夕餉の後の広間はがらんとしている。並んでいた数十の膳は全て下げられ、子供達は自室へと戻っていく。それと入れ替わるように酒瓶と杯を持った大人達が再集合し、さあここからは大人の時間である。とは言え元が刀である彼らのどこからが大人と区別されるのかは曖昧で、最高齢メンバーに含まれる筈の今剣は眠い目を擦りながら自室へ戻っていくし、同じ脇差達の中でもにっかり青江だけは毎回晩酌に参加している。 そうして今晩も集まった刀達は、主である審神者を囲んで杯を交わし始めるのである。
「ぬしさまは、女性経験がないとお聞きしたのですが」 杯を手にした審神者に誰よりも早く寄り添って酌をするのは小狐丸である。同時に不穏な話題を投げかけたのも彼であった。審神者は思わず噎せそうになりながら、口に含んだばかりの酒をグッと飲み込む。 「誰からだよ」 「通りで、なかなか夜伽のお誘いが掛からないと思っておりました」 審神者の問いには答えずに、小狐丸がふうと息を吐いた。どこから漏れた情報だ、と周囲を見渡すと、各々酒を呑んでいた刀達はみな興味をそそられた様子でこちらを窺っている。しまった、と思うより先に、隅の方で杯を傾けていた近侍の歌仙兼定が「あーあ」とでも言うように首を振ったのが見えた。 「ほう、主は同衾したことがないのか」 普段通りの朗らかな口調で、しかし確実に話題を繋ぎとめる為に三日月宗近が口を開いた。 「思っていたより初心だったのだな」 「……仕方ないだろ、この職に就くためにどれだけ苦労したと思ってるんだ」 言い訳ではあったが、事実でもある。審神者は誰にでもなれる職業ではないが、だからこそ多くの人材を育てて適正者を見つけ出す必要があった。専門学校、訓練所、適性検査を経て、ようやく審神者の職に就くことができたのだ――その先でこうして戦いと男達に囲まれて生活しているのだから、そんな余裕はなかったのだと声を上げたくもなる。 しかし今、危惧すべきはそこではないのだった。 「……ぬしさま」 する、と小狐丸の手が審神者の腕を撫でた。審神者は小さく呻く。ほら来た、だからこういう話題は避けたかったのだ。 「ぬしさまの為でしたらこの小狐、幾らでもこの身を差し出しますのに……」 「だから何度も言うけど、俺にそういう趣味はないんだって……」 「小狐は何時ぬしさまにお誘いを頂いてもいいように、こうして毛並みを整えて備えておりまする」 「どうして俺の話を聞かないのかね、お前は」 触ってみてくだされ、と頭を擦りつけるようにしながら小狐丸が審神者にもたれ掛かる。人波の向うで、いよいよ歌仙が溜め息を吐いた。
さていつの間にこれ程に懐かれたのだろうと思ってしまう程、刀達の自分への愛情は大きいものであったりする。勿論好かれているのは嬉しいことだ。主としても、人としても。しかしこの場には居らぬ短刀達が懐いてくれるのと、ここに居る小狐丸達のこうした愛情表現とでは全く性質の異なるものである。単刀直入に言えば、無邪気か否か。 「これ小狐、主が困っておるではないか」 「三日月……」 ゴロゴロと甘える小狐丸を、三日月がちょいと突いた。それから何とも自然な動作で、小狐丸とは反対側の審神者の隣に移動する。 「主は女子のほうが好いと申しておるのだぞ。ところで……」 三日月が審神者の顔を覗き込んだ。濃紺色の髪が三日月の滑やかな頬をさらりと撫でる。 「俺は美しさなら女子にも負けぬと思うのだが。どうだ、主?」 「分かってないじゃねーかお前も。ワンチャンある、みたいな言い方すんな」 彼ら――この二人を筆頭とした、大人に分類される刀達――が、自分にそういった期待を持っていることに気が付いたのはいつ頃だったろうか。衆道と言ったか、武家社会などでは珍しいことではなかったのだと知識としては知っていても、まさか自分がそこに巻き込まれることになるとは思ってもみなかった。 冗談じゃない、というのが正直なところだ。幾ら女性と関わる機会が少ないからといって、男の、しかも元は刀である彼らに手を出す気はさらさら無い。何度もそう言ってはいるのだが、それでも隙を見てはこうした謎のアピールを繰り返してくるのだ。