four | ナノ






人というのは好き嫌いというものがあるように得意不得意というものがあるわけで、つまり好きだからと言って得意だとは限らないし、同じように嫌いだからと言って不得意というわけではない。単純な文字の構築であり綺麗に並べ立てられた言葉の意味を理解していないわけじゃないがどうも問題が解けないというのはどういうことだろうか。にらめっこをしたところで無表情を決め込んでいる相手に勝とうとしてもできるわけがなく、結局折れて私が先に笑ってしまうからこのにらめっこは私の負けだ。仕方なく紙パックのストレートティーを飲んでから再び視線を落とす。すると視界から、紙がすっと消えた。なにごとかと見上げると、取り上げたそれを片手に眺める赤髪の姿があった。何時の間に、としばし呆然とする。いつからいたんだ。

「にらめっこは楽しいかい?」

きちりと第一ボタンまでとめられたワイシャツときっちりとしたネクタイが視界に入り、そして徐々に目線をあげていけば、やっぱり声の主は意地が悪そうな笑顔を浮かべている、征十郎だった。

「何してるの」
「偶然通りかかったら教室の隅っこでにらめっこをしているなまえが見えてね」
「偶然ねぇ」
「冗談だよ、レオに用があったんだが、いないみたいだね」
「レオ?あぁ、レオなら小太郎と永吉の付きそいで購買に行ってる」
「そうかじゃぁそれまでここで待たせてもらうよ」
「どうぞ、お好きに」
「それで、にらめっこは楽しいかい?」
「...」

意地が悪いというのか、答えをわかっていて追い打ちをかけるようにして聞いてくる征十郎は楽しそうだ。そしてどことなくその短い前髪を少し揺らして肩を震わせた姿が珍しくって凝視してしまった。笑っている。そして私がにらめっこをしている姿がそんなにも楽しいのか。

「ご察しの通りだと思いますけど」
「そこ漢字間違っているよ、それから問題の答えになっていない」
「...冷やかしに来たのか」
「昔からなまえは語学力がないな」
「女は愛嬌って言わなかったっけ...えっと、ほら」
「馬鹿な女の方が可愛いと?」
「そう、それ」
「馬鹿は願い下げだ」
「うーん、つれないなぁ」

そういって征十郎に笑ってみたのだが、逆にため息をつかれてしまった。そういう顔が見たかったと言えば笑うだろうか。征十郎は私のペンケースに入っている消しゴムをとって、せっかく書き上げた私の答えを消して「やり直しだ」という。仕方なく小さく返事をして問題に目を凝らしてみたのだが、分からないものは分からないのだ。にらめっこをしていると「楽しくないのに好きなようだな」とあきれたような声が返ってきたので、舌をだした。そしてまた視線を下に落とすのだが、目の前の課題はまだ半分も終わっておらず、征十郎が答えを一つ消したから問題がまた一つ増えただけで、一向に終わる気配がない。一生懸命考えて書きあげた答えも修正液で全て塗りたくってしまいたくなる衝動に駆られながら、ぼんやりとした思考の中で改めてシャーペンを手に取った。

「教科書をめくって見ろ、答えが見つかるかもしれないよ」
「...、...」
「どうだい?」
「征十郎って...なんでもない」
「どうしたんだい、言ってごらん」
「意地悪なのに優しいよね」
「やっぱりなまえは語学力がないな」

くつりくつりと喉を鳴らすようにして笑った征十郎に、何となく好きだなぁと思った。いや、好きなんだけど、ただ何となく、本当に何となく好きだなと思った。きゅるりと、征十郎が笑うたびに心の水面が騒ぎ出すような感覚にせつなくなる。誰かを好きになるのは簡単だ。要するに、その人の良い所だったり、たとえば外見だったり、何か一つでもいいから好きになれる要素を適当に3つほど選んでしまえばそれは「好き」になるのだ。
かっこいいだとか、優しいだとか、勉強ができるだとか、運動神経が良いだとか。そういったものは所詮「好き」を構築するための要素でしかなくて、でもそれがないと困るのだ。そして私の場合、意地悪そうに笑う所だとか、結局優しいところだとか、容姿だったりそのまもろもろだったりするってだけの話だ。だから、なんとなく。でも、なんとなくにするには強すぎる「好き」に戸惑うのも本当だ。

