four | ナノ






 書類を片す机の傍らで、大きな大きな肢体を丸めるようにして座り込んでいる後輩は、ペンや紙と一緒に動く私の袖の長く下がる部分をそっと摘んだり私の横顔をじっと意味もなく見つめたり、私の膝枕を拝借して惰眠を貪ったり忙しそうに暇を持て余している。仮にもシンドリアが誇る彼の八人将の一角なのだが、こうも堂々と全力でサボられては示しがつかないどころの話ではない。何故かいつも私の部屋に来るので、私も一緒にブチ切れた上司もといジャーファルさんに怒られるのだ。二重の意味で解せない。
 それこそ一番最初は、本当に偶然だったのだと思う。この後輩は絡んでくるシャルルカンをいつも無下(本人はこれでも譲歩しているとか)に扱って、その度にネチネチと説教される。それを回避する為、その日の隠れ場所として選んだのが私の部屋だったのだという。驚いたのは此方である。書類を持って帰って来たら、椅子の横に赤い頭で巨体の仏頂面がいたのだから、思わず悲鳴をあげかけた。
 あの時驚いた拍子に足が滑って、すっ転びそうになった私の腰を掴んで引き止めた腕は今、何が面白いのか私の髪の毛先をつんつんとつついている。さすがにそろそろ書類に集中出来なくなってきた。額を押さえて溜息をひとつ。

「それ、だめっす」

 床に座り込んでいるから、普段首が痛くなるくらい見上げなければならない顔が、この時だけは私の肩より下にあるという異様な光景にはもう慣れた。どうでもいいけど二メートル級の男性の上目遣いとか、ギャップ過ぎてなんか可愛く見えてきた。

「どれ?」
「溜息。前にジャーファルさんが溜息ついて、シンさんがだめって」

 ジャーファルさんが溜息をついているところとか、正直数え上げるのを諦めるくらいには見たことがあるんだけれども。そこはさしたる問題ではないらしい。

「幸せが逃げるぞ、って言ってました」
「ああ…あの人なら凄い笑顔で言いそう」
「その後誰のせいだと思ってるんですかってキレられてました」
「そんなことだろうと思った」

 我らが王様ながら、楽天的すぎて苦笑が漏れる。ジャーファルさんの胃は常にきりきりと痛んでいる筈だ。
 無骨な長い指が、摘んでいた私の髪の房をそっと離す。口内で空気を押し潰すような微かなくしゃみをした後、私の右の太腿に赤い頭がこてんと寄り掛かってきた。琥珀色を内包した切れ長の双眸がゆっくり瞬く。

「眠るの? マスルール」
「だめっすか」
「当分立ち上がる予定はないから構わないけれど…」
「けれど?」

 鸚鵡返しに問うて微かに顎を持ち上げ、二度目の上目遣いがこちらを向いた。誰よりも強い力があって、私よりもずっと大きくてがっしりした身体つきをしているのに、ふとした仕草がまるで幼子のようだと思ってしまう。例えばヤムライハにこんなことを言えば、真顔で熱でもあるのかと心配されるのだろう。私も随分と絆されたものだ。
 口を噤んで見下ろす私の言葉を待つマスルールが、また一度瞬きをした。

「寝台使ってもいいのに」
「先輩も一緒にどうっすか」
「昼寝の勧誘なら遠慮しておきます」

 むすりとふて腐れ、上げていたかんばせを私の太腿にぽすりと乗せた赤い髪を、指で優しく梳いてやる。
 思えばこの後輩は、最初から距離が近かった。並んで立てば、私は背伸びをしてもこの大きな肩にさえ届かないくらいの体格差がある。廊下や外で会う時は、いつもちょっぴり前屈みになって会話をしてくれる。ピスティとスパルトスが口を揃えて「マスルールくんはそんな細かい気を使うようなことしてくれないよ」「きっと貴女だからでしょうね」と言っていたけれど、これは少しくらい自惚れてもいいのだろうか。
 不意に大きな手が持ち上がったと思ったら、手の平がするりと頭の上から下ろされる。二つの琥珀色が薄い瞼に隠れた。

「!」

 何の前触れも無く手首の近くに唇が落ち、私は思わず身体を固くして驚く。頬にかっと血が上るのを感じて、触れたままの手と手が一層熱く思えた。
 私の顔を覗き込んだマスルールが、何処かやわらかさを含んだ声色で「嫌でしたか」と尋ねる。

「だめかとか嫌かとか、マスルールはそればっかりね」
「嫌われたくないっすから」

 らしくない弱気な物言いに瞠目した私の頬に、堅く体温の低い手の平が触れた。いつもの無表情が、気付かないくらい本当に微かに緩む。まるで私の反応を窺って楽しんでいるような、そんな顔。

「先輩の考えてることを俺が察するのは難しいんで、全部言葉にしてください」

 もう片方の手を同じようにして彼の頬へ伸ばせば、されるがままに私をじっと見つめている。まるで、静かに相手の一部始終を観察している獣だ。目を逸らせなくなる。

「…どうしていつも私の部屋にくるの?」

 マスルールはきょとんとして、それから私の頬の手の平を後頭部に滑らせて軽く引いた。予想も心構えもしていなかった私は簡単に上体を崩す。

「気に掛けて欲しいからっすよ」

 声が耳に届いたのが先か、唇が塞がれたのが先か。確かな恋慕を向けられているのを知った私には、分かる筈もないのであった。