小説 | ナノ






もともと健康的とはいえなかった彼の体調も元のただの不健康な男のものに戻り、最近は研究のために部屋に引きこもっていることが多くなった。私の仕事はというと買い出しだったり掃除だったり恒例の念入りな殺菌ばかりでいよいよ助手というより、開発部では優秀な人間かもしれないが社会的にはまるで駄目な男の家政婦になりつつある。自覚は前々からあったが。買い出しも掃除も一通り終わりゆっくり流れる午後の穏やかな時間、なんの音も聞こえない研究室の前を横切った時、果たして彼は生きてるんだろうかと不謹慎なことをぼんやりと考える。正直私という便利なお世話係がいなかったらきっと彼はこの誰も近寄らない地下の一角でぽっくり野垂れ死に仏になっていましたというケースも考えられなくは、ない。いつものことだが朝食には手をつけてないし、…まあ大丈夫だろうとは思うけれども。人間というのは考え出したら悪いほう悪いほうへと思考を導くようで、いてもたってもいられなくなり静かに、掃除したばかりの扉に手をかけた。散らかった部屋の様子を伺うもやはり生き物の気配はなく、不安は膨張し心臓は早鐘を打つ。この場合は多くの場合部屋の主が昼寝しているかリアルに死んでいるかどちらかである。部屋に足を踏み入れ内部を見渡すと、探していた黒髪が視界の端に映りドキリと心臓が一瞬大きく跳ねた(けしてこれは恋という救いようのない病名ではない)。資料が散らばった床に体を投げ出して横たわっているその背中に忍び足で回り込みそっとその顔を覗き込むと。普段あまり凝視することができない驚くほど端整な顔が穏やかな寝息を立てていた。伊達に高校時代モテてたわけじゃないなと感心する。これは見物である。長い前髪の間から垣間見えるたまのしかめっ面も今はその眉間に皺が寄ってなく、無防備な寝顔を惜しげもなく晒していた。昨日すれ違った時の立派に育てあげた目の下の隈を見るに徹夜の作業が続き疲れているのだろう。自然とあがる口角をそのままにしながらしばらくその寝顔を見つめていると、

「……ん…」

起こしてしまったかと早々に逃げる体制を作るも予想はいいほうに裏切られほっとする。どうやら寝言のようだ。あの博士でも人間らしいことをするのだなと思うと腹の奥から笑いが込み上げてきた。もちろんその笑いは必死に飲み下した。

「……ね…」
「…?」
「…しね」
「……」

寝言まで物騒である。そしてやけにハッキリいいやがった。彼の夢の中に私が出演してる気がしてならない。…もしかして狸寝入りを決め込んでいるのだろうか。寝言に乗じて私を罵っているのだろうか、と疑い、未だぶつぶつ何かを紡いでる唇に少しだけ耳を近付けた、つもりだった。瞬間予想外の力が加わり私の身体は強く引き寄せられ、こんなことが実際あるのだろうか、綺麗なお約束パターンに習って彼の腕の中に私はおさまってしまった。


「…博士」
「…」
「博士」
「……ん、」
「今あなたの腕の中にあるものはなんですか」


未だ寝惚け眼で私を見据えたあと彼の思考回路の覚醒と同時に、みるみるうちに不健康な顔は更なる不健康な色に染まっていった。

「な、んでお前がここにオェェ!!」

珍しくもないが珍しく取り乱しながらトイレに向かう彼の背中を自分も寝惚けたように見送った。私も腐っても女だったようで、彼の青ざめた顔と対称的な色が、私の顔を染めていくのがわかった。これは生理的反応でありけして恋という救いようのない病名では、断じて、ない。








彼は極度の大馬鹿者に成り果てた


(お…お前は痴女か…)(ち、違う博士が)(…認めない)(急に私を)(や、やめてくれ…)
101020

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