six | ナノ






私には、その言葉はさながら魔法のようだと受け取めていました。心模様を映し出したような、陰湿的な雨が降り注ぐ宵の頃。
たとえどれほどの雨粒が私の瞳に入ろうとも、痛みをこらえてまであの方の姿を見つめようと思いました。形のいい唇が紡ぐ言の葉は、私の耳へ、指先へ、熱い抱擁をするのです。そのまま熱のこもった息を吐き出しながら、接吻をしました。彼の髪に触れると、雨に濡れているおかげで艶のあるものへとなっていました。私の指を絡めとり、けっして離すことのない。好きだった人からの、優しいひととき。


あの方、――郭嘉さまは私の憧れるお人でした。触れることのできない人。だからでしょうか。なんの取り柄もない恋心は終わりのない砂のように溢れるので、彼はたくさんの女人に好意を抱かれていたのです。私もその一人だったでしょう。

なかで、私は選ばれた人でした。
私は郭嘉さまと昔馴染みだったのです。幼い頃から彼を知る者はほとほと少なく、私の冴えない一生のなかで彼の生い立ちを知ることこそ取り柄でした。希望でもありました。
運命のいたずらか否や、一度は引き離されましたが、こうして出逢えたからこそ、接吻を交わしたのです。私たちは、互いに恋しあっていたのでした。

引き離されたというのは、いわゆる縁談が私に訪れたことです。家族は皆、賛成でした。それはそうでしょう、郭嘉さまはそのとき、まだ曹操さまに仕えていませんでしたから。ただ、頭の切れる端麗な面立ちの男と愛し合っていた私は、必死に縁談を断りました。しかし、断ることはできませんでした。

そのあと起きたことは、あまりにも悲惨であったため言えませんが、私はその後、郭嘉さまと運命の再会を果たしたのです。
夜分、侵入者が入ったと見張り台にいる侍女が告げました。きっと、野盗か何かと思った私は、屋敷内が慌ただしくなっているうちに、無断で格子窓から身を自由にさせました。雨はまだ小雨でした。
外套を羽織り、身を隠して野盗から、家から逃れました。なんて手薄な見張りだったのでしょう。あっさりと抜けることができました。その後、森へ入り、私は丘へと駆けていきました。私が嫁いだ男とは、孫権さまへ仕える男でしたので、野盗はあの方ではないと肩を落としていました。あの方は耳にしたところ、曹魏に与する軍師と聞いていましたから。

何はともあれ、私はようやく、丘へ到着をしました。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風はまるで私の心模様のようでした。今さら私に道はありませんでした。食料もなければ、衰えた体で国境を越えることなどできません。また、邸の者にも見つかれば逃亡者として私は捕らえられましょう。絶対絶命とはまさにこのこと。しかし、それでも私は今までの日々が嫌であったのです。
私は丘の下に広がる轟々と音をたてた川を眺めました。それだけで体が震え上がりました。雨水により水嵩は増し、なんて激しいものでしょうか。ここで死のうと思っていたわけではありませんが、もしもの時のため、生唾を飲み込んでその光景を目に焼き付けておきました。

それにしても、なんて肌寒い日だったのでしょう。外套はあったものの、薄着でもあったため、私は寒さに身を抱き締めました。きつく、爪をたてるほどに。
木の下に入り、切り株に腰をおろしました。雨は多少しのげましたが、私の胸に押し寄せているものは多大な恐怖心でした。野生の猛獣にでも襲われたら、探しにきた邸の者に見つかれば、もし、このまま野垂れ死にをしてしまえば。

「郭嘉さま……っ!」

恐ろしく、それでいて可能性のある現実に恐れた私は彼の名を呼びました。恋とは何とも人の心を殺すものだと思いました。

「郭嘉さま、会いたい……」

そう呼んで、私は膝を抱えました。
そのときです。背後からがさりと草を掻き分ける音が聞こえ、ぶるると馬の鳴く声がしたのです。私はとっさに身構え、やってくる男の影に息を呑みました。

「……郭嘉、さま」
「なまえ……!?」

その声は、まさしく私が焦がれ、いくどと思い出しては涙を流したあの声でした。けっして忘れることのないものでした。
声がした瞬間、郭嘉さまは私の体を強く引き寄せました。一目その姿をみたい、と思いはしましたが、何よりも肌寒いこの瞬間に包まれる柔らかな温もりに、とてつもない幸福を覚えていました。郭嘉さまは一向に私の身から離れず、ただひたすら、私の体の輪郭をなぞっていました。

「なまえ、なまえ……」

雨に濡れた髪に指を通し、わずかに郭嘉さまが顔をあげました。そのまま頬にかかる髪を耳にかけながら、私たちは幾年ぶりに再会をしたのでした。あの時よりも随分と大人びた瞳は清らかで、真摯なものとなっていました。すべてを見透かすようで、ああ、やはり彼は軍師になったのだと思いました。そうというのに、私といえば、円満な家族を築いたと周りは言いますが、内心常に郭嘉さまを想っていた女。過去に囚われ続けた、昔馴染み。

「なまえ、あぁ、ようやく逢えた」
「郭嘉さま……」
「私の名前以外にも何か言ってほしい。あなたの言葉を、もっと聞かせてほしいんだ」

郭嘉さまはさみしそうな眼差しのまま、私の鼻に、頬に、上唇に接吻をしました。
いまだ感動に包まれていた私でしたが、ようやく我に返ると郭嘉さまの頬に手をあてました。

「あなたに、逢いたかった。郭嘉さまが恋しくて、来る日も来る日も、忘れられませんでした。あなたという人こそ、私の運命の人なのだと常に思っておりました」

その言葉の途中で、私は郭嘉さまに接吻をされていました。行き場のない腕は彼の首裏に回り、濡れた髪に手をあてました。すらすらと通す髪に想いを馳せ、私は薄く瞳を開けました。近しい距離で鼓動を刻む男が、郭嘉さまというのはにわかに信じられませんでした。

「っ、あの侵入者は、郭嘉さまだったのですか……?」

途切れ途切れに言うと、郭嘉さまは暗闇のなかで笑みを浮かべて私を見つめていました。それは肯定ととれました。

「帰ろう、早く。私もなまえも、ようやく家に帰られるんだ」

互いの隣にずっといないと、私たちは迷子になったきりだろう?
だから、帰らないとならない。そう、言い訳をするように郭嘉さまは私にそう尋ねたので、私は勢いよく頷きました。くすくすと子供のように笑いがこみ上げてきていました。なんて優しいお人なのでしょう。なんて、魔法を使えるお人なのでしょう。私の胸には一切の不安もありませんでした。いい年をして、馬鹿な子ね。そう、母は言うでしょう。けれど私は郭嘉さまの隣にいたいと思ってしまいました。私と郭嘉さまは永遠に迷子になっていたところでした。

「なまえ、馬に乗って、ほら、大丈夫。昔二人で乗ったみたいに、ね」

こうして、私は彼と過去に縛られながら未来を生きていくのです。終わりは見えないけれど、郭嘉さまはとてつもない幸福と勝利を噛み締めていました。これからの未来を、暗示しているように。それでも雨はやみません。風は止まりません。私を愛してくれていた男は、今頃どうしているのでしょうか。人というのは不思議なことに、余裕ができえしまえばすべてに感謝をしたくなるのです。雨に、風に、私とあの人に。そして、私だけが幸福に包まれて、申し訳ないと。

私は彼と同じ馬にまたがり、豪雨のなか駆けていきます。ただ分かることは、彼は確かに生きているということだけでした。