かない。頭から血の気が引いている。滝つぼという言い方は間違いかもしれない。滝など無い。ただの崖。だが随分下まで続いているし、下には湖なのか沼なのか。まるで大きな古井戸だ。此処から落ちたらひとたまりもない。上がる方法すら見つからずに死ぬこと間違いなしだろう。

「教えて、くださいよ…!」
「いや普通に気付いているもんだと思っていたよ。すまんすまん。…ところで伊賀崎」
「は、い」

「此処は昔生贄を捧げていた場所だと言う話を知ってるか」
「…は、」

磐長先輩は僕の後ろにある崖を指差しそう言った。

「古い仕来りだよ。もう何百年の前の話になるが。戦、病に餓え、全てを鎮めるために此処へ人を落とすのだ」
「落とすって…」

「ここは昔から"蛇壺"と呼ばれる場所でな。下の下の更に下。水深くに蛇神がいる。其処へ、藁で簀巻きにした人を落とす。腕も足も動かない。動くのは首だけ。それはまるで蛇の様な姿で、蛇神様の処へと送られるのだ」

ちらりと後ろを振り向くと、確かにここは本当に高く、そして水は黒く見えるほどに、深い場所なのだという事が解った。ここに大蛇がいると言われても嘘だと言いきれないほど深く、水底など微塵も見えないほど暗い。本当にこんなところに人を落としていたのだろうか。



「今伊賀崎は壺を持ってて手が塞がっているな。まるで生贄に捧げられる者のようだ」



後ろから聞こえた磐長先輩のその言葉に、ゾッと背筋を凍らせた。


「じょ、うだんは、止めてくださ」
「時に伊賀崎。蛇の寿命は大体十年前後といったところだ。お前がジュンコに出会ってからすでに七年と経っている。蛇の寿命が残り三年とすると、お前は卒業前に死ぬことになるな」


崖を背に、前には不気味に微笑む磐長先輩。首には愛しい彼女が巻き付いてて、僕ななんだかこの空気が、とても嫌な物だと感じだ。

「……なぜ、私が卒業前に死ぬなど…」
「私の記憶が正しければ、先ほどお前は『ジュンコとはこれから先ずっと一緒ですよ』と私に言ったな」
「っ!」



「これから先ずっと一緒ならば、お前は死んだ蛇と最期まで共にあるというのが今の流れでは論理的ではないか?それとも、己の最期より前にその蛇と別れ、一人の人間として歩む決断でもしてみるか?」




まるで、誘導尋問にでもかけられているかのようだ。僕は今、目の前の先輩の問いかけに、何と答えるのが正解なのだろう。それでもジュンコと共にいたいと答えるのなら、僕は友人たちを捨てジュンコが死んだら死なねばならない。自ら死ぬ真似などしないと言えば、僕のジュンコへの愛は嘘という事になってしまう。張り付いたような笑顔をみせている磐長先輩は己の懐に手を入れると、すらりと光るクナイを取り出した。ジュンコはまだ僕の首で、磐長先輩の方を見つめている。

「昔々の話だが、北の外れにこんな話が語り継がれている」

指でクナイを回す磐長先輩は、一歩僕に近づいた。後ろは崖。武器を持って迫る磐長先輩。情けないことに心臓は喧しく、呼吸すらままならない。僕は、今此処で磐長先輩に、殺されるのだろうか。



「とある農家の娘の話だ。娘は飼っていた馬に恋に落ちた。家族同然に扱っていた馬を愛し、そして娘は事も有ろうにその馬と契りを結んだ。つまり、結婚したんだ。娘の父親は愛する娘を奇行に走らせた馬に大層怒り、その馬を樹に吊し上げ殺した。そして其れを知った娘は愛する馬の死に嘆き絶望しすがりついて涙を流したが、それすらも父親の怒りを増させるばかりだ。父親は斧を持ち出すとその馬の首を斬り落とした。しかし、その馬の首に娘が飛びつくと、首は地へ落ちることなく空へと登り、馬は、娘をあの世へ連れ去ってしまったのだ。人が人ではないものを愛した結果がこのような寓話を生んだんだ」



ざり、ざりと一歩ずつ近づく磐長先輩はもう文字通り目と鼻の先。クナイをジュンコの首に当てた磐長先輩は

「もう一度問おうか、伊賀崎」

笑みを更に深くさせ












「お前、ジュンコの事をどれだけ愛しているんだ?」












ひゅっと鳴った喉は思った通りの言葉を出してはくれなかった。いや、言葉を思っていたかどうかすら怪しい。僕は今磐長先輩になんと言おうとしていたんだ。なんと返せば正解だったのか。ついさっきまで、そう悩んでいたばっかりではないか。

震える身体。情けなく流れる一滴の涙。ジュンコはそんな僕の事など露知らずといったような顔で、シュルリと、磐長先輩が向けていたクナイに擦り寄った。


「っ、あっはっはっはっ!!そう怖がってくれるな!何!ただの冗談だ!ははははは!伊賀崎でも涙を流すことはあるのか!いや結構!良い物を見ることができた!!」


磐長先輩はさっきまでの笑みとはまた違い、今度は心底面白そうに顔を歪めさせて見せた。突然の笑い声に僕は全身の身体が抜けたように足から崩れ落ち、その場でへたり込んでしまった。身体の震えは止まらない。力が抜けた瞬間何もかもが緩んだのか涙も零れるし、手も足も動かない。大丈夫かとでも言いそうに、いつの間にか磐長先輩の腕から離れたジュンコは僕の顔を見上げた。情けない。くのいちなんかに脅かされるなんて。

「ま、ジュンコを愛しているのなら離すなよということだ。次くのいち長屋にはいってきても助けてやれんからな」

じゃぁなと言ってひらひら手を振った磐長先輩は、あっという間に僕の前から姿を消した。


今の殺気は一体なんだったんだろう。っていうか、磐長先輩は僕に何を言いたかったんだろう。からかっていただけだったのか。それとも本当に僕の涙を流す姿を見たかっただけだとでもいうのか。


「…ねぇジュンコ。僕は、君の事を、昔も今も変わらず、愛して、いるよ」


この言葉に、嘘偽りなどはない。

ジュンコからの答えは、ただ、いつも通り僕の首に絡みつくだけだった。




あの問いかけの正しい答えは、一体なんだったんだろう。




「あー!いたいた孫兵!探したぞ!委員会始めるぞー!」
「竹谷先輩…」




僕はまだ、消えた磐長先輩の姿が、目に焼き付いて離れないでいる。










最愛言葉
≪≪prev
×