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月がやけに煩わしい夜だった。私の歩幅を気にせず前を行く彼の背中は心なしかいつもよりピリッとした空気を纏い、どこか苛立っているようだった。今日の彼は、気が立っている。そんなときに彼の行動を共にするのが大刀を担いだ大男ではなく影さえも頼りない私だなんて。仲間、である筈の私でさえも何故だか気が抜けずにお互い無言のまま約半日。それでもこの妙な集中力は途切れないでいる(途切れてしまったら、味方である私でさえも地に伏せられてしまうかもしれない)。だから、とても不運に思い、心の中で合掌した。ただならぬ雰囲気を醸し出す彼を敵に回してしまった、周りを囲む敵さん達を。何故狙われるか、理由がたくさんあって答えようがない。他里に無言で忍び込んだ賊であるから、指名手配書上で見覚えがあるから、私達は有名人、であるから。
「…イタチさん、ここは私が…」
言い終わる前に、ひとり、ふたりがあまりにもあっけなく地に伏せる。敵に動揺させる間もなく更にひとり、もうひとり。身なりからしてこの里の上忍以上の力を持つだろう忍たちが、音もなく次々と倒れていく。笹笠の間からこぼれる赤い瞳の光に得体もしれないおそろしさを感じ、久しぶりに「忍」というものを改めて実感させられた。この人は、紛れもなく忍になるために生まれてきたに違いない。ふと気付くと、この場で息をしているのは私と彼のふたりだけになり、その無機質な瞳がおもむろに私を捉えた。唐突に向けられたあまりにも冷たすぎる殺気に、情けないことに一歩後ずさった足が僅かに震える。それを知ってか知らずか、笠の間から僅かに確認できる唇が静かに歪む。ただ静かに発せられる狂気に、ただ、おそろしい、そう思った。
「俺が怖いか?」
静かすぎる空間を突然震わせた声は思ったよりも、気が抜けるような穏やかな声だった。敵にではない、仲間の彼への臨戦体制がふっと緩み、凍ばった足ががくっと崩れ土臭い草の上に座り込む。生ぬるい風が彼の表情を覆った笠を揺らし赤い瞳をゆっくりと細める。泣いてしまいそうだった。
「…お前のその顔は、」
「いつかの弟の顔に、よく似ている」
いつもの仏頂面を優しく砕いたその微笑みは、さきほど彼に感じた「忍」とはあまりにもかけ離れていた。初めて、私は彼の人間らしい顔を見たような気がする。さきほどとは打って変わって非常に脆く優しい表情を見せるこの人は、誰よりも忍として生まれるべきではなかったのかもしれない、どうか、自分の感情を殺してしまうくらいならそんな顔をしないでほしい。情けなく座り込んだ私に腕を差しのばした頃には、もう彼の表情を伺うことはできなかった。差し出された冷たい手のひらに指を重ね、差し出た申し出でありながらどうか彼が聞き逃すことを切に祈った。笠に覆われた彼の顔は、やっぱり悲しそうに笑った気がした。
「怖いです」
「いつかあなたが壊れてしまうそのときが」
彼が、心から笑うそのときは、忍から運命から自分から解放されたその瞬間だけだろう。私はあなたのすべては知りはしない、干渉できる間柄でもない。それでも、
きみしにたもうことなかれ
(どうか、)
100503
「笑ってほしい」の没。兄さんの里抜けから丁度何年後くらいかの話。