顕著なのはこの二人くらいだが、その他の者達も時折、思わず肌が粟立つような視線をこちらに向けてくる。一応にも主従である意識があるからか、受け身のお誘いしかしてこないことがせめてもの救いだ。日々戦場を駆け回る彼らに本気で迫られれば、ただの現代人である自分に拒む術はなかっただろう。 「そもそもどうして俺を巻き込もうとするんだ。溜まってるんなら自分で処理するか、お前ら同士で勝手に……あー想像したくもない」 この場の男達がそれぞれ番になった様子を一瞬思い浮かべて、審神者はうんざりと杯を下ろした。 「いいですかぬしさま、我々はぬしさまの霊力によって人の肉体を得たのです。ですからこの身体を保つためにも、ぬしさまとより近く触れ合い、より強い霊力を受ける必要があるのです」 「お前それ今思いついただろ」 「これは我々の懇願でもあります。どうかぬしさまの御寵愛を……」 「お前達ってそんなに必死になるほど俺に抱かれたいの?」 ねえ、と審神者が顔を上げて他の刀達を見回すと、ほとんど無言で会話に耳を傾けていたらしい彼らの幾人かはもじもじと居住まいを正したりスッと視線を宙へ泳がせたりした。恐ろしいことだ。 審神者が「そろそろ助けてくれ」という目で歌仙を見つめると、歌仙がゆるりと腰を上げたのが見えた。それに安心したのも束の間、何やら口を開いた歌仙を遮るように、珍しく沈黙を保っていたにっかり青江が言葉を発した。
「それじゃあ、ご褒美ってことにしたらどうだい?」
「……何を言っているんだ、お前は」 青江は唇に笑みを浮かべたまま、ほら、と指を立てる。その背後で、場を仕切り損ねた歌仙が固まっている。 「君、短刀達が誉を取るとご褒美あげるじゃないか」 確かにあげている。短刀達のやる気に繋がればという気持ち半分、喜ぶ子供達の顔見たさが半分で、誉を取った短刀の口に審神者が菓子を放ってやるのが習慣になっていた。 「それと同じで、僕達が誉を取ったら一晩主と床を共にできる。どうかな?」 「どっ……」 どうかな、じゃない! あまりに厄介な提案に審神者が思わず絶句していると、両隣から「おお」と声が上がった。見ると小狐丸と三日月が瞳を輝かせている。 「考えてみれば、褒美とやらを貰ったことはなかったな」 「いいですね、競い合うわけですか」 野生の血が騒ぎますね、と小狐丸が身震いする。 「お、おい」 「まさかぬしさま、チビ達には褒美を与えて、我々には与えないなどと仰るつもりはありませぬな?」 「え、いや、それは……」 広間が俄かにざわつきだす。彼らを静止することもできず審神者が呆けていると、同じく呆然と事の成り行きを見守っていた歌仙がハッと我に返ったようだった。 「……っ君達!!」 鋭い一声に皆が注目する。審神者もこの状況を打破してくれることを期待して歌仙を見上げる。歌仙は大きく息を吸うと、すっかり昇りきった月を指差して声を上げた。 「……明日も早くから出陣なんだから、解散!!」
「今戻ったよ、主」 声を掛けて障子を開いた歌仙の頭上に桜が舞っているのを見て、審神者が大きく安堵の息を吐いた。 最も戦績の優秀だった者に与えられる誉は、どういった仕組みだか、桜の花弁という形で現れる。思うにこれは「主に褒められたい」という刀剣達の意識の表れではないかと歌仙は思うのだが、今まさに桜を撒き散らしている自分を考えるときまりが悪いので、歌仙は泰然たる態度を装って静かに主の自室へと踏み込んだ。 「今日も誉は歌仙かぁ」 「安心しただろう」 「そりゃもう」 お前じゃなかったらどうしようかと思った、と審神者が苦笑を浮かべる。 歌仙が連続して誉を取りつづけるお陰で、数日前の晩酌で(不本意にも)取り決められた約束――戦で誉を取った者は、一晩審神者と床を共にすることができる――が果たされたことはまだ一度もなかった。初期刀として今日まで培ってきた経験は伊達ではなく、歌仙は打刀の身でありながら第一部隊の隊長を任されている。そんな彼が本気を出せば、ただでさえ発見の遅かった小狐丸や三日月宗近を差し置いて誉を取ることなど容易いことなのだ。少なくとも、今は。 