山とジェイド

オンボロ寮の玄関には、呼び鈴なんてオシャレなものは着いていない

だからといって、朝っぱらからガンガン遠慮なくぶっ叩くのはさすがにどうかと思うわけですよ

朝日が登り始めた時間帯、すでにキッチンに立っていたユウは苦笑しつつ、ちょうど握り終わったおにぎりを弁当箱に詰め込んでパパっと手を洗う

ハンドタオルで手を拭きつつ、磨りガラス越しにみえる長身に

「ちょっと待ってください」

と声をかける。ガンガン響いていた音が止み、監督生は少しほっとした

だって、取り立てみたいで怖いんだもん

ドアを開けると、晴れ渡る空に良く似合うニッコニコ笑顔でジェイドが立っていた

「おはようございます」

「おはようございます、ジェイド先輩。お約束の時間まで、まだ1時間あるのですが?」

「すみません、楽しみで待ちきれず…」

ジェイドはいつものようなカッチリとした服装ではなく、ザックに手袋、キャップ止めのついた帽子に長袖ウェアー、山靴とすっかり登山スタイルだった

よく分からん杖も持っている。とユウは準備万端なウツボのファッションをチェックする。うーん、足が長い

監督生の代わりに説明すると、よく分からん杖の名称はストック。山登りの足への負担を減らしてくれる便利なアイテムである

ジェイドは1本しか持っていないが、2本持ちの方がバランスが取りやすく負担も減らせるので良いらしい

ユウとジェイドは、本日、登山の約束をしていた。ジェイド曰く、目的地は標高が低めで自生している薬草や山菜が多く、初心者向けで地元に愛されているタイプの山だそう

珍しい組み合わせだが、登山計画の話が出た理由はとっても簡単

ユウがクルーウェルから言い渡された薬草のレポートをどうするか困っていたところに、登山仲間を探していた人魚が通り掛かったって訳。

ちなみにマブ達とグリムは、イソギンチャク事件の古傷が痛むとかでパス。

ジェイドの顔を見ると頭のてっぺんを抑えてしまう発作が出ていたので多分マジ

更にちなみに、気になるのは対価だが「利害の一致で互いに対価なし」ってことで話はついている。

保護者(副寮長)が一緒なので学園の外に出ても良いと担任から許可を貰い、この学園からほぼ出たことの無い監督生はそれなりに今日を楽しみにしていた

「もしよければ、少し早めに出発しませんか?」

「1時間は少しでは…まぁ、ちょうどお弁当も出来たし、いいんですけど…着替えてくるので、少しだけ待っててもらっていいです?」

「はい。お待ちしてます。慌てず急いで下さいね」

「うーん、慌てず急ぐとは?」

とシンキングフェイスを披露するが、ジェイドは相変わらずニッコニコしている。

監督生はオンボロ寮へ引っ込み、ジェイドが(校外学習の一環だと学園長のお財布から巻き上げたマドルで)準備してくれた登山服へと袖を通した



使用許可を前もって貰っていた闇の鏡を抜けた先は、森のど真ん中でした。…なんで?

