『2−Aの数学係りは今すぐに数学教科室にくるように』
その校内放送に思わず肩がビクリと揺れた。
目の前の親友が不安気にこちらを見ているのが分かる。
「大丈夫?私も一緒に行こうか?」
その親友の優しさに、思わず頷きたくなった。
けど、頷いたら私の負けだ。この弱い心と私は向き合わなくてはならないとあの時決めていたのに。あの時、前に進むためにもあの人に告白したのに、結局私は弱いまま逃げようとしてる。
「ちょっと、ミラ…大丈夫?」
「う、うん…。大丈夫。ちょっと行ってくるね。」
「うん。…無理、しないでよ?」
「ありがと。」
そう言って親友に手を振り、教室を出た。
数学教科室までは遠いのに、凄く早く着いてしまった。
「失礼します。ミラです。」
「あぁ、入りなさい。」
そう言われ、入った中にはキッチリとスーツを着こなした男性…私の思い人でもあるエルヴィン・スミスがそこにいた。
ゆっくりと扉を閉めてしまえば、そこは二人だけ。
別に普通の生徒と先生なら問題は無い。けど、私は先日先生に告白してまだ返事を貰ってないという半端な状態。
本当なら逃げたい。だってその場で返事を貰えない時点でアウトなのに、やっぱり年の差だってあるんだ。先生がそれを考えない訳がない。
どうやって傷付けずに私に諦めさせるか。きっとそれを考えていたのだろう。
「先生…用ってなんですか?」
用事だけでは無いのは振り向いた先生の表情で直ぐに分かった。けど、それに気付かないフリをした。だって、まだ私は…
「あぁ、この課題プリントを今日中に配ってくれないか?今日の授業で渡し忘れてね。」
「あ、はい。提出は次の授業ですか?」
「あぁ。次の授業に小テストをするんだが、問題はこのプリントから出す事も伝えて欲しい。」
「わかりました。」
「それで、だが…」
バサリとプリントの束を渡してエルヴィン先生は固まった。
「この前、ミラは私に思いを告げてくれたね。」
真っ直ぐに私を見つめてエルヴィン先生はそう言った。
「…はい。」
「その答えを、出したいと思うんだ。」
その眼差しに、吐き気がした。あの時確かに私は駄目でもいいと思っていたけどやっぱりそう思えない。
そう思っているとエルヴィン先生はカーテンを閉めてから扉に鍵を掛けた。
「…私なりに考えてね。君は年若く、私はもう中年だ。下手したら君のお父さんとそう変わらない年だろう。君が三十にならない内に私は五十になるだろう。それを考えたら…君の幸せを願うなら君を受け入れるべきではない。そう、思っていたんだが…」
「…はい。」
やっぱり。そう思って思わず唇を噛み締めた。
年の差だけで、この恋が終わってしまう。
ぎゅうっと握り締めたスカートが皺になる。
けれど、どうしようもないんだ。年の差ばかりは。
「君は君に合った男がいると思っていた。同じ年代で同じ目線で互いに悩み、迷い、成長していく相手がいると。時に喧嘩したって、その度にお互いを理解し合えるパートナーがいると。けれど…」
「…?先生?」
先生の言葉の一つ一つが重くて、顔を上げられずにいると突然先生が言い淀んだ。
思わず顔を上げれば苦い表情をした先生がいた。
「なのに、君の隣に立つだろう男に私は嫉妬したんだ。その役目は私であって欲しいと。
君と手を取り合うのも、悩み、迷い、成長していく相手は自分でありたいと思ってしまうんだ。」
「先生…それって…。」
嘘、私は夢を見ているの?だって、これって…
「これから沢山我慢させてしまうだろう。
堂々とデートだって出来はしない。同年代の子達と同じ様な付き合いは出来ない。…君が、卒業するまでは我慢ばかりになってしまうだろう。けれど、私は誓おう。君を悲しませてしまうかも知れないが、君を思う気持ちは変わらない。」
「う…うそ、こんな…、」
ボロボロと涙が流れる。こんな嬉しい事があっていいの?
そんな私を見兼ねたのか、スッとエルヴィン先生がハンカチを取り出して私の涙を優しく拭った。
「…君が、好きだ。…年甲斐も無く君に恋をしているんだよ。私が…ね。」
「…っ!先生!」
「それでも、この手を取ってくれるかい?」
そう言って差し出される右手。
何を迷う必要があるのだろうか。
我慢ならすればいい。
デートは部屋でもいい。
同年代の子達と同じ様な付き合いをしなくていい。
ただ、貴方の隣に立てるなら、私は何もいらないの。
バサリとプリントが落ちる音なんて耳に入らない。
先生の手を握るより、先生に抱きついた。
先生のスーツから香るこの香りは煙草の匂いだろうか。鼻から入り込む優しい香り。
私が抱きつけば、先生は優しく抱きしめてくれた。
「すまないね。君を待たせて。…もう、離すものか。」
「先生…っ!」
離さないで。絶対に。そう途切れ途切れに言えば先生は笑った。
「こんな可愛らしい恋人を持てて、私は幸せ者だな。」
涙が止まらなくて、けど先生の言葉は正しく私が望んだもの。
抱きしめていた手を離して先生は私の頬を優しく包むと、顔を上げさせられた。
「私が、そんな顔をさせているというのも悪くはないな。けどどうせなら…」
そう言って近づいてくる端正な顔。
それは優しく優しく。ふわりとまるで真綿が私の唇に落ちたかの様だった。
「…なんて顔をするんだ、君は…」
「…え?」
「全く、そんな顔は私だけにしなさい。」
「…え?え?」
先生は涙が引っ込んだ私の目元を優しくなぞると満足気に笑った。
「…先生…」
先生が言っていた顔ってのはわからないけれど、私が今先生に望む物は一つ。
「もう一回、キスしてください…。」
「……私の名前をその可愛らしい唇で言えたら、しようか。」
ツウっと私の唇をなぞる先生はとても色っぽい目をしていた。
それにさえ、私は眩暈がしそうになる。けれど、そっと小さな声で囁くの。
「……エルヴィン、さん、…キス、して?」
「仰せのままに。私の可愛らしい恋人。」
そう言って降りてきた唇は暖かくて柔らかくて、とても幸せな香りがした。