彼に触れる
サカマタは大海原で育ち、狩りを得意としてきた
特にトラジエントは、魚などではなく海に住む哺乳類のアシカやセイウチといった大型の獲物を狙う
数多くの獲物を自分ひとりで仕留めてきた彼は当然の如く、暢気に口を開けて餌を入れてもらっていたナガレよりも優れた身体能力を持っていた
多少経験が有るとはいえ毎日狭い海をのんびり泳いでいたナガレを、サカマタが追い抜きショーのメインとなる日も近いだろう
現にサカマタは、ナガレが指導者となって数日でいくつものサインを覚え、サインが出たタイミングで芸を実行するのに成功していた
勢い良く海から飛び出し、水しぶきを巻き上げながら背中から海面に飛び込むスプラッシュジャンプを華麗に決めたサカマタに、ナガレはパチパチと手を鳴らす
彼の巨体が巻き込んだ空気が泡となり海水を白く濁らせている中、ナガレは器用に泳いでサカマタの外套のような所を握り締め頬を高揚させ笑った
「サカマタ君凄いやんね!ジャンプもすごく高い!流石やんね!」
ニコニコと称賛を送る彼女に、サカマタも満更でも無いようで満足そうに喉を鳴らす
「これくらい習わずとも出来て当然だ」
と笑った彼につられて、ナガレも笑みを深める
サカマタの発言は自信過剰でもなんでもなく、実際野生に暮らす鯱は軽々と海面を飛び出し迫力満点なジャンプを見せる
海上を視察する為や自らの力を見せ付ける為に行われる等諸説あるが、解明されてはおらず正しい理由は解らない
しかし、自然の中で垣間見せる美しく逞しいそれが人々の心を魅了しているのは確かだろう
何tもある巨体をしなやかにくねらせて、勢い良く飛びだし軽々と宙を泳ぐ姿は雄々しく、まさしく芸術の様だった
同種族のナガレの目には、尚更美しく眩しく見えた。自分では表現不可能な野性味あふれる猛々しさが、正直少し羨ましくもあった
しかしそれを微塵にも感じさせず、ナガレは彼の周りをくるりと泳ぐ
「サカマタ君でらスゴイやんね!」
「クククッ」
それは俺の真似か?とサカマタが肩を揺らすと、そうやんねとナガレは歯を見せる
「次のショーには、サカマタ君と一緒に出来るかもしれやんね」
私はジャンプとか怖いから苦手やんねーと言いながら、ナガレも先ほどのサカマタのように一度深く潜ってから海面へ向かい一直線に泳ぐ
サカマタ程ではないが軽やかにジャンプを決めたナガレは、頭から入水しそのまま彼の前に逆さまでたどり着く
一時的に、また水中が白く掻き混ぜられた
サカマタはナガレが海水まで連れてきた泡が立ち上るのを見ながら
「お前は、」
と口を開く。ナガレは重力に沿うように体勢を直しサカマタを見上げる
「ん?なぁに?」
「お前は」
海に出たことはないのか。と、狭い海をものともせず悠々と泳ぐナガレに、雄の鯱は問うた
ナガレの表情が僅かに固くなる
が、それを誤魔化す様に表情を取り繕い彼女はすぐに笑った
「…、私は水族館で産まれて水族館で育ったやんね」
「ここから出たいとは思わないのか」
サカマタはほぼ間髪を入れず尋ねた。それは、彼がここから出たいと強く思っていたかもしれない
一瞬、ナガレは言葉を詰まらせた
ナガレにとって、あまり触れて欲しい話題ではなかった。
ナガレはただ一匹の鯱であったし、人に慣れショーに参加していたこともあり、ほかの魚たちと比べ仕事が少なかったり何かと優遇されている面がある
それをよく思わない仲間、特に海から来た魚達は彼女に良くこう言ったのだ
『お前なんか、海で生きられないくせに』と
もちろん、まだ新入りのサカマタはそんなことを知らないし、悪意があるわけじゃない。自分はここから出たい、お前はどうなんだと言っているに過ぎない
温水育ちのナガレに、当て付けて問い詰めているわけではない
ナガレは僅かに緊張した身体を泳がせ解す。誤魔化す様にクルクルと髪を弄びながら
「ここの四角い海には確かに狭いやんね…でも、ここの海なら私は生きていけるやんね」
私は外に出たらきっとすぐ、死んでしまうんやろうね。そう彼女は少し寂しそうに笑った
「水族館は安全やんね、天敵も餌も何も困らない。言うこと聞いて、お客さんに喜んでもらって、そうしたらずっと平和」
外の海はきっと広い。行ってみたい。でも、餌の取り方を知らない。仲間もいない。あの広い海に、自分の居場所はない
ナガレは、目の前の雄の鯱と比べずとも、自分が弱い存在だと十分すぎるほど理解していた
「サカマタ君は、ここから出たいんやよね?海に居場所があるんやね」
羨ましいな。とナガレは口元を歪めた
「…、………。」
サカマタは今にも泣きそう顔で笑うナガレに答えず、次の技を教えろとショーの練習を促しただけだった
ナガレは、サカマタが答えないことに特に言及しなかった。素直に従い新たなサインの説明を始める
サカマタは、目の前の雌を憐れに思った。群れなければ生きていけない、海を知らない、人間に媚びて生きる事しか出来ない同種族のナガレを
そして何より、それを明確に理解しているために抗う事をしないナガレを、サカマタは心底憐れに思った
彼と彼女は内心で、同種族でありながら自分と相手は大きく違うのだろうと呟く
皮肉にも互いに同じことを浮かべているだなんて思いもしなかった
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