クラゲの思考
水槽の底に、ふわりと影が差す
ドーラクが水面を仰ぐと、半透明のスカートがゆらりゆらりと揺れていた
その下から数えるのも億劫なほどの量の触手が垂れている
「ナガレ」
ドーラクが呼ぶと、スカートが水流を孕んで膨れ上がる
スカートの主であるナガレは、熱帯地方に生息するハコクラゲの大型種で、クラゲの中でも珍しく、水中を漂うだけでなく泳ぐことができる
人間でも最短1分で殺してしまう程の毒をもつキロネックス…オーストラリアウンバチクラゲと呼ばれる種族だ
今はドーラクに気を遣い、多少触手を縮めているようだが、仮に他の誰かが通りかかり触れれば激痛のあまり心臓が止まってしまうほどの毒が流し込まれるであろう
「ドーラクさん、御機嫌よう」
垂れ下がる触手を避けて横にズレたドーラクところまで降りてきた彼女は、ニッコリと笑った
「ギシギシ、今日はどーしたよ」
「また、私達のところの水流がおかしいの」
壁に当たって、みんな衰弱してしまうわ
ナガレはクラゲの水槽の伝達役をしていることが多い。というのも、先程も述べたように、他のクラゲ達は水流に乗ることはできても任意の方向に泳ぐことを得意としないからだ。
クラゲ達のまとめ役として動くナガレは、分厚い甲殻により触手を気にせずに済むドーラクを何かと頼ることが多い
ドーラクは
「とりあえず、また角の調節でもするか」
と水槽に取り付ける為の道具を取りに向かう
水族館で展示する場合は、水槽は円形に作り、水流をその水槽の形に沿わせることでどこにもクラゲがぶつかってしまわない様に工夫されている
かつては四角い水槽で飼育されていたが、その頃は壁にぶつかり衰弱したり、カサの中にポンプの空気が入り込み水面へ浮かびあがり死んでしまったりと、中々飼育が難しかったと聞く
「ギシギシ、また大変だな」
オマエ達の大半は泳げないからな。
ドーラクはさっさとナガレ達クラゲの水槽へ向かい始める。魔力を受けている時間は限られているのだ。
人型をとっているうちに直しておかないと、クラゲの死体すら浮いていない展示物のない水槽になってしまう。クラゲは死ぬと溶けて海水に消えてしまうのだ
「この姿ならみんなも多少自由に泳げるのですけれど…元の姿に戻ると、やはり泳げませんからね」
と彼に続きながら、大型のハコクラゲは困った様に笑う
早く直してやらねぇとな、とドーラクは通路用水槽を進む。端に置いてあった工具箱を長い脚でひょいと摘みあげてナガレに渡す
自分は巨大なプラ板を何枚も持ち上げ、海水を分けて器用に進んでいく
工具箱を抱え、タカアシガニの背中を追うことしばし
「そーいえば、ドーラクさん」
「あぁ?」
クラゲに脳ミソが無いのはご存知?
ナガレは思い出したかのように話しかけた
一度、このタカアシガニの言ってみたいことがあったのだ。
天敵から逃げる為に泳ぎを発達させたという説のある彼女の種族は、他のクラゲと違い、敵をしっかりと認識して逃げるという行為を選択していると推測される
だからであろうか、漂うだけの仲間達と違い、他人を意識する能力が長けていること。それが、クラゲ達にはないこんな想いを作り上げたのだろうか
ナガレは時折、脳みそすらない自分の頭が恨めしくあった。この感覚を意識する事すら億劫であった。
「ミソねぇの?」
「はい。考える器官がない筈なのに、わたしは貴方のことばかり考えてしまいます」
ドーラクは歩みを止めた。触手を引き摺り、ドーラクと視線を合わすために低い位置を漂うナガレを見つめる
「あなたが蟹でなければ!魚であったなら、触手を絡め毒を流し込み、ウロコも残さず食していたのに!その甲殻が邪魔なのです!」
「ギシギシ、えらく歪んでるなぁ」
ドーラクは捕食されない余裕だろうか、いつものように笑う。肩を揺らし、心底おかしいと言わんばかりに
ナガレはそんなドーラクを眺め、触手を蠢かせる
海老程度なら捕食するナガレの触手。人間をも殺せる猛毒の持ち主
なのに、そんなことを微塵も感じさせず、ただのメスとして、ナガレは泣いてしまいそうに笑う
「こんなわからない感覚に悩まされるなら、思考などいりませんでした」
あなたが分厚い甲殻のある蟹でなければ、この考えることをやめるために食べてしまいましたのに
キロネックスの彼女を見つめ、タカアシガニはいつものように軋む様に
「ギシギシ」
と笑う
なぁ、ナガレ。そう、海水に溶けてしまいそうな優しい声でクラゲを呼び
「恋ってのは心でするもんだ」
クラゲもカニもな
ドーラクは目を見開いたナガレの頭部を撫でる。
ナガレは、ごぽりと口から息を吐く。それは言葉としての形をなさなかったらしい
「なんてな、ギシギシ」
☆☆☆
リアルな話、タカアシガニとキロネックスが出会うことは無いから毒が効くとかわからん。
そして、多分毒が効く←
まぁ、話の都合上ってやつですな。
[ 239/554 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]