三十八華
「…………」
例えそれは
「……っ………ッッ!!!」
どこにいようと
「…っぅ、……ぐッッ…おぇェェっ」
何をしていようと
「ごほっ、げほッッ!!」
忘れられない。
ーきっと、死ぬまで。
自分の自室。ユイはあれから一ヶ月、二ヶ月と吐き気と眩暈、頭痛が止まらなかった。
母が死んだあの日。あの最後の、人間ではないただの人形のような無機質な母の顔。青棘は微笑んでいたように見えた、と言っていたが、果たしてそれは本当なのか。あの日の「寝ろよ」と母の寝室を後にしてから、過ぎた時間は数時間しか経っていなかった。それなのに、もうその体は腐敗が進み、壊死が始まり、骨まで、見えていた気がする。…ルカリオの話はもしかしたら、細胞が死んでいくスピードに合わせて表情筋も変わってしまったのかも知れない。膿に塗れた身体。壊死して落ちた指。顔を亀裂が入ったかのように、皮膚がピシリと裂けた。
覚えてる。
何一つ忘れることなく。
母の姿を脳に焼き付けて、それを理解した瞬間、どこかで大切なものが崩れ落ちて、歪な、得体の知れないモノを形成してしまった。
そしてそれは細かく割れて粉々に破裂した。
──ユイはそこから記憶がない。
次に目を開くと痛みを感じた。酷く痛む喉は"声"で切れたのか。重く響くような痛みがある首の後ろは、相当な打撃を加えられたのか。
あの後、ルカリオが咄嗟に取った行動は首目掛けて掌を振り下ろしていた。 避けられるはずもなく、綺麗に掌が入った瞬間にはユイの意識は完全に飛んだ。
時間の流れは目まぐるしいもので、母親の遺体を焼く時には、既に母は箱の中に居た。ルカリオが"箱詰め"をしたらしい。恐らく、綺麗な姿ではないだろう。ユイが気絶してから起きるまで、そんなに時間は経っていないがあの腐食する速さなら、今頃は溶けているのか、ひしゃげているか…人の形はしていないことは簡単に予想ができた。ここまで考えて、ユイは一度我慢ならずに、ーー吐いた。焼く前に、最後に別れる前に顔が見たい。だが顔なんてものが無かったら。その箱の中にいるモノがにわかに生前の母だと信じられない姿をしていたらーー。"あんな姿"よりも、もっと、もっと。
尋常ではない汗が吹き出し、顔面は青白くなっていく。動機が止まらなくなって過呼吸になったところで、本家の…名も知らなかったが、若い男が肩を支え、助けを呼んだ。
母を焼いた時、残った本家の者も協力して葬儀とも呼べるかわからない葬儀を行った。この短時間の内に起こった様々な出来事により対応と対処が追いつかなかったのだ。当主が死に、本家屋敷は全焼し、その人間とポケモンが半分死に、更に別々の道に歩いて行った者達もいる。その矢先に、その妻が死んだ。皆、何からしたら、何をしたらいいのかわからなかった。
炎の中で燃えていく母を見て、ユイの心も次第に、死んで行った。
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「にー」
「………」
「にー?」
「……煩ぇ、なんだよ」
「おかお、こわいよー?」
「…………」
「いたいのー?」
「……」
「おなか…」
「………」
「むー」
『…アヤちゃん、こっちへ来なさい。青棘と一緒に遊びましょうか』
「むー」
『……ユイ君は少し体調が悪いから、休ませてあげましょう』
「………うん」
にー、はやくよくなってね。
そうルカリオの腕に抱かれて、手を振って遠ざかっていく妹。
「……… 幸せそうな、ツラしてんじゃねぇよ」
アヤは、父親が死んだことも、母親が死んだことも理解してない。いや、知らない。知らされていない。それ以前にまだ赤ん坊の時に本家に行ったくらいで、本家があることすら知らないのだ。
母を焼いたのも知らない。
見て、いない。
「くそ………野郎が……」
────ポタ。
真っ白な心に、小さな黒い点が生まれた。
それは炭を一滴垂らしたように、徐々に広まって、濃くなっていく。
三十八華