「 」に溺れる
サカマタは、水族館から居なくなった
館長を連れて、海の支配者は本来の場所に帰ったのだ
サカマタが水族館に縛られていたのは、館長に恐怖を抱き従っていたからに過ぎない
館長が倒された今、彼がこの場所に居る理由は何も無かった
四角い海に馴染めなかった彼は、海へ帰りたいと常に願っていたのだ
サカマタはきっと、振り返ることなく大海原へと行ったのだろう。ナガレという同種族の雌など、頭の片隅にも残っていなかっただろう
目を閉じると、不鮮明なオスの鯱の後ろ姿が何度も何度も脳内に繰り返し映し出される
想像の中での彼は一体どんな顔をしているのだろうか。幸せそうに、嬉しそうに海へ飛び込んだのだろうか
ナガレは、ぼんやりと水槽の中で浮かんで意識の海に沈む
濾過され満たされた海水は、外の本物の海から持ち込まれたものであるはずなのに、どこまでも清潔で味気ない
外なら、何か違うのだろうか…本当の海ならこのどうしようもなく不明瞭な気持ちをどうにかしてくれるのだろうか
水族館はトップを無くし、機能しなくなった。人型を取った幹部達が何とか魚たちの世話だけは続けているが、それも時間のうちだろう
忙しさの合間にナガレは、時折海に向けてコールを放つ
どれだけ時間に追われても、彼女には孤独が付き纏った。少ない仮眠時間も、彼女は眠れずにいた
疲労よりも、淋しさがナガレの中を占めていた
ナガレの瞼の内側が、海水では無いもので満たされる
「もう、限界やんね…」
ナガレは唇を噛み締めて、海面を睨む。無機質な、人工的な光がそこにあるだけだった
くるりと向きを変え、尾を力一杯に振る
突如勢いをつけて泳ぎ始めた彼女は、狩りの直前のように強烈な加速を見せて、周りの風景を置き去りにしていく
「もう、限界やんね!」
ナガレは、大人しい雌だ。水族館で育ち、水族館で暮らしてきた呑気な鯱だ
彼女は産まれて初めて、自らの四角い海をぶち破った
飛び散るアクリル片と海水に見向きもせず、館内に足跡を残しながら走る
水族館の裏手へと出た彼女は、濾過されていないどす黒く渦巻く海水へと、躊躇わずに飛び込んだのだった
ナガレにとって初めての海は、とても広かった。
そして汚れていて、視界すら曖昧で頼りなくて、不安を掻き立てていく
何処まで行っても壁も果てもなくて、何とか心を奮い立たせていないと、このまま流されて消えてしまいそうだった
ナガレは怯えたように目をギュと瞑る
こんなに広い広い海水の中で、目的の姿など見付からないかもしれないという不安がドロドロと染み出してきて、心臓を侵食していく気がした
しかし、薄汚れてひどく濁った海水を必死に掻く事だけは、決して止めなかった
なんどもなんどもエコーロケーションを放ち、いつか聞こえるはずの返事に耳を澄ませる
時折聞こえる船の音や人間の気配を避けながら、ただ縋る様に同じことを繰り返した
何度目か解らないコールを放ち、ようやく微かに聞こえた彼の声にナガレは必死に近付いていく
長距離を泳いだ事もないナガレは、眠れていないこともありすでに疲弊しきっていたが、気力だけで泳いでいた
不鮮明で何も映らなかった視界に、ようやく鮮明な姿を捉えて彼女はそれを逃さないようにと必死だった
彼の前にたどたどしい動きでたどり着く
半ば溺れながら、ナガレは笑った
「見つけたやんね」
サカマタは、何も言わなかった
必死に荒い呼吸を繰り返すナガレに、恐る恐る手を伸ばし、ほんの少し髪に触れる
ナガレは目を細めて、サカマタ君。と彼を呼ぶ
「私、サカマタ君が居ないと胸が苦しくて息ができなくて、まるで溺れてしまうみたいやんね…」
やから、お願い
「私を助けて?」
ナガレは、サカマタを通して海の果てを見つめていた
ふわりふわりと、ナガレの身体を海水が揺さぶる
「………、」
サカマタは彼女を見つめて、そして
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