眉毛を剃刀で剃り落としたあの日
本当に、本当に昔の話である。
まだ自分がコーディネーターなんて職業も知らなくてトレーナーになりたての頃。
そう、まだパートナーのサンダースがイーブイでウィンディがガーディで、手持ちがその二匹しか居なかった時の話。
「………どうしよう」
小さく呟いたが妙に大きく聞こえた自分の声。
イブキ姉さんに会いに遊びに行ったら姉さんは不在で、代わりに姉さんの部屋で待ってるように通された。イーブイを抱いて部屋に入ると姉さんの部屋である筈なのに何故かチャンピオンのワタルさんが机に突っ伏して寝ているじゃないか。
昔から兄妹みたいに育ったとは姉さんに聞いたけど。
ワタルさんもイブキ姉さん待ちだろうか?どうせなら遊んで貰おうとちょっかいをかけたのが始まりだった。
「イーブイどうしよう…ボク、ワタルさんに殺されるかも」
「………」
右手に持った、剃刀の先がピカリと光る。
どんだけ頬をつついても起きてはくれなかったからワタルさん自身にイタズラをしてやろうと思ったのがピストルの合図だった。
顔に落書きをするのは流石に可哀想だから、眉毛を、薄くしようと思ったのが間違いであった。
姉さんの部屋に置いてあった剃刀を手に取り、剃りすぎないようにと細心の注意を払いプルプルと眉に剃刀を近付けた時、ワタルさんが身動ぎをしたのである。
「あ」
と人生を左右する様な声を裏腹に、―――ジョリッ と何とも心地よい音が響き赤い眉毛はハラハラと散って行った…。
「ど…どうしよう…!薄い通り越して、全剃りしちゃった…!!」
剃り落としてしまった時から数分経っている。
その数分間は唖然としている時間に使ってしまった。剃刀を持ったままフリーズしていた訳で。
とにかく、どうしよう!!
普段温厚なワタルさんでも、これはちょっと……。っていうか普段あまり怒らない人が怒るとメチャメチャ怖いと言うではないか。
このままじゃ死刑まではいかなくても川流しの刑は絶対に免れないかもしれない。そもそも言ってる事とやってる事が恐いのだあの人は!
「ま…眉毛、書いてみるか…カモフラージュにはなるかも知れない」
片方だけ落ちてしまった無惨な眉毛を見る。
眉墨を取り出したがそこである重大な事に気付いた。
持っている眉墨の色は、茶色。ボクが茶色を使っているからだ。
でもワタルさんは…、
「何で赤なの……!!!??」
髪の毛は元々地毛だと言っていた。としたら眉墨も赤で…染めた訳では無い。
茶色で書いても変なだけだ。っていうか直ぐに本人にもバレるだろうし風呂にでも入れば終わりじゃないか!!
……こうなれば片方の眉毛も剃り落として…ダメダメダメダメ余計に怒らせるだけだ!でも片方だけ残っていても不恰好だからこれは全部剃り落とすべきなのか……!!
本当にどうしよう。
ボク、明日ちゃんと朝を迎えられるだろうか。ちゃんと生きてるのかな。
ガチャッ
「……れ、何やってんのよ少女?ワタル兄さんも」
「い…イブキ姉さん…」
ガチャ、と突然開かれた扉に息がつまりそうになった。かなりビックリした…!
中に入ってきたのはこの部屋の主であり、ボクが当初目当ての人物であった人だった。
イブキ姉さんは何かボクの異常な態度を雰囲気で感じ取ったのであろうか。
訝しげにツカツカと歩き、ワタルさんの寝顔を見て足を止めた。
「ぶふッー!!何兄さん!?イメチェンか何かのつもりなのかしら!?眉毛無いじゃないのよー!!ぶっプククククッッ」
「違うよ姉さんー!!?ボクが剃り落としちゃって…」
「……少女が?じゃあ仕方ないわね。でもこのままだとワタル兄さん、不恰好過ぎるからもう片方も剃り落としてやりましょう」
「ええぇぇっ」
腹を抱えて笑いだす姉さんにいよいよボクは戦慄した。
今度は姉さんが剃刀を持ち、ワタルさんに迫ろうとしていた。(しかもかなり嬉しそうに)
そんな姉さんにボクは必死になってすがり付いてうわぁああああと奇声を上げる。
「駄目!絶対に駄目だって!!」
「何よ少女、眉毛の一つや二つ無くなったって死にゃしないわ!何たってワタル兄さんはドラゴン使いなのよ!!リーグチャンピオンなんだから!!」
「それ関係ない!!関係無いからね!?確かにワタルさんの眉毛を全剃りにしたのはボクだけどっ!ちょっと面白いなぁ何て思ったけどそれ以上はヤバイってぇえええ!!!!!!」
「…………………………………………………誰が誰の眉毛を全剃りにしたって?」
「「……………あ」」
この世の終わりを感じた!
「……そんな事もあったね」
「……そんな事も有りましたね。え、何ですかその目、ちょっやめぇええぇぇぇ………」