「そういえば、なまえはシャーペンの持ち方が綺麗だな」
「そうかな」
「あぁ、綺麗だ」
「...ねぇ、勘違いしたくなる時ってない?」
「なんの話だい?」
「他人が自分に優しくしてくると、自分の事好きなんじゃないかって勘違いしたくならない?」
「さぁ、どうだろうな」

優しくされてもそれが自分の事を好きだからとかそういうものだとは限らないと思う。だから征十郎が私の目の前で座って私を見ているのはきっとレオ達を待っている間の暇つぶしであって深い意味合いはないから私の課題を手伝っているのはもちろん征十郎の優しさであってそれ以上に意味はない。もしかしたらそれ事態優しさではなく気まぐれなのかもしれない。暇だから暇つぶしをしているだけかもしれない。それから征十郎の「綺麗」は持ち方が綺麗だと言っただけでそこで私が顔を赤くするのは間違っている。相手の優しさは必ずしも好意的ではないこともあるから漬け込むな、と苦い思考が疼く。うぬぼれるな、と何度か頭の中で言葉をぐるぐるとかき回したのだが結局心臓は収まるどころか加速するようになりだす。でも、勘違いもしたくなる。猫みたいな瞳で私を見つめる視線だとかシャーペンを握っている私の手を征十郎は骨ばった陶器のような指で撫でるようにして触るその行動とか。手と手が触れるだけで征十郎に好きだと言いたくなる。それと同時にからかわれてるだけなんじゃないかと不安になる。

「こんなの、勘違いしそうで、馬鹿みたいじゃん」
「それは本気で言っているのか?」
「え」
「勘違いをするな、僕が、」
「...何」
「いや、なんでもない」

傷口のあたりを指先で、触れるか触れないかぐらいの力加減でつうとなぞるような感覚だ。擽るような微かな触れ方が皮膚を伝って、腕や肩、背中までぞくりと震える、そんな感覚に私は何となく泣きたくなった。魚のように水に溶けてしまいたいと思った。そしてどこまでも透明で深い海に沈んでいきたいと思った。たぶんもう、私に朝は来ない。朝は来ないのだ。それほどまでに私が好きになった人はどこまでも遠くて、そして太陽のように焦がれても届かないその姿にむしゃくしゃする。近くにいるのに。触れられる距離に居るのに。翻弄されるのはいつも自分だ。ただ青春は、彼、征十郎に恋をするためにあるのだと、どこか哲学者の並び立てるような言葉で表現するのならばしっくりは来るのかもしれない。朝は来ないが、巡って来る。その巡りに足を踏み入れれば、まだ少しだけ背骨をかき抱くように丸まっている太陽に出会えるかもしれないとは、思うのだ。

「レオは帰ってこないようだな」
「もうすぐお昼休み終わるね」
「じゃぁ僕はもう行くとするよ」
「征十郎」
「なんだい?」
「今日は放課後、部活があるんでしょ?」
「あぁ、もちろん」
「今日はいい天気だから部活のしがいがあるって小太郎が言ってた」
「バスケは室内だがな」
「...えっとさ、」

席を立った征十郎に私はそれを引き止めるようにして腕をつかんだ。少しびっくりしてたみたいだけど、そんなことを気にせず私はなぜ征十郎を引き止めたのか考える。今無意識に腕をつかんだ。行かないで、とでも言おうとしたのだろうか。それとも部活覗いていいとかそんなかわいらしい言葉を言おうとしたのだろうか。一人焦っている中、ぎしりと悲鳴をあげそうなほど強く征十郎の腕を握っていた私の手に征十郎はそっと手を重ねた。

「なまえ」
「あ、ごめん」
「淋しくつて不可ないから、又来て頂戴」
「え」
「部活、たまには顔を出しに来ればいいだろう...あいつらだって喜ぶ」
「...あ、うん」

それは夏目漱石の『それから』の一文。
情緒たっぷりでグッとくる。「さみしくていけないから、またきてちょうだい」そんな言葉が可愛らしくて、少し切なくて。まさかそんなことを言われるとは思ってなかった。そうやって征十郎は私を上げては落としを繰り返していくのだ。まったく、いちいちその言葉や仕草に心を奪われ眩暈がしそうな私の身にもなってほしい。だけど、今だけは、そんな征十郎の気まぐれのような言動に振り回されてもいいかもしれないと思う私は相当頭が悪い。分かってはいても、征十郎なりの言い方に私はにやりとつりあがる口元を押さえることができなかった。