それからいくつもの季節が回り、幾度目かの春が僕に巡ってきた。
由比の居ない日常は僕の記憶に残っていない。いつも繋いでいたあの手を離してしまったあの日から、僕は一歩も前に進めていない。
今、僕の右腕には白く浮き上がる傷がたくさん刻まれている。
何度も何度も、由比ともう一度手を繋ごうとした。何度も何度も。でも、由比の指先すら掴めなかった。その度に僕は己の弱さに打ちひしがれた。
そんな僕も、今年大学生になった。生まれ育ったあの町を出て、このアパートに引っ越してきた。
由比の居ない人生なんてどうでも良かったけど、母さんが僕に大学に行って欲しいと言うので、何となく国立大学を受けたら合格してしまった。それを知った母さんが自分の事のように喜んでいた。
四畳半のアパートに引っ越してきた後もろくに片付けもしなかったせいで、部屋の中は未開封のダンボールがいくつか部屋の中に散らばっていた。僕は朝から何も食べてはいなかったが、不思議と空腹感はなく、ただぼんやりと畳の上に寝そべり、夕闇に彩られていく空を眺めていた。
ふっと由比の最期が脳裏に浮かんだ。
ゆっくりと起き上がり、床に散らばっているダンボールのうちの一つからカッターを取り出す。取っ手をゆっくりと回して刃を伸ばす。案外薄い刃は、鈍く光りながら、確かにその存在を自分に誇示している。
それを既に多くの傷痕が残っている自分の腕に当てて、ぐっと力を入れると、さらりと自分の血液が流れ出てきた。既に自分の痛覚は鈍ってしまっているようで、痛みは感じなかった。
「由比」
そっと何もない空間に名前を紡ぎだしてみても、返事が返ってくるはずもなく。
それに代わるように、ドアをノックする音が聞こえてきた。
僕は不思議に思った。今日引っ越してきたばかりの自分に、誰が、何の用事があるというのだろうか。
カッターを窓際に置き、ドアに向かう。取っ手を回してドアを開けると、一人の女性がそこに立って自分を見上げていた。
「今日引っ越してきた人だよね?管理人として挨拶に参りました」
「…はあ」
「えっと、片山さんだっけ?…って、何その腕」
彼女は僕の血まみれの腕に気付くと、眉を顰めた。僕はそれを隠そうともせずに、彼女の批判しているようにも見える視線を受け止める。
「切ったんです」
「あんた、死にたいの?」
「ええ、たった今死のうと思ってました」
ずばりと聞いてくる人だなと思った。彼女は僕より頭ひとつ低い位置から僕を斜に睨み上げている。僕が死んだって彼女には何も損害は無い筈だ。それを口にすると、彼女は呆れたように僕に言った。
「後片付けが大変なのよ」
その言葉を聞いて、僕は不覚にも吹き出してしまった。突然僕が吹き出した事に対して彼女は驚いていたようだったが、やがて彼女も低く笑い声を上げて笑い始めた。
不思議だった。つい先程まで死のうと思っていた僕が、今では彼女に毒されてすっかり死ぬ気が失せてしまったのだから。
「うん、笑えるうちは死なない方がいいわよ。傷の手当てしてあげるから上がるよ」
「ええ、どうぞ」
由比、君と僕は二人で一つだった。君は僕の世界だった。だけど、僕は僕の世界を見つけつつあるようだ。だから、もう少し待っていてくれるかな。
彼女を部屋に招き入れながら僕がもう一度笑った時、確かに由比の笑った顔が見えた気がした。
2010年03月17日 沢村 詠
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