ボク、初心者向けの山だとお伺いしたのですが?とまん丸の目で見上げてくるユウに、ジェイドは思わずクスクスと笑う

「ふふふ、行きましょうか」

「うーん、陸と海のコミュニケーションの壁を感じる」

「さぁ、早く行きましょう」

ウキウキが止まらないらしいジェイドは、小さな子を導く親のように監督生の手を取り、機嫌よく歩き始める

「ジェイド先輩、着いてからのお楽しみって言ってたけど、ここはなんて言う山なんですか?」

「ふふふ、そんなことはどうでもいいじゃないですか」

「いや、レポートに必要なので…薬草の自生してた場所とかもレポートに書かなきゃダメなんですよ」

「では、もう少し行ってからお話しましょう」

「うーん、先に行きたくて仕方がない感じなんですね」

コンパスの差も考えずズンズン山を進むジェイドに、監督生は困ったように微笑みつつ手を引かれるまま着いていく

ジェイドは素直な監督生に、満足気にニコニコしていた



「はぁ、はぁ、ねぇ、ジェイド先輩」

「なんですか?」

「少し、少し休憩を…」

何十分歩いたか分からないが、ユウはすっかり呼吸が乱れていた

ジェイドは足が長いし山登りに慣れている。そのせいか、倒れた丸太や大きめの石なんてものともせずひょいひょい進んでいってしまう

慣れてないユウは何とか着いて行くものの、すっかり疲れていた

初心者向けって言ったじゃん!と非難の視線を向ける

地元の人に愛される山だって言ってたのに誰ともすれ違わないし、なんだか進む道は獣道って感じで狭いし荒れている

ジェイドは汗だくな監督生を一瞥し、平然と

「早く先へ進みましょう」

と宣った。まるで疲れてない様子の人魚は貼り付けたように笑っている

「無茶言わないで下さい…5分、5分座らせて…」

「仕方ありませんね」

ジェイドがはぁやれやれとでも言いたげに腰を下ろすと、監督生とどかりと大きめの石に座り込んだ

「はぁ…はぁ…み、水…」

監督生は背負っていたリュックから水筒を取り出し、一気に煽る

ひんやりした感覚が喉を通り抜ける。身体が内側から冷まされる感覚に、監督生は目を細めた

「生き返る…」

水筒をリュックへ戻し、スマホを手に取る

何分くらいぶっ通しで山登りさせられたんだろう…と時計を確認しようとしたのだが、監督生はスマホの画面を見て少し固まった

「どうされました?」

「あぁ、いえ…」

ジェイドはじっと監督生の様子を見つめている

ユウはスマホの画面を埋める着信履歴を見ていて、その視線に気が付かなかった

スマホの画面は、着信履歴で埋まっていた

それ自体は別に大した問題ではないのだが、その相手が問題だった

着信履歴に書かれた名前は、今、自分と一緒に山に登っているはずのジェイドのものだ

監督生は、なんだか急に怖くなる。

今まで見落としていた違和感。見落とすはずのない違和感が、今になって突然思い出される

普段は時間を守るのに、やたら早く来たジェイド先輩。

食いしん坊の彼がお弁当の話題に触れなかった。

いつもならしつこいくらい山の話をするハズなのに、まるで話を避けるようにしていた

そして彼は、

1度も自分を呼んでいない

監督生はなんてことないように笑って

「………ジェイド先輩、少し電話をしても?」

と尋ねた

「ええ、構いませんよ」

ジェイドはニッコリと微笑む。その視線は先程から、監督生から1度も外されちゃいなかった

監督生は少し震えそうになる指先でスマホを操作し、着信履歴から電話をかけ直す

「もしもし?」

「もしもし、監督生さんですか?」

電話口から、ジェイドの声がする

当然、目の前の彼はスマホなんぞ手に持っていない

「今、どちらに?時間通りにお迎えに行きましたら、監督生さんはもう既に出かけたとグリム君が仰るものですから…まさか僕との約束をお忘れになられました?」

スマホ越しのジェイドの声は、ちょっぴり呆れを含んだものだった

ユウは自分を見つめるジェイドに微笑みつつ、声が震えないように口を開く

「あの、」

「はい」

「いま、僕、ジェイド先輩と山登りしてるんです」

「………今なんと?」

「ジェイド先輩と、山登りしてます。約束より前の時間に迎えに来たので、驚いちゃって!ジェイド先輩ったら、本当に山が好きなんだから」

監督生はエース達と話す時のような声色で、楽しげに聞こえるように意識する

内心は冷や汗いっぱいで心臓がバクバクしている

ジェイド先輩、お願い、気付いて、助けて

