IF恋人


『ぐえっ、ちょ、苦し…!』

「はいはい、今からデートなんでしょ。これぐらい我慢しなさい」

「で、デートなんてまだ早えんじゃねえかっ?」

「親父…俺もそう思うぜ!」



蛙が潰れたような呻き声を上げたのは只今母親に帯を結んで貰っている越前空夜。後ろでの猛反論を無視しつつ流れるように空夜に着付けしていく空夜の母親。


「はい、できたわよ」


にこ、と笑う母親にどこか複雑そうに顔を歪める空夜。そして居心地が悪そうに襟元を触る。


『…なんか変なかんじ』

「そらそうでしょう、そうそう着ないんだから」

『んー…、そうなんだけどさ…なんか恥ずかしいし』



言いづらそうそうに淡く染まった頬を小さく掻く姿に「まあ」とどこか嬉しそうに驚いたように言葉を落とす。その後ろで地味に親バカとシスコンの男共の存在をシャットアウトする母親はある意味最強かもしれない。


「ふふ、貴女も女の子になったのね。早く行きなさい、カズさんでしたっけ?待ってるわよ」

『んー、』


生返事をしながら未だ結われた髪等に違和感を覚える。恥ずかしいし、変じゃないか、と考える空夜は乙女そのもの。


まだ来ていないだろう、と思いながら早いに越したことはないので空夜は母親の言うとおり玄関を出ていった。後ろで嘆く親子を無視する姿は母親そっくり。

ギィ、と門を開け待ち合わせ場所に行こうと足を向けるがハタリと固まる。



『カズ先生…?』


凭れかかり煙草を片手にする姿はどこかの絵を切り取ったように様(さま)になっていた。
ぱちくりとその猫目を大きくする空夜。驚きが含んだ声に呼ばれた当の本人も気付いたのか煙草を吸っていた手を止めそちらに顔を向ける。そして待っていた人物を視界に入れると緩く口元を上げた。


「よう、空夜」


普段なら煙草を道端に捨て踏みつけ火を消す前橋だが空夜の家の前なのでそのような事はせず携帯灰皿に煙草を入れる。

まだ残る紫煙はまるで白い息のよう。



『え、あ、え…まだ時間ていうか何で此処に、』

「空夜に早く会いたかったから来ちまった」


に、と弧を描く姿に空夜の頬が更に紅くなる、その様に前橋は口角を上げると空夜に近づく。ぽーとした様子で見上げる空夜に前橋は結われた髪が崩れない程度に撫ぜる。


「…その姿、似合ってる」


静かな空間に響いた言葉は空夜の脳に気持ちいいぐらいに残響する。


赤を基調とした落ち着いたけれどどこか華やかなその着物に白い肌がよく映え、唇を覆う紅がまた良い。


『あ、…せ、先生も…似合ってるス…!』


普段は白衣を着てる姿を見ている為私服はまた新鮮。そしてその私服もシンプルながらも恰好いい。その言葉に前橋はきょとりその双眸を丸くするもすぐに柔らかく藍色を細める。

前橋自身嫌って程聞き慣れた言葉だが空夜から洩れた言葉はまるで違う言葉のよう。また特別。とくん、と心臓が弾んだのを感じた。空夜から言われた言葉は甘いのだ、空夜の言動一つ一つにきゅ、と心臓が締め付けられる。




「ありがとな、空夜に言われると嬉しい」

優しく笑う姿に心臓がせわしなく波を打つのをかんじながらふと空夜は疑問に思う。この人は何時から待っていたんだろうか。

先程見えた携帯灰皿には何本ものの煙草が潰されていた。ハッと気付いた空夜はその大きな手を小さな手で包んだ。

そしてやはり、と眉を潜める。



『何時から、ですか』

「ん?」

『何時から待ってたんですか』



不安が乗った薄黄色を見て誤魔化しきれないか、と前橋は悟るも静かに優しい嘘を吐く。



「さっきだよ」

『嘘ス』


きっぱりと、間髪を入れず放つ空夜に参ったとでも言うように笑う。それでもやはり真実は言わない。


『カズ先生』


咎めるように見つめられ紡がれても言わない、代わりに包まれていた冷たい己の手をそっと己の手を包んでいた小さな掌で包み返しゆっくり絡ませる。


きょとん、と惚ける空夜にそっと小さく微笑む。


「なら、空夜が温めてくれ」


それに此方が参ったとでも言うように眉をへにゃりと下げるも火照る顔はどうにも隠せない。


『…先生のバカ』

「空夜バカかもな」

『っなんスかそれ』

「顔赤ぇぞ」

『………うっさいス』



かあ、とまた紅くなる空夜を愛しく思いながら愛車を指差す。

「乗ってくか?」

その言葉に返答しない為肯定と取り愛車に近づこうとするがきゅ、と急に強く握られた手に足が止まる。不思議そうに空夜へと顔を向ける、藍色に映るのは緑色を垂らし俯く空夜。


『…いい、です』

「あ?でも神社行くまで寒いだろ、」

『それでもいいんス』

「…何でだ?」



『――、カズ先生とこうしていたいんで』


ぎゅ、とまた強く握られる手。小さい声でも前橋にはとても大きく聞こえた、鮮やかに、聞こえた。

きゅ、と心臓が締め付けられる。何て可愛いらしいんだろうか、何て愛しいんだろうか、何て愛らしいんだろうか。――どうしてこんなに愛しいんだろうか。嘗てたった一人に気持ちが左右した事はあっただろうか、嘗てこんなに愛しいと感じた者はいただろうか。

答えは否。


まず前橋に【愛しい】という気持ちを教えてくれたのはこの何歳も年下の緑色。自分がこんなに年下の者を好きになるなんて考えてもいなかった。


前橋は返事の代わりに手を強く握り返した。


 


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