「まあ、あんな約束を本気にしているのなんて小狐丸と三日月くらいだろうしな……あいつらでさえなければ大丈夫だろ」 「そうだといいけどね」 この状況においてまだそんな甘いことを考えているあたり、とことん危機感のない主だ、と思う。こちらの気苦労も知らないで。 「それにしても、なんで俺に拘るんだろうなあ……霊力が云々なんて大層な理由までつけてさ」 審神者がぼそりと零した。 「……まあ、その話もあながち出任せではないと思うよ。僕達が君の力によって実体化しているのは本当のことなんだし。実際、近侍として君に近付いているほうが身体の調子もいいからね」 「まさかお前も夜伽を〜とか言い出さないよな」 「僕がそんな品の無い頼みをしたことがあるかい?」 じとっと歌仙が審神者を睨むと、審神者は笑いながら「冗談だよ」と手を振った。 「小狐丸や三日月宗近は太刀だからね……打刀である僕達に比べて、力の消費が激しいのではないかな」 「だからやたら『撫でろ』だの『世話しろ』だの言うのかねぇ」 下心もあるだろうけど、と歌仙は内心思う。 「にしても、その太刀を差し置いて誉を取るんだからお前もすごいよな……ほんと感謝してるよ、お前には」 「気にしないでいいよ。僕の主に無体を働かせるわけにはいかないからね」 「流石歌仙だ、頼りにしてるぞ!」 ははは、と笑いながら審神者が歌仙の背をぽんと叩く。恐悦至極、と呟きながら、歌仙は胸の奥が微かに焦がれたのを感じた。
「歌仙くん、頑張っているみたいだね」 背後から掛けられた声に審神者が振り向くと、にっかり青江が廊下を歩いてやってくるところだった。言葉の意味を理解して思わず顔を顰める。誰のせいだと思っているんだ。 「ずっと歌仙くんばかり誉を取るんだと、他の子達が悔しそうにしていたよ」 「はぁ……」 「褒美はあげているのかい?」 唇を引き上げて笑みを形作り、青江が審神者を覗き込んだ。審神者は大きく溜め息をついて彼を手で払う。 「夜伽の話なら、してねえよ。あいつはそんな不埒なことは言わないからな」 お前達と違って、と嫌みを付け加えるも青江は全く気に留めた様子もなく、やれやれと言うように肩を竦めた。 「働かせるだけ働かせてほったらかしなんて、なかなか非道だね」 「なんだよ非道って……まあ、頑張らせすぎているなとは思ってるよ。歌仙は責任感強いからなあ」 それから審神者は少し思考する。確かに、夜伽の話に関わらず歌仙には何か褒美を与えたほうがいいかもしれない。歌仙とはこの本丸で一番に長い付き合いだが、忠実に従ってくれる彼を労わってやれたことはほとんどない。 「歌仙って何が欲しいんだろうな……新しい本とか、筆とか買ってやったら喜ぶかな」 どう思う?と意見を求めて振り返った青江が、珍しく呆れた顔で口を開いたままなのに気が付いて審神者は眉根を寄せる。 「……君も大概、鈍感だよね」 「どういう意味だよ」 「歌仙くん、頑張ってるなあ」 僕だったら堪えられないね、と呟いてから、青江は現れた時と同じようにするりと去っていった。何をしに来たんだと首を傾げてから、審神者は再び歌仙の褒美について思考を巡らせ始めたのだった。
歌仙は刀装を拵えるのが得意だし、文系であるのだから当然の嗜みだとも思っている。とはいえ、刀装は歌仙に任せろというこの本丸の風潮には納得がいかないし、出陣の度に「壊れた」と次を要求されるといい加減うんざりもするというものだ。何分にも彼らの刀装の扱い方は粗雑でいけない。 「とはいえ、君が刀装を壊すなんて珍しいね」 作業台を挟んで座るへし切長谷部が、歌仙の言葉にバツが悪そうに顔を背けた。 「すまない」 「こんな無茶な戦い方をする男ではなかっただろう」 「……」 新しい盾兵を用意しながら、歌仙は長谷部の顔をちらりと見上げた。黙ってはいるが、理由は明確である。今朝も出陣の支度をしながら、彼が小さく「誉を取れば、か……」と呟いていたのを歌仙は耳にしている。 「悪いが、君に誉を取らせてあげることは出来ないよ」 「なっ、俺はそんなこと……!」 長谷部は慌てて歌仙の言葉を否定しようとしたが、しかし今さら取り繕い様がないことに気付いたのだろう、諦めたように力なく腕を下ろした。 