私は急いでいた。今までに無かったほどに急いでいた。先ほど、実家の母から連絡があり、飼い犬であるポポが危篤だ、と言われたからである。
 不幸中の幸いか、今日は金曜日で、明日から仕事は休みなので、仕事が終わってからすぐに車を走らせた。職場から実家までは高速に乗って一時間ほどだ。通勤には面倒だという理由で、私は実家から離れて一人暮らしをしていた。

 ポポ。私が小さな頃から一緒に育った大きなラブラドール・レトリバーだ。この犬種は一般では頭が良いとされているが、ポポは驚くほどに馬鹿な犬だった。いたずらっ子で、家族に怒られると、一瞬はしゅんなって反省するものの、すぐに持ち前の好奇心を発揮して、そこいらの物にいたずらをする困った犬だった。
 近年は歳を取ったせいか、若い頃のようないたずらは少なくなっていたが、名前を呼ぶと、いつも変わらないきらきらとした瞳でじっとこちらを見つめてくるのだった。

 ポポが。ポポが、居なくなってしまう。焦燥感に駆られ、私は車のアクセルを踏み込んだ。

 実家の玄関を叩くと、リビングに人が集まっているようだった。ポポ、と名前を呼んでリビングに飛び込むと、父と母が悲しげにこちらを振り向いた。二人の間に、ポポが力なく眠っていた。
 ポポ。もう一度私が名前を呼ぶと、ポポがゆっくりと目を開けた。私だよ。帰って来たよ。分かる?
 ポポが、ゆっくりと瞬きをする。悲しみを呑み込んで、ポポの頭を撫でてやる。毛布を掛けられているので全身は見えないが、毛布から出ている足はやせ細っている。その足も撫でてやりながら、私はごめんな、と呟き、堪えきれずに涙が一筋流れ落ちた。


******

 私たちの散歩コースはいつも決まっていて、コースの途中に広い河原がある。そこで晴れている日はいつもポポの手綱を外してやり、走らせていた。最近は走るのが辛くなってきたのか、走りはせずともそこいらを尻尾をぴんと立てて歩き回り、どうだと言わんばかりにこちらを振り向くのが定番となっていたのだが。
 今、目の前を走っているポポは、若い頃のポポだ。そのことに気付いた私は、これは夢なんだな、と思った。夢でもいい、ポポが元気な姿を見れるのならば。

 その時のポポは手綱を外した瞬間に猛然と走りだし、はしゃいでいた。ひとしきり走り回ると、私のもとへ戻ってくる。いつもは疲れたのか、帰ろうというような目をして私に訴えかけてくるのだが、この日は違った。ちょこん、とポポが私の前に座り、私の目をじっとのぞきこんできた。その時、私は言っておかねばならないと思って、ポポに向かって語りかけた。

 いたずらをした時に叩いてごめんね、ポポが具合悪いのに気付いてあげれなくてごめんね、なかなか帰ってこれなくて寂しい思いをさせてごめんね――
 謝罪の言葉と、涙が次々に溢れてくる。ポポの頭を撫でてやると、ポポは幸せそうに目を細めた。

 ――泣かないでよ。もう、泣き虫だなあ
「だって、もう、会えないから」

 ――会えない?まあ、君らよりは先に行くけどね。君らがこっち来る時はまた会えるでしょ?だから、さよならじゃないよ。
「ほんと?待っててくれる?」

 ――うん。待ってるからね。

「ポポ、私たちと一緒に居て、幸せだった?」
 ――当たり前でしょ?

 瞬間、ポポは笑った。


******

 ポポが「あっち」に行ったのは、次の日の朝だった。涙で濡れた頬の冷たさで私が起きると、ポポの体は冷たくなっていた。眠るように、とは言い難い、夢の最後に見せた「笑顔」で、ポポは眠っていた。

「またね、ポポ」
 ポポの頭を撫でてやりながら、泣き笑いの顔で、私は呟いた。


2012年10月18日 沢村 詠




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