甘い言葉を僕は知らない

穏やかな日が射す昼時、檻の中に二つの影があった

珍しく静かで平和な午後を噛み締めながら、彼女達はのんびりと過ごしているようだった

「意外と大人しいんですね、ハルトさん」

「?」

「あはは、今はわからないよね」

逢魔々時動物園唯一の飼育員である蒼井華は、黒豹の少し硬い毛にブラシを通しながら表情を緩めた

黒豹…ハルト…は彼女の膝に前足と顎を乗せ、目を細める。

今の彼は魔力を受けておらず、人型をしていなければ言葉も解らない。どこの動物園にでもいる、ただの黒豹に過ぎない

しかし、華は人間の友達に対するのと同じ様に、喋りかけるのをやめなかった

「ハルトさんは甘えたがりだよね。いつもは掃除の邪魔したりしてくるけど、頭撫でると大人しくなるのは変わらない」

クスクスと楽しそうに1人肩を揺らして、また黒い毛皮にブラシを通す

黒豹は微睡んだ目で穏やかに尾を揺らすだけで、肉食獣特有の緊張感の欠片も無かった

幾分か大型であることを除けば、家庭で飼われている猫のように警戒心も何もなく彼女の好きにされている

その内仰向けに腹を見せて眠りそうである

「そーいえば、野生では餓死しそうになってたんだっけ」

僅かの間、ブラッシングの手が止まる

黒豹が不思議そうにほんの少し瞼を持ち上げて華を見上げる

しばし見つめ合う1人と1匹であったが、華が表情を崩して手を再び動かすと黒豹は満足そうにまた目を細めた

「大変だったんだね、ハルトさん」

「っ!」

言葉を理解したわけではないだろうが、まるで返事をするかのように身じろぎしたハルトが華の腹部に頭を押し付ける

構ってよ。と、いつもの言葉が聞こえてくるかの様な仕草に、半ば呆れつつ

「擽ったいよハルトさん」

とその動きを優しく制す

頭を胸の前で抱え込むようにして撫でると、黒豹はザラザラした舌を出して彼女の肌をそっと舐めた

飼い猫より、その姿は人に懐いた大型犬を彷彿とさせる

「いつも、」

いつもハルトさんがこんな感じならいいのに

そう、華は誰にも聞こえない独り言を、とてもとても小さく吐いた

普段のハルトがあまり知らないような優しい笑顔を浮かべ、彼の未だに押し付けられた頭部をぎゅううと抱き締める

ブラッシング後の柔らかな体毛を撫でてもらい、幸せそうに顔を彼女の腕の中に埋める彼はゴロゴロと喉を鳴らした

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