翌朝、五月の爽やかな天気とは裏腹に、亜紀の心は重く沈んでいた。
昨晩の佐倉の言動が悶々と亜紀の思考回路を占め、結局亜紀が疲れに負けて眠れたのは今朝の四時過ぎだったせいもあり、亜紀の足取りは重かった。
暗い顔をして学校へ向かって歩いていると、背後から突然抱きつかれた。
「亜紀ちゃーん!おはようっ!」
「う、わ、麻美か。おはよう」
「どーしたの?何か顔色悪いみたいだけど」
「ああ…ちょっと昨日むかつく事あったから、そのせいかも」
「そうなのー?」
「よっすーお二人さーん」
二人が話しているところに美紅も加わり、三人で昇降口に向かうと、そこには亜紀の心を重くしている原因である佐倉が居た。
「あ、佐倉じゃん」
美紅がそう言う前に佐倉の姿を視認していた亜紀は固まっていた。佐倉がそんな亜紀に気付き、にへらっとあの優男風の笑顔を顔に浮かべる。
「おはよう」
「……」
亜紀は佐倉の挨拶を無視して教室へと向かう。その後ろ姿を唖然として見ていたのは佐倉だけではなかった。
「…え、佐倉、あんた亜紀に何かした?」
「へ?いや、特には…え、何で亜紀は俺に対してあんな態度なの?」
「知らないよ…」
やれやれ、とでもいう風に美紅が頭を振り、佐倉はわけが分からないといった風に教室へと向かった。
******
本日三限目の数学の時間、隣から亜紀の方にひょいと紙切れを放って寄越された。
これで何度目だろうか。中身は何度も確認したから同じものだと分かる。どうせあの汚い字で『何で怒っているの』と書いてあるのだ。
勿論、自分はそれに答えてやるつもりはさらさらない(怒っている理由を言ったら誤解されるだろうということも含め)。
亜紀は何度聞かれても絶対に隣の奴のことなんか見てやらないと決めたのだ。例え奴が、今自分の顔を隣から覗き込んでいても。
「ちょっと、上野さん、何で俺の事怒ってんの?」
「うるさい黙れ」
「小声だから大丈夫だって。ねえ何で?」
「(うざい死ね)」
「あっ、あー!今『死ね』って言った!うわ、俺超ブロークンハート」
「黙れクソが」
「女の子がうんこなんて言っちゃいけませーん」
「うんこなんて一言も言ってませーん」
「今言ったじゃんうんこって」
「……」
駄目だ疲れる。こんな奴の相手をしていたら数学の公式が頭に入ってこないではないか。
「先生ー、佐倉君がうるさくて授業に集中出来ませーん」
「あ?佐倉、お前グラウンドでも走って来い」
「え!何その古典的な漫画的展開」
「いーから行け。そして二度と戻ってくるな」
「亜紀ちゃんまで?!ひでー!」
わあっと泣き真似をしながら教室を出て行った佐倉を見て、クラス中が爆笑する中、美紅と麻美は苦笑いで亜紀の方を見ていた。
******
「ねえ、そろそろ佐倉のこと許してやれば?何あったか知らないけどさ」
「別にあいつのこと怒ってるわけじゃないし」
「でも昨日むかつく事あったって言ってたよね?それって淳平君が原因なんじゃ」
「んーん、違う」
「いや、違わない」
「何でもないんだってー」
佐倉は結局教室に戻って来なかった。その後の四限も五限も、そしてとうとう最後の六限の時間が終わった今も戻らなかった。
それに対して亜紀も段々と罪悪感を感じ始めていた。そんなに奴を傷つけてしまったのだろうか?
「とにかく許してやんなよ。何か可哀想だったよ、あいつ」
「……んー」
「佐倉が戻ってくるまでここで待ってなさい」
「え!何でそうなる…」
「今までの数々の非礼を謝るのじゃーははは!んじゃ、うちら先帰ってるんでー」
芝居じみたセリフを残し、美紅と麻美は教室を出て行った。残された亜紀は悶々としたまま椅子に座っているしかなかった。
もう既に日が傾いて夕日が窓から差し込んでいる。まだ佐倉は戻ってこない。亜紀は眠れなかった疲れも相まって、瞼が重くなってきた。そのまま机につっぷし、ぼんやりと昨晩のことを考える。
(…遅いな、佐倉)
とろりとした眠気が亜紀を包み、亜紀は眠りに落ちていった。
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