そんな気持ちだった。

「監督生さん、よく聞いて」

電話口のジェイドの声のトーンが落とされる

「トイレでも何でもいいので、理由をつけて距離を開けてから、一気に山を駆け降りてください」

「はい」

「振り返らず、元いた場所まで。直ぐに迎えに行きますから。出来ますね?」

「はい、大丈夫です」

「何も心配はいりません。ただ走ればいいんです。海の中、僕達から逃げるより簡単でしょう?」

電話口の声が笑う。ユウもほんの少し笑った。いつの間にか緊張でかたくなりつつあった身体が少し解れる

「では、また会いましょう」

通話が切れる。その途端

「さぁ、行きましょうか」

目の前のジェイドは立ち上がった。何故だか彼は、やたらと先へ進みたがる

「すみません、お水を飲んだらちょっとトイレに行きたくなっちゃって…少しここで待ってて下さい」

監督生は心底申し訳なさそうに言って、先程電話口から指示されたようにジェイドから距離をとった

とりあえず姿が見えなくなるギリギリまで、逃げようとしているのを察せられないようにゆっくりと歩いて離れる

ジェイドはその場から動いてはいないものの、そのヘテロクロミアは監督生をずっと追いかけている

その背中に突き刺さる視線になんだか執着じみたものを感じ、監督生は走り出したいのを何とか堪えて振り返る

「音聞こえたら嫌なんで、そこで待ってて下さいね!」

と念を押し、しゃがみ込む。

草陰に隠れて5mほど移動し、大きめの木の影で音を立てないように立ち上がると、監督生は全速力で山を駆け下りた



ユウはとにかく走っていた

振り返る余裕はない。獣道で足を取られずに走ることに全神経を集中させていないと、すぐにでもすっ転んでしまいそうだ

ジェイドを模したアレは自分が逃げたことに気が付いただろうか。後ろから追いかけて来ているだろうか

背後の音も気配も分からない

自分の荒い息と心臓の音、草を掻き分け泥を蹴る音が邪魔で、背後の音を聞き分ける余裕もない

ただただ走る。なんだか背中にジェイドを模した何かの視線が突き刺さっている気がして、額を伝う汗とは違う汗が背中に流れる

「はぁ、はぁ、…ジェイド先輩!」

木々が少しだけ開けた場所に出る。最初にこの山に来た場所だ

来た時と同じように、闇の鏡と繋がっている

「監督生さん!」

ジェイドはマジカルペンを構えて鏡の前で待っていた

「はぁ、はぁ、…着いた…良かった…」

安心感から走る速度を少し落とす監督生だったが、ジェイドと視線が合わないことに気が付き、顔を引き攣らせる

ジェイドは、ユウの後ろを見ている

「ジェ、イド先、輩?」

「ユウさん!止まらないで!ファイアショット!!」

ごぅ!と体のすぐ横を炎の塊が通過すると同時に、背後から獣の咆哮のような声が響き渡る

ジェイドは監督生に手を伸ばし抱え込むと、なりふり構わず全力で鏡へと飛び込んだ



無事に学園へと戻った監督生は、ジェイドの腕の中で呆然としていた

「ユウさん、ご無事ですか?お怪我は?」

「ジェ、ジェイド先輩…昨日の賄いは?」

「エリンギのバターソテーとマッシュルームをふんだんに使ったキノコパスタ、あと、椎茸の肉詰めです」

「ほ、本物だぁ…」

疲労やら安心やらで腰が抜けたらしい監督生を、ジェイドはじっくりと観察する

枝や草で出来た小さな切り傷はあるが、目立った外傷は見当たらない

可愛い後輩が無事なことをしっかりと確認してから

「あんなのと僕を間違えるなんて酷いです、シクシク」

とジェイドはお得意の泣き真似を披露する

「え、あんなのって?」

監督生が恐る恐るそう尋ねる

「監督生さんには、アレが本当に僕に見えていたんですか?」

ジェイドはニッコリと微笑んで、監督生の髪を整え、汗まみれの顔をポケットから取り出したハンカチで拭ってやる

「えっと…」

正直、中身に多少違和感は覚えたが、見た目は完璧にジェイドだった。

言い淀む様子に、ジェイドの笑みはいつの間にか消えていた

「酷いですね。本当に、僕に見えました?」

あんな獣と人と泥を無理やりに捏ねて混ぜたような物が。

監督生はジェイドのヘテロクロミアと視線を合わせつつ

「もう二度と山へ行かない」

と、顔を歪めて蚊の鳴くような声で言った

当初予定していた山に本物のジェイドと登り、しっかり満喫してくることになるのはこの1時間後のことである

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