「勘違いするな、俺は主の身をお守りしようとしているだけだ。例え誉を取ったとして、主と同衾しようなんて恐れ多いことは考えていない」 「そうかい」 「お前だってそうだろう、歌仙兼定」 「まあ、そうだね」 歌仙は短く相槌を打った。それから暫く沈黙が続く。もともと会話の多い二人ではなかったが、作業する歌仙の手元を眺めながら二人は黙ったままお互いの心情を探り合っていた。 「あれから、隊全体が活気付いている」 長谷部が静かに口を開いた。 「鍛錬にもこれまで以上に励むようになったようだ」 「良い事じゃないかい」 「……」 複雑そうに顔を歪める長谷部の気持ちが、歌仙には痛いほどよく分かるのだ。だからこそ、それを口にしてしまえば取り返しがつかなくなることも理解している。歌仙は話題を打ち切るように、出来上がった盾兵をどんと長谷部の目の前に置いた。 「……似たような立場だね、僕達は」 そして損な役回りだ。言わずに飲み込んだ二の句は恐らく通じている。 「……礼を言う」 ギュッと眉根を寄せたまま、長谷部が小さく呟いた。
今夜も今夜とて小狐丸は審神者の隣に腰掛けたが、あの約束をして以来 審神者は逆に余裕を持って彼に接することが出来た。約束した以上、誉を取らなければ彼が審神者に手を出すことはできないのだから。そして近侍の歌仙がいるうちは、誉は全て歌仙のものである。予想外の安泰を得て審神者は上機嫌で杯を呷った。 「ぬしさま〜……」 小狐丸が歯痒そうに呻く。思うように戦績を挙げられずにいることが単純に悔しいのだろう、随分としょんぼりした様子の小狐丸を余裕のある審神者は撫でてやった。途端、小狐丸は顔面に喜色を浮かべて心地よさそうに目を細める。こうしているとただの愛玩動物のようだ。これくらいなら可愛いものなのだが。 「いやはや、歌仙には敵わんな。俺も夜伽というものを体験してみたいのだが」 はっはっは、と三日月が笑う。こちらは普段と変わった様子もない。しかし集まって酒を呑む面々の中に、ちらほら悔しそうな顔をする者がいるのを審神者は見えないふりをした。 「ぬしさま待っていてくだされ、この小狐、必ずぬしさまの為に誉を取ってまいります」 「なにがどう俺の為なんだよ……あ、歌仙」 審神者の膝の上に頭を乗せてごろんごろんと甘える小狐丸を適当に窘めていると、今日も隅のほうで一人静かに呑んでいた歌仙がスッと立ち上がったのが見えた。 「主、すまないが僕はそろそろ部屋に戻らせてもらうよ」 「待て、俺も行く」 審神者が立ち上がると歌仙は驚いた顔をする。嗜む程度にしか呑まない歌仙が中座するのは珍しいことではなかったが、審神者がそれに続くのは初めてのことだった。転がり落とされた小狐丸が不満気に審神者を見上げる。 「話があるんだ。少しいいか?」
行灯に火をともしてから、審神者は歌仙と向かい合って腰を下ろした。大した話ではないのだが、立ち話もなんだからと審神者の部屋に招き入れたのである。 「珍しいじゃないか、君が宴会を途中で抜けるなんて」 「そうか?まあ、歌仙はあまり呑まないからな」 「君に比べればね」 そういえば、初めて呑んだ時から歌仙はあまり酒が得意でなかった。日本酒を少量ずつ、舐めるように呑む歌仙の姿を見て「女のような呑み方だな」と思ったものだ。そういえばあの頃はまだ審神者になりたてで、この本丸には自分と歌仙の二人しかいなかったのだ。少しずつ刀達が増えていくに従い、歌仙と二人きりでゆっくり酒を呑む機会はほとんど無くなってしまったが。 「考えてみれば長い付き合いだよな」 「何が?」 「俺と歌仙が」 歌仙がゆっくりと瞬きした。それから何故か少しだけ不機嫌そうな表情になる。 「なんだ、今更気付いたのかい」 「いや、改めて……初めて会った時から苦労ばかり掛けさせたなあと思って」 歌仙には初陣から重傷を負わせてしまったのだから、幸先が悪いにも程があるスタートだった。あの頃は慣れない審神者業に足りない資材と、毎日不安ばかり抱えて生活していた。それが今ではどうだ。自分を慕ってくれる刀達に囲まれて、毎夜酒を交わし笑い合っている。 「いろいろ厄介なことはあるけど、やっぱり俺は今幸せだよ。