彼に出会う

ナガレが行動を起こさずとも、雄の鯱との関わりはすぐに訪れた

水族館育ちで古株のナガレは、当然のことながらショーの目玉として活躍していたし、同種族が彼女しか居ないこともあり教育係として任命されたのだ

相手の雄がどう考えているかは解らないが、ナガレにとっては願ってもないことだった

館長からの呼び出しを受け、雄の鯱の元へ向かうナガレは少し浮かれながら泳ぐ

途中すれ違う魚達は、普段落ち着いているナガレが鼻歌でも聞こえてきそうな程機嫌よく泳いでいくのを不思議そうに眺めていた

数日前まで大暴れしていた危険動物に会うのに、まるでデートに行くかのように軽い足取りで良く会いに行けるなぁと、半ば呆れ半ば感心しながら鉄火マキも彼女を見送る

温水育ちのナガレは、他の仲間たちと比べ警戒心が欠如しているのかもしれない

ナガレはショーの為に造られた巨大水槽に辿り着くと、ぐるりと辺りを見渡した

海水の揺らめくなか、黒色を身に纏った巨体…雄の鯱は、すでに水槽の底で指導者が来るのを待っていた

何処か不満そうにブスリと佇んでいる雄の鯱とは対照的に、ナガレは満面の笑みで近付いて行く

ナガレに気が付き雄の鯱がジロりと鋭い眼力で見やるが、ナガレは怯まず手を差し出した

「こんにちは。私はナガレやんね、よろしく」

握手を求めたナガレの手を、鯱の雄は一瞥しただけだった

「ナガレ?」

「あ、ええと、名前やんね。私はここで産まれたから人間に名前を付けられたんよ」

雄の鯱は大して興味がないようで、何も答えなかった。ナガレは少しだけ困った様に眉を下げ、上げたままの手をさ迷わせる

雄の鯱はアイパッチに隠された目で無感情に立ち尽くしていた

どこからどうみても友好的では無いトラジエントは、内心こんな生温い環境で育った雌にものを習うなんて気に入らないと思っていた

しかし、恐ろしい化け物館長に従わなければ文字通り命の危機が訪れる。この短期間に鯱は学ばされたのだ

この水族館では従順でなければならないと。それはトラジエントの鯱のプライドを大きく傷付けたし、燻る想いを植え付けていた。

だからと言って、他人と傷を舐め合うなんてもっての外だとトラジエントの雄は奥歯を噛み締める

ナガレは今にも何かを喰い殺しそうな雄を前に、苦笑いを浮かべるに留めた

ナガレは人間との生活に慣れていたし、他人の手を煩わせるようなことをそもそもしない為館長の逆鱗に触れることもなく特に恐れてはいない

…水族館のショーのメインであるナガレに手を出せなかっただけかもしれないが

館長への不満を彼女に伝えたところで頭に疑問符を浮かべるだけであろう。だが、まわりの評価は嫌でも聞こえてくる

自分はたまたま運がいいだけ。この水族館で一頭しかいない鯱であり、ショーのメインであり、雌であり…その他の理由も重なって館長に手を出されにくいだけ

一部の仲間達にそれを疎まれているのも、ナガレはひしひしと感じることがあった

雄の鯱は彼らと同じ目をしている。自分の不運を他人にぶつけたい目をしている。ナガレにはそう思えた

自分を見下ろす鯱に苦笑いを浮かべたまま、彼を煽らない様にナガレはあえてのんびりと口を開く

「アナタも、また名前を考えてもらえるんと違うかな。」

でも、それまでが困るね。と続けたナガレに、鯱は冷たく

「別に困らないだろう」

とだけ返す

嫌われてるなぁとナガレがは苦笑いを深める

「困るよ。私以外の鯱はアナタだけやけど、また増えるかもしれないし…呼ぶとき困る」

「………。」

雄の鯱は、先程から表情を動かさないものの、どこか呆気にとられているようだった

ナガレは群れで暮らす鯱であった為そのように考えるのかもしれない。少なくとも雄の鯱はその考えに至らなかったらしく、少しだけ思案するような素振りを見せた

「…サカマタ君てどう?」

「……。」

「私達の別名なんてね。」

あとは、オルカとかキラーホエールとかも有るねぇ。とナガレは名前候補を連ねていく

何故彼女は鯱の別名にこだわるかは解らないが、恐らく一時的なものだと軽く考えたのかもしれない

雄の鯱はぼんやりとナガレの顔を眺め

「サカマタで良い」

と答える。ナガレのマイペースさに毒気を抜かれたのか、先程までの苛立ちも霧散していた

「そっか。」

と、ナガレは満足そうに、穏やかに笑った

「それにしてもサカマタ君は大きいね」

ナガレと比べ、サカマタの身体はふた周り程大きい。

サカマタの周りを泳ぎ始めたナガレの動きを目で捉えながら、彼は呆れたように口を開く

「そんなことより、練習とやらはいいのか」

「あ、うん、しやなあかんね。改めて」

よろしくね、サカマタ君。と、ナガレはまた懲りずに手を差し出す

サカマタはしばらくその手を眺めて、掴んだら引きちぎれてしまいそうだとぼんやり考えていた

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