大輪の芍薬が咲く季節、私は三月町に来ていた。鮮やかな紅に彩られた懐かしい街並みの中を、ゆっくり歩く。一歩、また一歩と踏み出せば、記憶の中のブリキの缶からキラキラにコーティングされた『あの頃』が溢れ出す。ふと思うことは、あの子の笑顔が変わってしまった日のこと。私は悲しかった。あの子は笑ってた。今はもう、『あの頃』の話。
狭い路地の角を曲がると、
「…あかり」
そこには、あの子がいた。振り向いたあの子の顔は、ひどく大人びていた。
「あら、久しぶりね」
「ええ、あかりに会いたくなって来ちゃった」
「ふふ、嬉しいわ。でも私というより夕飯がお目当てでしょ」
「それはあながち間違いとは言い切れないわね。だってあかりの作る料理は、どれも絶品なんだもの!」
私の言葉にくすくすと笑う彼女。小さな頃から、あかりの笑顔が大好きだった。色のない世界が彩られていく感覚、私はしっかりと覚えている。だから今もこうして、地に足をつけてお天道様の下で息をしていられるの。
「お仕事、相変わらず忙しそうね」
でも、私が働き始めてから、彼女は私の顔を見て眉間に皺を寄らせることが多くなった。それは彼女が私のことを心配してくれている証ではあるけれど。
「ちょっと、ね」
私があっけらかんと答えると、「…そう」と、伏し目がちに呟いて、あかりは一歩前に出た。自然に足は、あかりの家を目指してる。今日の夕飯はなんだろう、アスパラの焼きびたしが食べたい。そんな私の思考を止めたのは、彼女の言葉。
「最近…知り合った子がいるのよ。高校生の男の子で、どことなくあなたに似ているの」
「…私と?」
「ええ。ガリガリに痩せている所なんて、そっくり」
「似てるって、そこ?」
冗談よ、と言って彼女は笑う。
「一番そっくりなのは、自分の幸せに無頓着なところ、かな」
前を向いている彼女の顔は見えやしない。私は心外だなあと思った。
「零君って言ってね。あの子、うちに来てもずっと膝の上で両手を握ってるの。何かに触れてしまうことを極端に恐れているみたいに。…あなたにそっくりよ。あなたの場合はポケットの中、だけど」
上着のポケットに両手を突っ込んでいた私は、寒いからよ、と抗議してから「それに、」と言葉を続けた。
「私は無頓着なんかじゃない。寧ろ貪欲なくらいだわ。悲しくて辛くて、苦いだけの人生なんて、もうまっぴら」
そう、私は誰よりも幸せでありたい。
「触れることだって今は怖くない。待ってたって奇跡は何も起こらないもの」
そして私の幸せは、あかりの笑顔。あかりが幸せなら、それでいい。
「ねえ、」
でも、今のあかりはどうなのだろうか。幸せに、なってくれるだろうか。
「…あかり、」
きまぐれな神様が私達の頭上にブーケを投げる時、彼女はその手を伸ばしてくれるだろうか。
私が立ち止まったことを察して、あかりも立ち止まる。彼女が振り向くと、紅のひかれていない唇が三日月の形をして私を見ていた。
「妹達が、待ってるわ」
緩く結ばれた彼女の黒髪は、夜風に揺れる。錆び付いたブリキの缶から、現在(いま)がこぼれ落ちた。
ohno
企画「おんなのこものがたり」に提出。素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました。
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