それもこれも全部歌仙のお陰だと思ってる。俺のことをずっと支えてくれているのはお前だもんな」 「主……」 「確かに今更だが……ありがとう、歌仙」 お前を選んで良かった。審神者の言葉に歌仙は一瞬呆けてから、次いで何かを堪えるような苦しげな表情を浮かべる。何を言おうか逡巡しているようで、唇が頼りなく二、三度開閉した。 「歌仙?」 「……話は、それだけかい?」 「え、ああ……いや」 顔を背けた歌仙の様子を不穏に思いながら、審神者は慌てて言葉を続けた。 「えーと、だからな。その感謝の気持ちを込めて、お前に何か褒美をやろうと思って」 歌仙が静かに顔を上げる。 「ちょうど誉も取りまくっていることだし。何でもいいぞ、お前が望む物なら」 「……そんなことを言って、僕がとんでもなく高価な物を望んだらどうするつもりだい?」 「高価な物が欲しいのか?」 金はあんまり、と少し焦った審神者の声を聞いて、歌仙が嘲笑に近い笑い声を上げた。 「歌仙、どうしたんだ。何か気に喰わなかったか……?」
「……そうやって、僕なら君が困るようなことは言わないだろうと思い込んでいるのが、危機感がないと言っているんだ」 「危機か……んっ!?」 ドン、と突き飛ばされた――いや、押し倒された審神者が目を白黒させていると、その上に跨るように歌仙が覆い被さった。ぱさ、衣擦れの音がしたと思うと、歌仙の纏っていた外套がいつの間にやら床に落ちている。あれ、これは、と審神者の頭が急激に回転する。
「僕が望むものなら何でもいいと言ったね。では、僕が小狐丸と同じことを言ったら――」 「かっ、かせ……」
「主、君の寵愛が欲しいんだ」
まずい、と審神者が思うより早く、歌仙は審神者の上に腰を下ろした。しゅる、と自らの腰紐を解き、腰巻を外す。歌仙が着物の胸元を大きく開き始めたところで審神者は漸く抵抗しようと大きくもがいたが、打刀とは思えぬ重さでずっしりと抑えられていてピクリともしない。 「おっ、落ち着け歌仙!!酔っているのか!!」 「まあ、少しは」 「なに落ち着いてるんだよ!!」 「落ち着いてなんていないさ、僕だってどうすればいいのか分からない」 とうとう袴とインナーだけになった歌仙は、首元の紐すら解きながら声を上げた。 「我慢するつもりだったよ。君の優秀な初期刀で、近侍であるつもりだった。君が余計な約束さえしなければね」 それから漸く迷いを見せて、呆然とする審神者を見下ろして唇を噛みしめる。 「僕が誉を取っているうちは、君は安全だろう。けれど僕は打刀だ。いつかこの先、太刀や大太刀に敵わなくなる時が来る……君が他の刀を愛するのを、黙って見ていなくてはならない日が来るだろう。そんなの、」 堪えられない。呟かれた歌仙の言葉に、審神者は一瞬、昼間の青江の言葉を思い出した。 そうだ、自分は青江の言葉を聞いて、歌仙に何か褒美をやろうと考えたのだ。歌仙のことだから、雅な歌を詠むための筆だとか紙だとか、その程度の物しか望まないだろうと思った。その程度しか、審神者は歌仙が望むものを知らなかった。 「でも、お前は打刀だから……太刀の奴らみたいに霊力を必要としないから、大丈夫だと言っていたじゃないか……」 審神者が掠れた声で言うと、歌仙がまた小さく笑い声を上げた。 「ああ、要らないよ。可笑しいかい?僕が霊力目当てでもなく、君に触れて欲しいと思うのは」 もはや抵抗する気力も失った審神者に、歌仙がぐいと顔を近付ける。それでもまだ躊躇いがちに歌仙の唇がそっと審神者の額に触れた。彷徨うようにゆっくりと下がったそれは、審神者の口に辿り着くと緩く押し付けられる。 「ん……」 審神者の霊力を強く感じて心地良いのだろうか、歌仙が小さく息を漏らした。それからそっと唇が離れていく。粘膜にも届かないような、触れるだけの短い接吻だった。 「……可笑しいかもしれないね、主にこんなことを望むなんて。だけど」 歌仙が笑みを浮かべる。先程の嘲笑とは違う、弱々しく涙を堪えるような笑みを。
「僕は……誰よりも長く、君の傍に居たんだ」
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