six | ナノ






「ジェノス……?」



私の呟きは空を舞い、彼は振り返ることもなく、真っ直ぐ前だけを見て歩みを止めない。
私はと言うと、自転車のハンドルを固く握ったままで、その場から動けなかった。

そうだ、そんな筈がない。
ジェノスとは小学校卒業の頃に別れたっきりだ。それは引越しが原因で、お手紙書くからねと涙を堪えて言った私に、彼は少し大人びた笑顔で頷いた。
中学に上がると環境は変わり、思ったほど手紙を書く時間は無かった。けれども、ときどき交わすそれが嬉しかったし、離れていてもしっかりと彼を想えていることに満足を感じていた。
けれど本当は、毎日でも書くべきだったし、毎日でも会いに行くべきだったのだ。それに気づかされたのは、中学2年生になってからのことだった。
最初は信じることができなかった。手紙は不在の印が押されて戻ってきたし、電話はもちろん繋がらなかった。
思い切って訪ねたかつての町は、もう無かった。
破壊され、失われた人々と景色を思っても、彼の姿だけは上手く思うことが出来なかった。

あのまま彼が元気でいたなら、今は19歳だ。
風を受けるときらきら輝く金髪は少し伸びて、背はぐんと高くなっているだろう。
私はそんな空想を、知らない人に重ねたに違いない。
大体、あんなに肩がゴツゴツしていなかったし、両手にスーパーの袋を提げていなかったし、隣にハゲの人が歩いていたこともない。
さあ、帰ろう。一人暮らしの部屋で、今買ってきたもので料理をして、明日も学校へ行くのだから、準備をしなければ。
しかし手も足もその場から動かなかった。
ただ涙が溢れてきた。もう何年も経つというのに。未だに私は彼を忘れられない。

だって、好きだったから。


果つ恋、だとしても。

もう一度だけ名前を呼ばせて、お願い。
ちゃんと貴方を、思うから、想うから。





『素直になれるよ』






 「いやいややっぱあの子絶対お前のファンだって。」
「違います。」
「だって名前言ったぜ、結構大きい声で。」
「あいつは元々声がでかいんです。」
「え、知り合い?」
「あ…」
「挨拶くらいしたらいいじゃん。」
「いえ今の俺はサイボーグ…もうあいつを抱き締めてやることもできない…」
「えっそういう仲だったの!?えっ何だそれおい。」
「あいつと別れたのは…そう小学校の卒業式でした。俺はまだ幼くしかし誰よりもあいつを」
「小学校かよ早熟だな!!あと話長いの禁止!!」
「すみません。」
「でもそれなら尚更さあ…あ、泣いてる。」
「!!!」



「ジェノ…!?」

涙を零しながらもう一回だけ、と名前を口に出そうと思ったところで彼が凄い勢いで振り返った。頭がちょっと回転してはいけないところまで振れた気さえする。
私はジェノスの「ス」を発音するところだったので、必然的に唇が前に突き出していた。そのままの形で、私たちは見詰め合う。
つるりと涙が頬を流れていって、彼は此方へ来るべきかどうか迷うように身動ぎした。
空気が震える。

「ジェノス!!!」

小さな頃とは少し印象が違うけれど、もう間違い無い。
駆け出そうとした瞬間に、彼はまた勢い良く前を向いた。

「えっ」

私とハゲの人の声が重なり、ジェノスは猛然と走り出した。
物凄く速い。

「おいジェノス!待てって。」

それはハゲの人の声で、彼もまたジェノスの背を追って走り出す。こちらも速い。
何てことだ。
私は慌ててサドルに跨り、涙をぬぐう暇もなくペダルを踏んだ。


―――――――――――――――


耳元で風がビュンビュン鳴る。
こんなに漕いだことは無いという程に自転車を漕ぐ。
ずっと立ち漕ぎだ。そうしながら何度も呼ぶ。

「ジェノス!ねえ、ジェノスなんでしょ、待って!!」

しかし彼は止まらない。それこそ風の様に速く走る。
いつの間にあんなに足が速くなったというのだろうか。鍛えたのか。今はそういう選手をしていたりするのか。私は知りたい。失くしてもう二度と埋まらないと思っていた時間の全てをどうにかして共有したい。顔を見て、訊きたい。
そしてまたそのハゲの人はコーチか何かかというのも訊きたい。私がどんなに必死になっても全く縮まらない距離を瞬く間に0にし、今はジェノスの少し前を駆けている。
振り返り振り返りしているハゲの人の口が開いているのが見える。どうやら凄いスピードで走りながら会話をしているらしい。何てことだ、ほとんど超人じゃないか。
私の息などとっくに切れている。喉から鉄の味がするし、足だか腹だかそこら中が痛い。カゴの中の野菜や肉はずっとホッピングしている。目が乾くため涙で視界はずっと潤んでいる。
けれど、絶対に止まらない。遠くなっていく背中を見詰めて何度も何度も何度も呼ぶ。

「ジェノス!ねえ!ジェノスーっ!!」

立ち漕ぎに耐えられず、お尻が下がってきた。
頭がクラクラする。息が止まりそうだ。
でも二度と同じ後悔はしない、どこまでも彼を追う。それが私にできるたったひとつのことだから。


