six | ナノ







隣の家のお兄ちゃんのことが私は好きだった。五つも年が離れていると、それだけでうんとうんとかっこよく見えるものだから、私の「ハツコイ」は叶わなくて当然だったのかもしれない。ただの憧れじゃないのと言われると否定もできないし。ただ、共働きで両親が不在がちだった私のことを気にかけて(否、両親に言われて仕方なくだったかもしれないけれど)よくお部屋に入れて遊んでくれたお兄ちゃんは私の自慢のお兄ちゃんであった。同級生の男子よりうんとうんと大人びたお兄ちゃんは私の憧れの人でもあり、同時に本当の兄のようにも思っていた。
学校が違えば、生活リズムも異なり、疎遠になるのも当然で。お兄ちゃんが大学生になってから自宅を出て、幼なじみであるというのにまったく顔を合わせなくなっていた私たちが再会したのは奇しくも私の通っている高校でのことだった。うちのクラスを担当する教育実習の先生です、と紹介され、見慣れないスーツに身を包んで別人となったお兄ちゃんがそこにいたのだった。

「え、嘘」

驚きのあまり小さく声を漏らす。お手本のような爽やかな笑顔で彼はクラスのみんなを虜にした。自然と微笑ましい気持ちになった。意地悪で子供っぽい男子に彼女いるんですか〜なんてからかわれ、それをデュクシで容赦なく撃退し、かっこいいけど何だか残念だね、と女子に囁かれても、私の胸はお兄ちゃんに対してドキドキしっぱなしだった。忘れていたけれど、ハツコイ、なのだ。思い出で美化されているのではなくて、私は雰囲気が全く変わったお兄ちゃんを見てもかっこいいの一言しか出てこない。いつ話しかけよう、なんて話しかけよう、とすぐさま私の脳内はお兄ちゃんにジャックされてしまったのだった。

「お兄ちゃん」
「はいなんですか……もしかしてなまえ……?」
「そうだよ」

簡単なレクリエーションが終わって、教室の隅に紛れ生徒のみんなからうまく距離をとることに成功したらしいお兄ちゃんは、中庭でひとり寂しくご飯を食べていたこの寒いのによくやるものだ。中学生くらいなら教育実習生はみんなで一緒にご飯を食べるけれど、高校生ともなると生徒の方はそんなに興味を示さない。示したとしても相手が望んでいなければ空気を読むくらいのことはできるようになっているのだ。お兄ちゃんは、にこにこ笑顔で取っ付きやすいいけれど、実際は全然目が笑っていないから長時間一緒にいることはなかなか耐え辛い。威圧感だけで人を退けることのできる貴重な人なのである。

「びっくりした……なまえここに通ってたんですね」
「それはこっちのセリフだよ、シオンお兄ちゃん。まさかお兄ちゃんが先生になるなんて私思ってもいなかったよ」
「だって国家公務員って給料いいし将来安泰じゃないですか」
「そうだけど」
「あと資格取るのが一番楽で」
「お兄ちゃん変わってないねえ」

お兄ちゃん、お兄ちゃん、と一緒にいなかった時間を埋めるように呼んでみる。ほかの人の前では一応「先生」なのに、私だけが「お兄ちゃん」って呼べるのだと思うと独占欲が満たされた。私の、私だけのお兄ちゃん。特別な人。一緒に食べてもいい? と甘えると仕方ないですねえ、って隣に置いてくれた。

「人ってそんな簡単に変われるものじゃないですよ」
「だろうね」
「ああ、でも」
「なまえは、大人っぽく、可愛くなりましたね」

な、なんて口説き文句! 思わず顔を赤く染めるとニヤニヤと意地悪く笑うお兄ちゃんが見えてからかわれたのだと察した。なによう、本気にしちゃったじゃない。

「なまえは反応がよくていいですね。アルバさんに次ぐ人材です」
「それって褒めているの?」
「褒めてますよ。俺のおもちゃとして優秀ってね」
「ひっどーい」

並んでご飯を食べながら、昔みたいに私たちはくだらない話をする。離れていた中学のこと、大学のこと。お兄ちゃんの口から知らない人の名前がたくさん飛び出すのは私の胸を苦しくさせた。悲しい顔をしたらさっきみたいに弄られるので誤魔化すように話題を紡ぐ。いつまでここにいるの。一ヶ月ですよ。家は。自宅からのほうが近いので戻ってきます。

