四十一華

ルカリオは、青棘は、知らずと己が過ちを犯してしまった事を知った。

また、選択肢を誤ったのか、と。

一度ならず、二度までも。

知っていたはずだ。

こんな幼い子供が耐えられるはずがなかった。

なぜ、今まで見て見ぬ振りをして来てしまったのか。



*****



「──ほうら、見てごらん。いいお天気ですよ」

「っっ………」

「──お洗濯物…今から干してしまいましょうね」


声が、消えない。


「──おかえりなさい。今日も、学校は楽しかった?」

「〜〜っ…!…ク、ソ…ッ」


姿が、消えない。

母は、気付けば"そこにいた"。"いない"時もある。だが、ふと振り返ったり、浅い眠りから目が覚めると、"そこにいる"。今はただ部屋の壁に寄りかかり、ずっと窓の外を見ていた。まるで、あの頃のように。そして、独り言のように喋っている。ずっと、ずっと。

恐ろしかった。

当然、幻覚幻聴だということは理解している。思えば目の前の母は生前に自分と交わした会話を喋っている。忘れないように、記憶を掘り起こすかのように。ユイは、あの時の最期の母の姿をその目に焼き付けた。それはずっと死ぬまで覚えていて、どんなに忘れようと願っても、忘れることはないだろう。

これは自分の精神不安定が続き勝手に脳内が見せている、ただの幻覚であり、幻聴にすぎない。まあ当然だ。こんなんじゃあ、おかしくもなる。初めてだ、こんな死にたくなるような気持ち。今にも狂いそうだし、理性を捨てろと言われたらとっくに捨てている。死んでもいいと言うなら、きっと、躊躇いなく死ぬことができるかもしれない。…だと言うのなら、今死なない理由は何だ。何でこんなになってまで、…たらたらと生きているのだろう、自分は。



「………」



……簡単だ。父と母との約束、だ。

約束をした。約束をしたが、

何で自分がそれをやらなければいけない。

何で自分が妹の面倒をみなければならない。

あんな。いつも間抜けな顔で、幸せそうな顔で。
食って寝て、してるだけの生活を送って。

辛いことは一切知りません、みたいな、顔して。

なんで、……なんで。

なぜ、自分だけ。



「──なんで、自分だけ」

「────っ!!?」

「ただ、それだけを望んでいただけなのに」


どく り 。

ぽた。

自分の考えが読めるのか。母は虚ろな表情をして窓の向こう側を見ていた。


「幸せが。何でもない日が続けばいいと……ただ、それだけを望んでいたのに」

ぽた

「なんで奪うの」

ぽた、ぽた

「私には、何も残されていない」

ぽた。

「人と同じ幸せを送ってはいけないの?私には……真っ当な幸せすら、許してはくれないの?」

ぽた、ぼた。


「う、うぅ……!」


まずい、と。思った。

あれだけ虚ろな表情をしていた母が、いつの間にかその表情は、瞳は憎悪の色で染め上がっていた。

ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。

頭が真っ白に、目の前が真っ黒になる。少しずつ白から黒に塗り潰されたかのように、それはどす黒い色に染まって。
吐き気がこみ上げる。足元がグラグラして、水の中に引きずられるような錯覚を起こした。

まずい。まずい。呑まれる。のまれる。

警報がどこかで鳴っている。

のまれる。


「……っなんで」

「私だけがこんなにも辛い。なんで──」

「ぉ れだけが、こんなにも、苦しぃっ……」

「なんで、」

「なんでなんでなんでっ…」



黒い感情がユイの精神を浸した。

──あの時、母が壊れなかったのは、ユイが、居たから。自分だけが苦しい。それは違う、と。それは自分達も一緒だと。一人じゃないと、言ってくれた存在が居たから母は辛うじて留まった。普通を、保てた。

けれど今のユイには、その存在がいない。

言葉を、諭す人間がいなかった。


「──そう、こんなにも、辛いのよ」

「は、はっ、はっ、はッーー」



息が詰まった。器官がぎゅっと狭まって、気道が潰れた。

いつの間にか母は血に濡れていた。母はその血と膿と、腐り落ちた身体の、あの時の母のまま。

母は目の前にいた。壊死した体を崩しながら、ユイの両頬を大切に包み込み、濁りきった目で、こちらを見ていた。



「私達だけが、こんなにもつらいのはなぜ?」

「ぅ…ぅぅヴ………っ」

「なぜ、こんな惨めで醜くて…美しくもなんともない姿にならなければいけなかったの」

「くそっ…や、めろっ!」

「なんで、私がこんな思いをしなければならなかったの」

「ぁぁぁっ」



なんつー顔してんだ
沢山の遺体が
私だけがこんなにもつらい
バラバラになった欠片
ちゃあんと飯食えよ
うで、くび、どうたい
こんな傷じゃあ助からねぇなんて、見りゃわかるだろ
俺に何もするなというのか
崩れる洞窟
ただそれだけを望んでいただけなのに
なんで私からあの人を奪うの
浸水する洞窟
守っちゃくれねぇか
にー、遊ぼう
ワカナと、アヤを頼んだ



「──……ねえ、どうして?」


言うな。

腹部から夥しい量の出血。
助からないと、一目でわかった。
崩れて迫り来る岩。波。
抱えられて遠ざかる背中。
何もできなかった自分。
何もすることがなかった自分。
何も力なんてなかった子供な自分は、どうしても無力で。

