三十七華
『……………!』
それは、本当に突然だった。
『……っ!?』
何かが途切れたような。
淡い光が、蝋燭の火が何の前触れもなく消えていくような、
そんな途絶え方だった。
屋根の上に腰を下ろしていたルカリオは、遠くの方に波動を飛ばして様子を見ていた。本当にあの組織は無くなったのだろうか。TVの情報や、ポケモン同士の噂であの非人道的な研究チームは騒ぎに乗じて警察に捕まったらしい。まあ、当たり前だとも言える。サクヤの話によると本当に長いことポケモン乱獲、強盗、窃盗、子供攫い、女攫いなど多くの事件に関わってきたらしかった。…ワカナがもうすぐ20半ばを迎えるとなると、奴らも20年以上は非人外的な悪意ある行動を行ってきたと言える。それが今回の1件で大騒ぎになり、ここの町、島の近くにかつてない程の警察を張り込ませて探りを入れていた。確かに、あんな数の人獣を率いて、あんな大掛かりな装置をあの洞窟内に運ぶ。流石にマークしている警察を潜りながらコソコソなんてできないだろう。
今頃は崩れて、海に沈んだあの洞窟も調査している頃合だろうか。
………多くの死体が出てくるだろう。
実は、あの洞窟周辺の水ポケモンにお願いして、ルカリオは何度か海底を潜っていた。
遺体であるサクヤと、炎鬼のレントラーを探す為だ。他に仲間達の身体の一部も見つかれば、とも思っていた。だけれども、そう簡単にはいかなくて。どれだけ潜っても、瓦礫の山を崩しても見つからなかった。はやく、早くあんなにも暗く、冷たい海の底から一刻も早く主を引き上げなければ…。
だがしかし、現実はそう上手くはいかないものだ。
そんな時だった。
『ーーー!』
とある一つの波動が、消えた。
蝋燭の火が突然消えたかのような、そんな消え方だった。
ルカリオの瞳が大きく揺らぐ。
膝が少し、震えた。
『ワカナ様……』
小さく呟いた声は、空気に溶けて消えていった。
自然と走り出す足は、向かう先は決まっている。屋根から窓に入り込んで、目的の人物への寝室を目指す。息が切れる。ドクドクと煩いままの心臓をそのまま、そっとドアノブを引いた。
『(………あぁ)』
キィ、と少し高い音を立てて、それは開かれた。
ドアを開けるとすぐそこにベッドがある。その上に横たわって、既に事切れているのは、間違いなくワカナだ。赤ん坊がまだ母親の腹の中にいるような体勢で、……亡くなっていた。
一歩、一歩と近づき静かに跪く。顔を覆った髪を分け、頬に触れる。最後に泣いていたのだろうか。まだ涙の跡もしっかり確認出来る。頬も、まだ暖かかった。
『(ワカナ様)』
主、…主。
すみません、すみません。
やはり、延命は、…出来ませんでした。
ワカナの身体に関しては、医者でさえもお手上げ状態であったし、サクヤも睡眠時間を毎日削ってまで調べていた。ポケモンとヒトの細胞を掛け合わせて作られた人間について…どうすればまた分離できるか、または消滅が可能か、お互いの細胞がバランスよく釣り合うように拮抗できないか、それならと延命方法など。ありとあらゆる研究論文を見て、仮設を立て、聞いて、今までそれに時間を費やしてきた。
だがそれも、無駄だったと言うのか。
薄く開いた瞳は濁りなく、相も変わらず澄んだ蒼色だった。
とても穏やかな表情で、薄く微笑んでさえも見える。
薄く開いた口は、淡く色付いて甘い。
動かないこの人は本当の人形のよう。
見目麗しいビスクドールとはまさにこの様な例えなのだろう。
けれど、
けれど。
『この方は、綺麗な死に方すら、許して貰えないと言うのですか…!!』
ギュッとワカナの手を軽く握った手はみるみる内に鬱血し、裂けた。
ピシャッ、と皮膚が裂け、腐敗しかけた血と海が飛び散った。
『なぜ…なぜ…』
主が愛した、女性。
恐らく、自分が今まで見てきた人間の女の中で誰より、何よりも気高く、慎ましく、そして艶やかで美しかった。
そんな彼女がなぜこんな死に様を迎えなければならなかったのか。
『……ユイ君には』
見せるべきではないのかもしれない。
滴る血液、通常の倍の速度で進む腐敗。膿が酷くてあちこち膿疱が形成されている。
ポロっと落ちた足の指先。黒かった。ーー壊死。
壊されていく。
崩れていく。
何もかも。
二人とも禄な死に方をしていない。
ボロ。ボロ。足の指先が徐々に落ちていった。
なぜ、
こんなにも不幸が
この世には、本当に神なんて、存在するのだろうか
ギィ、とドアのなる音が小さく響いた。
まずい。
まずい。
「……青棘?お前、母さんの部屋で蹲って何やって、」
これ以上はいけない。
いけない。
ルカリオは、頭の中で赤い信号が点滅しているのを感じた。
ガチャッッ!
床に流れる血を見たのだろうか。
ユイが母の身体の清拭と消毒を行う為に持ってきたであろう洗面器が落ち、床に当たって激しく転がった。中の水が勢い良く部屋に飛び散り、ずぶ濡れになる。
ユイは、かつてないほどに目の前の光景を瞬時に脳に焼き付けてしまった。
余りにも酷い母の姿。
腐敗が進む身体。黒く壊死が進む身体。肌が裂ける。膿と膿疱まみれの身体。
――あの日、あの快晴の中、眩しいね、と美しく、優しく微笑んで笑う母の顔と被った。
虚ろで、澄み切った、もう無機質なものへと変わってしまった母のカオ。
ピシッ、と顔の皮膚が瞬時に裂けたと同時に、ユイは洗面器と一緒に持ってきたまだ片手に残った水差しが落ちて、
ーーパリンッッ!!!
床に当たって粉々に砕けた。
この時、ユイは完全に限界を超えーー
発狂した。
「ああああああああぁぁぁあぁぁぁあああ!!!!!!!!!」
三十七華