「ほんと?! じゃあ、久しぶりに一緒に遊ぼうよ」
「嫌ですよ。実習生はとんでもなく忙しいんですよ」
「お兄ちゃんは優秀だからなんとかなるよ」
「わかりませんか、お子ちゃまにつきあっている時間はないと言っているんです」

何が琴線に触れたのか私にはわからなかったけれど、瞬時に底冷えした瞳から、突き放した口調からお兄ちゃんが怒ってしまったことがわかった。気まずくなって黙り込んだところにちょうど予鈴が鳴って、私は逃げるようにその場から立ち去った。



「欲求不満だよお……」

おんなじ学校にいるのにお兄ちゃんにまったく会えない。会えるとしても授業中に教室の隅っこで勉強しているくらいで会話するきっかけがない。校内で会えないなら校外で会うしかないな……と決意を固める。今晩、お兄ちゃんの部屋に突撃してやろう。一度決めてしまえば吹っ切れてお兄ちゃんに会うのが楽しみでたまらなかった。

「よし」

玄関から突撃してしまえば追い返されてしまうのはわかりきっているので、今回はベランダからの侵入となる。口実のためにちょっと高いプリンやあんみつを学校帰りに買って帰ってきたのだ。この寒い季節に薄着の女子をベランダに放置なんてことは天下のドSのお兄ちゃんだってさすがにしないだろう。私服に着替えて姿見で確信して、何も問題がないことを確認するとベランダに飛び移り、窓をノックした。

「何やってるんだなまえ」
「えへへー遊びに来ちゃった」
「玄関から来いよ」
「シシリーさんに追い返されちゃうでしょ……」
「よくわかってるじゃないか」

昔みたいに黒系の私服に身を包んでいるお兄ちゃんはやっぱりかっこいい。私の姿を見て少しだけ目を丸くしたあと、仕方なしに部屋に入れてくれるのだから、優しいところも変わっていない。幸せな気分でお兄ちゃんの部屋に足を踏み入れたけれどしかし、それは吹っ飛んでしまった。見ず知らずの男女が数人、お兄ちゃんの部屋にいる。私があそびにいくのはやんわりと断ったのに他の人はいいんだ。

「ロス〜いきなりどうしたの? ってかその子誰?」
「決まってんだろ、彼女に」
「こんな可愛い子と隠れて付き合っていたなんてロスもやるなあ」
「え、あ、あの……?」
「違いますよ。なまえは隣の家の妹みたいな子です。そこの勇者さんと違って俺は人望あるんで、こーんな可愛い子が多忙な俺を気遣って好物なんか持ってきてくれたりしちゃうんですよ」
「僕だって人望あるよ!?」
「あるの……?」
「なんでそこに驚くの!?!?」

突然仲の良さそうな掛け合いが始まって私は一人おいてけぼりであった。ああ、五歳差ってこういうこと。私お兄ちゃんのこんな顔知らない。こんなに楽しそうに笑うお兄ちゃんなんて、知らない。ロスって呼び方も知らない。私の知らないお兄ちゃんを見て、知らない女の人に気安く触られて振りほどかないお兄ちゃんを見て、悟ってしまった。

「なまえ、どうしたんですか? 入らないんですか? そこだと寒いでしょう」
「ちょっとね。春はまだ遠いなあと思って」
「もうすぐ来るじゃないですか」
「そうだねえ」

季節的にはそうだけどねえ。もうお兄ちゃんの中に私はいないってことに気付いちゃったから、私の春はもろくも消え去って冬だよ。作り笑いをして、彼らの掛け合いの中に混ぜてもらって、私は次に来る春のにおいを、待っている。