二華
そこには、一つの家族があった。
「うー」
「………んーー…んだぁアヤ…父ちゃんまだ眠ぃんだよ…昨日寝んの遅かったからよぉ…」
薄暗い部屋の中、のそのそと布団の上を重い何かが這い回る息苦しい感覚に男は目を覚ました。薄暗い部屋、とは。ここは立派な寝室だ。丁度その重い何かは男の腹部に覆い被さり、その正体は分かってはいるがまるで猫を持ち上げるかのように男は赤子をつまみ上げる。服の襟を鷲掴み、眼前へと持って来れば丸く大きな蒼い瞳と目が合った。
まだまだ小さな赤坊。漸く少しばかり栗色の髪が生え、一人でも四つん這いになれば移動が可能になった男の一人娘。
名は、アヤと名付けた。
「うー」
「おいおいアヤ…勘弁しな。まだ7時じゃねぇかよ後で遊んでやらァ……ッて!」
「オイてめぇクソジジィ…赤ん坊の襟首掴むなんてどういう神経してんだ」
「ってえな、何すんだよドラ息子」
突如男の後頭部に衝撃が走った。どうやら蹴られたらしい。
手からアヤが離れていくのを感じ、男は蹴られた頭部を押さえながら背後に立つ人物を睨み上げる。
背後には仁王立ちしたよく知る少年が居た。いや、よく知るレベルの話ではなく、彼は男の実の息子なのだが。娘のアヤと同じ栗色の髪を持ったこの少年。顔の作りは男とそっくりだ。少しくすんだ碧の瞳はきっと男の瞳の色も混じってしまった結果だろうか。
名は、ユイと名付けた。
「おいドラ息子、今お父様は娘と朝の挨拶してんだよ返せ」
「ふざけんな赤ん坊の襟首掴んで挨拶する父親がどこに居んだよハゲろ」
「いんや安心しろ。お前が赤ん坊だった時は宙吊りにした事はあるがアヤにはんな事はしねェからお前がハゲろ」
「くたばれクソジジィ毛根死滅しろ」
男からアヤを剥ぎ取ったユイは片手で抱え上げ、フンと鼻息を荒く着く。低俗な口喧嘩に両者のこめかみに血管が浮き出たが、アヤがソワソワし始めたのを見てユイは眉間に皺を寄せた。
男が邪魔で見えないが、恐らく布団の中で縮こまっているであろう人物をユイは指さした。
「クソジジィ、母さん起こせ」
「おめぇは心がねぇなァ。もうちょい寝かせてやんな」
「飯だよ飯!腹空かせるとこいつ超泣き喚くの知ってんだろ!」
「飯だぁ?んなもんオメェの乳でもしゃぶらせとけ」
「ブッ殺すぞクソジジィィイイ!!」
ガミガミ雄叫びを上げるユイに、男は耳に栓をするように指を突っ込む。
怒鳴り声に吃驚したのか、アヤは小さく鼻を啜る音を響かせ、ユイはまた慌ててアヤをあやし始める。「ほぅらお前がデケェ声出すからアヤ泣いちまったじゃねェか」と、男はあーあと残念そうに言えばユイに穴が空くほど睨まれた。
「仕方あるめぇよ、昨日寝るの遅かったんだから」
「あ?あんただけじゃないのかよ?」
「おいおいユイ、それを聞くのはヤボだぜ。そりゃあ疲れるよ…ワカナ、昨日で相当腰痛めたんじゃないか。あれだけやって無傷である筈がねェ」
「赤ん坊の前でどんな話してんだよ取り敢えず二桁単位で死ねエロジジィ」
「って言うのはまあ冗談だとして」
「ハゲ散らしてくたばれエロジジイ」
「オメェはいつの間にそんなに口が悪くなったんだよ」
互いにチッ!!と惜しみ無い舌打ちをするこの二人はそれはもう仕草から似ている。眉間の寄せ方なんてそれはもうそっくりだ。睨み合う男と少年のキツいそれにアヤは底知れぬ恐怖を感じ、また瞳を潤ませる。あ、泣く、と思ったその時。
男の横の、布団が敷かれたそれがもぞりと動いた。
「…お、何だ。もう起きちまったのか」
白く細い手が布団からスルリと出てくる。
布団の中の人物はきっと騒がしさから目が覚めたのだろう。起き上がればスルスルと布団がずれ落ち、色素の薄い栗色の髪とその隙間から深海のような蒼い瞳が覗かせた。
所々寝癖で髪があらん方向へと跳ねているが、その色の持ち主である女はそんな事は気にせずに目の前に居る男と少年と赤坊を視界に入れる。寝起き特徴のぼうっとした目をしている女に、男は笑って頭を撫でた。
「おはよう、寝覚めはどうだいワカナ」
「…はよ、母さん」
「……おはようございます」
女の名は、ワカナと言う。
彼女はユイとアヤの、母親である。霞む目を擦り、ふと泣き出しそうなアヤを見てユルリと手を伸ばす。ああ、と気付いたユイは抱き上げるというより腕に持ち上げていたアヤを母親に渡した。
「さぁてと」
アヤをあやし始めるワカナを暫く見ていた男はすくと立ち上がる。
ふああ、と一層大きな欠伸を一つ吐き出した男は寝室をズカズカと歩き、外の光を遮っていたカーテンを遠慮無く引いた。
「おおう、今日は天気良いねェ。こりゃあ何かイイ事でもありそうだぜおめぇら」
「…旦那様、目に痛いです」
「おっと悪ィな」
「うー」
「そらワカナ、アヤは飯だとよ。早くくれてやんな」
「………あげたいのですが、何故そんな凝視しているのでしょうか?」
「あん?そりゃあ、あれだよ。いろんなモンが満たされんのよ。案外ムラムラもしてくらァ」
「さっさと出ていけよ死ねエロジジィ」
「お前がなドラ息子」
「…………………」
男の名は、サクヤと言う。
彼らの、父親だった。
二華繚乱
いつもの日常
それを妾は幸せだと
鳴き唄い
笑えば常世と色鮮やかに
映えるでしょう