six | ナノ






月が、綺麗だ。
何とはなしに開けた部屋の窓、その額縁の向こうに浮かぶ月は煌々と濃紺の夜空に円を描いていた。かけることのない、まあるい望月。


『どうかしたのか、』


耳に押し当てていたケータイから電波越しの音声が鼓膜を揺らした。空に意識を奪われてすっかり通話中であることを忘れていた。


「あー、ごめん。なんでもない。」

『ったく、ボーッとしてんなよ。』

「うん。ごめんね。」


はぁ、と呆れたように小さく溜め息を吐く音が聞こえた。電話したのは私のほうなのに。悪いことしちゃったな。


「今、ホテルの部屋?」

『ああ。ベランダに出てる。夜景が明るすぎて月しか見えねぇ。』

「ふふっ」

『・・・なんだよ。』

「いや、私も月見てたから。」


一緒だね、と言ったら沈黙が返ってきた。これは多分照れている。可愛い。

ケータイ電話の電波の先、凛は今、東京にいる。明日行われる国体の競泳100mバタフライ。見事決勝まで勝ち登った彼を応援するために私は明日5時起きして新幹線に乗るのだ。


『んなことしてんなら、早く寝ろよ。明日ホントに起きれんのかお前。』

「凛ちゃんのためですから頑張りますよー。」

『ちゃん付けすんな。』

「えー、かわいいのに。」


クスクス笑うといいかげんにしろと怒られた。一息ついてもう一度月を見上げてみる。その黄金の光を見つめたまま、私は再びそっと静かに口を開いた。
ドクン、と一回だけ大きく心臓が脈を打った。


「ねぇ凛、」








「・・・・・・別れようか。」









『・・・・・・ああ、悪いな。』
「ううん、ごめんね。」



前触れがないとか文脈がおかしいだとか、

自分でも思うけれどそれはいつの間にかやって来るとわかっていた一言で、私達はどちらがそれを口にするか今までずっと探り続けていた。凛も私も知っていたこと。唐突だけどずっと前から覚悟していたこの瞬間を私は今、夜空に浮かぶ同じ月に託したのだ。

凛の小さな謝罪は少し声が掠れて聞こえた。目の奥がちょっとツンとして私は空を見上げる首の角度を高くした。


『なんでお前が謝るんだよ。』

「・・・・・・うん。」

『・・・・・・・・・好きだった。』

「・・・知ってる。」

『今も好きだ。』

「私も、」


好きだよ。

そう言葉にした途端に表面張力で頑張っていた涙が一粒、溢れて夜空を歪めた。


「・・・・・・付いていけなくてごめん。一緒にいられなくて、」

『いい。何も言うな。・・・・・・これでいい。』

「・・・・・・・・・。」


沈黙に目の奥が熱くなる。ごめんねとどんなに繰り返しても私達は一緒には歩んでいけない。

凛はやり直すのだ。国体が終わったら彼は彼自身の夢のためにもう一度、水泳留学をすると決めたのだ。そこにどれ程の葛藤があったのか、私にはその欠片程度しかきっと分かっていないけれどその決断がとても大事な未来に繋がっていることぐらい理解している。
だから、別れる。

これは凛が幸せになるための別れであって、凛の幸せを望む私のための別れでもある最良の選択だ。

最初から遠距離恋愛はしないと決めていた。中途半端に凛の心を乱したくないかったから。私の心は強くないし凛はぶっきらぼうだけど繊細だからわずかな繋がりに依存して困らせてしまいそうで怖かった。

明日が最後。
これが凛と見る最後の同じ夜空で、同じ月だ。

ありがとう、と伝えたいのに喉が震えて声がうまく出せない。どうしようもなくて唇を噛んでいたら向こうからその台詞を言われてしまった。


「・・・・・・凛に会えて、幸せだった。」

『・・・・・・』

「明日、頑張って。・・・・・・応援、する・・から。」


語尾が堪えた嗚咽に滲んで震えてしまった。情けない。これ以上悲しみに任せてなにかを話したら要らないことまで言って彼を困らせてしまいそうだった。


『・・・・・・おやすみ。』


凛の声が優しく鼓膜に落ちる。全てが愛しくてたまらない声が、静かに終わりを告げた。
残された私に無情に響く通話切れの電子音が涙腺をいっそう緩ませ、決壊させんとする。

この悲しみは幸せになるための悲しみだ。

分かっていても辛くて、もうただの憧れの人となってしまった彼の名を呼ばずにはいられなくて。

一人、窓辺で泣き崩れた私を月は煌々と照らし続けていた。







ここで愛を捨てましょう

(君が幸せになるために。)