父を置いて、逃げた。

やめろ。

わかってる。

わかってるんだ。

けれど、それを他人から言われてしまったら。

きっと底の知れない罪悪感と罪の意識に、

────押し潰される。



「───ねぇ、なんで。サクヤさんを助けてくれなかったの」

「やめろぉおおおおおおッッッ!!!!!」



声が、消えない。

ベッドから転がり落ちて身の回りにある物を手当たり次第投げつける。カーテンを全て力づくで引っ張り、投げ捨てた。母の方に。机の上にある物全てひっくり返しコップをドアに投げつける。バリン、と割れた。



「うるさいうるさいうるさいッッ」

『どうしました!大きな音が……ゆっ…ユイ君!!?』



なぜいつも鍵を締めてる筈なのに、今日に限って締め忘れていたのか。扉は開かれる。そこには焦りを含んだ表情のルカリオが、扉を開き驚いた表情で固まっていた。
周りの散乱した家具とユイの顔を見ていち早く状況を理解したルカリオはユイを落ち着かせようと腕をとった。



「触るな!!」

『 っ!!』


机をひっくり返し、散乱した物の中に文房具が散らばっていた。無我夢中で鋏を掴んだユイは、普通なら考えられないであろう尋常ではない早さで、鋏を横薙ぎに振り払った。
ヒュッ、と風を切る音。予想してなかった抵抗にルカリオが遅れて反応をするが、避けきれなくて腕を切り付けられた。血は出なかったが、少しずつピリピリしてくる痛みに顔を歪める。



「なんで助けてくれなかったのなんで?ねえなんで?聞いているのよ、なんで。なんで…なんでなんで」

『ユッ…、』

「そうだあの時、もっとちゃんと俺がしっかりして。俺が。親父。死なない。なんとかしねぇとなんとなしねぇと迷ってる暇なんて時間がない頭が真っ白だ何すればいいどうすれば助かる助からない見ればわかるだろこんなの助かりっこない時間がないなんとかしねぇと見捨てろ誰を早く早く早く早く諦めた誰が自分だ俺だ見捨てて逃げ出した違う青棘が無理矢理俺達を連れて違うしょうがなかったんだそれしか方法なんてなかったしっかりしろそうだよ母さん俺が俺のせいなんにもできなかったんだごめん母さん母さん父さんごめん逃げてごめ」

『ユイ君っ……!!』


なんで、自分ばかり。


「にー……?」

『!!』

兄の部屋からの騒音でアヤが気になったのだろう。それはアヤが想像もしてなかったくらいに部屋が散らかって、コップが割れて散々なことになっていた。
ユイもルカリオも緊迫した状態。その中、兄であるユイは背を向けて座り込んでいる。

その背中はいつもの頼りある兄の背ではないような。


「にー…?どこか、いたい、の…?」


その人は、自分の知っている人ではないような気がしてアヤは不安でいっぱいだった。



「にー?」

『アヤちゃん…!今はっ』

「………」

「お、おへや……」

「…そ…だ」



そうだ、なんで、俺ばかりが。

なんで妹はこんなにも能天気なのだろう。

あの時も、あの時も。

苦労も、悔しさも、痛みも、恐怖も、我慢も、悲しさも。

俺ばかり。

なんで俺が先に生まれたのだろう。

なんで俺が兄なのだろう。

なんで、こいつは何もしていないのに守られる?



「おへや…きれーにしなきゃ…にー、…にー?」


──母さんと、アヤを頼むな。

──お兄ちゃんなんだから、アヤを守ってあげてね。


──約束。



お兄ちゃんだから。そんな言葉。

なんで俺ばかりがこんなにも辛い

俺が兄だからと、先に生まれた兄だから、妹をアヤを守れと言うのなら、

誰が自分を守ってくれるのだろう

なぜ自分ばかりがこんなに大変なのだ

なぜ、俺だけがこんなにも苦しいーー!



「に、」

「っーーうるせぇ!!!」

『アヤちゃん!』



近寄って縋ってきたアヤを勢いよく押した。呆気なく尻餅をついたアヤは自分が何をされたかわかっていなく、目を白黒させている。
慌てて助け起こすルカリオでさえ、最早目障りだった。


「……なんで、親父だったんだよ」


あの時、どうして父は死ななければならなかったのか。

どうして母は死ななければならなかったのか。

…どうして、自分達家族がこんなにも不幸になったのか。

言うな、と心の底で声がした。焦りを含んだ声。これを言ったら、戻れなくなる。一生残る傷を背負わせてしまう。暴力なんて、生温いことを知っている。心に負った傷。心を抉るような刃物よりも鋭い凶器。だが、一度生まれた疑問と、怒りと、苛立った感情は大きな波となってユイを駆り立てた。

目の前に居た母はいつの間にか背後に立っていて、その病的な白い腕でユイの首に巻き付いていた。なんで私だったの、と未だにユイの耳元で呪文のように呟いている。


「なんで、母さんだったんだよ…」


やめろ

やめろ

言うな───!!

心の奥底で、あの頃の自分が声を上げていた。



「に、」

「なんでっ!!親父と母さんだったんだよ!!何の役にも立たないお前がっ……──死ねば良かったのに!!!」

『ユイ君ッッ!!!!』



正常な思考ではなかった。

ユイは、取り返しのつかないことを言ってしまったと理解したのは…全て言葉を吐き出した後だった。

この時、時間が戻せたらいいと、柄にもなく思った。

あの時の妹の顔は、

今でもしっかりと覚えている。




四十一華



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