「なあジェノス、何でそんなムキになってんの?」
「ムキになってなど!」
「なってるだろ。止まってやれば?ちょっとだけでも。」
「いえ、それは…っ」
「でもなあ」
「俺は狂サイボーグを倒す為に生きていくと決めました。あいつの望む俺でいてやることはもう今更できない。」
「でもさあ」
「俺のことなど忘れて、幸せに生きていってほしいんです。いくら先生の仰ることだとしても、これだけは譲れません。」
「うん、まあ、それはいいんだけど。あの子、今すぐ死にそうだけど。」
「えっ!?」


「じぇの…!?」

最後の力を振り絞るように名前を呼ぼうと思ったところで彼が凄い勢いで止まり、振り返った。頭がちょっと回転してはいけないところまで振れた気さえする。急ブレーキを掛けて、前につんのめる。
けれども私はやっぱりジェノスの「ス」を発音するところだったので、必然的に唇が前に突き出していた。そのままの形で、私たちは見詰め合う。
つるりと涙が頬を流れていって、彼は此方へ来るべきかどうか迷うように身動ぎした。
空気が震える前に、私の身体が震えて、地面に上手く着けなかった足がもつれる。
大きな音を立てて自転車が倒れ、よろめいた身体も地面へと。

「……っ!!!」

それは彼が息を唇を噛んだ音だ、多分。
さっきよりもっと遥かに速いスピードで、彼が私の元へ戻ってくる。
座り込んでしまった私の横に、立つ。提げていたはずの買い物袋はいつの間にか無い。
私は酷く荒い息のままで、むせながら、彼を見上げる。滲んでいる涙がずっと邪魔だ。見えるものも見えなくなってしまう。

「どうして、追いかけた。そんなになるほど。」

彼はいかつい拳を音がしそうな程に握りしめる。

「それを、言うなら、なんで、逃げたの。」

切れ切れで言う。笑ってみせようとしたが、上手くいかない。
ジェノスは笑わない。

「お前とはもう二度会わないつもりだったから。」

胸を貫かれたように思う。
けれども、ここで再び易々と手放すことなど出来ない。もう出来ない。

「私が、追い掛けたのは、もう一度、会いたかったから。」

彼は私の目を見る。私も彼の目を見る。元は白かった部分が、今は真っ黒だ。生身の人間では、恐らく、有り得ない色だろう。
そしてこれだけ走って息のひとつも上がらず、汗もかいていない。

「お前が会いたかった俺は、もう昔のものだ。」
「今、も…」
「今はもう違う。」
「でも、それは身体の、話でしょう。」
「心もだ!」
「私、のこと……っ」

今、唇を噛むのは、私だ。
けれど言葉にしなければ。

「嫌いになったってこと?」

彼はギュッと眉を寄せ、目を背け、言葉を搾り出す。

「俺は…復讐をしなくてはいけない。強くならなくてはいけないんだ。」

私が何か言い返す前に、後ろから悲鳴が聞こえた。
振り返ると、これまた猛スピードで、低空飛行してくるものが見えた。
ああ、怪人だ。それは巨大な紙飛行機にふざけた顔がついたもので、すぐに分かった。
渾身の力を振り絞り、彼の前へ立つ。

「逃げて。」
「何をしている。」
「私はジェノスを守りたい。もう二度と失くしたくない。」

こんな小娘が、怪人相手に何ができるというのだろう。自分でも分かっている。けれども、引くわけにはいかない。ジェノスの先程の脚力を持ってすれば、きっと怪人からも逃げられるだろう。その為に少しでも時間を稼げるのなら。

「それは俺も同じだ。」

耳元で声が聞こえ、ハッと横を見ると、そこに彼の姿はもう無かった。
視線を戻すと、私と怪人の間に、盾のように立っていた。
その右腕は真っ直ぐ前に向けられている。
キュイン、と小さな音がした。
その直後、大きな風が吹く。
彼の手の平から発射された熱を、私は呆然と立ち尽くしたまま、風と共に見送った。

怪人が完全に焼却された後で、彼は私を振り向く。

「分かっただろう。もう俺は昔の俺じゃない。サイボーグなんだ。普通の人間とは違う。強さと引き換えに、俺は多くを捨てた。お前と並んで歩くことなどもう出来ない。だが例え俺の手で幸せにはできなくてもどうか何処かで……」

私は首を横に振った。
それは自分に対して「しっかりして、ちゃんと言って」という合図をしたのかも知れない。
私のことを想ってくれていたという実感で湧き出す涙を振り落とそうとしたのかも知れない。

「もう一度ジェノスと離れてしまったら、私はもう二度と幸せにはなれないよ。ずっと好きだったの、どうしても忘れられないくらい。今日会って、分かった。今も、好きなの。」

固まっている彼の手を取る。彼がその輝く手を引こうとするが、両手でギュッと握る。外側は金属の冷たさで、右の手の平だけ少し熱を持っている。全部包み込む。
黒い目の中に小さく光る金色の瞳を、一生懸命見詰める。

「私、ジェノスが捨てたもの、全部持ってるから。もし失くしてしまってできないことがあれば、全部するから。いつでも私を見てくれれば、差し出すから。だから、何も不安になることなんて、ないの。」

彼の目が、少し揺らいで、それから、柔らかくなる。
静かに手を握り直され、引き寄せられる。
抱き合えばやっぱり少し冷たい身体。
けれど、私の頭を撫でる手には微かな温みが確かにあった。

「ありがとう。」

と、声に出したのは同時だった。






(おまけ)
遠くで買い物袋四つ提げたハゲの人
(「おーいジェノスくーん、俺帰っていいかなー…いいよねー……くそっ聞いちゃいねえ!」)