三十五華
あの洞窟での出来事、本家全焼、人体実験を行う組織について、大きなニュースになった。
それから暫く経った後だった。
母は、日に日に、見る見る内に衰弱していた。
「……母さん、食えるか?」
「ぅ…っ、う、ぷっ」
食べ物すら受け付けなくなってしまった。
言葉すら最近ではまともな会話をしていない。
いや、喋る事すら億劫なのか。激しい痛みがあるのか。なんなのか。
普段寝ていることが多くなった。
カタカタと震える手。痩せこけた肌。青白い顔。
ああ、もうすぐなのか。
もうすぐ、
*****
「にー?」
「…なんだよアヤ」
「ママ、からだ、わるーの?」
「ああ、そうだよ。だからあんまり近寄るなよ」
「……なんでー?」
「余計に疲れるからだろうが」
「……アヤ、だれとあそぶー?」
「……適当に遊んでろよ」
自分でもわかる。
妹への態度が日に日に冷たくなっていくことが。
もう、余裕すら当の昔からどこかに置いてきてしまったのか。
『では、アヤちゃん。この青棘と共に遊びましょうか』
「うん!とげとげとあそぶっ」
「……おい、あんま甘やかすな」
『まあまあ、宜しいでしょう。幼子は遊ぶ事が仕事ですゆえ。さ、何をして遊びましょうか』
「んーとねぇ、アヤ、あれしたいのー」
『ほう、………』
「………」
幼子は、遊ぶのが仕事?
母がこんなんになっても?
遊んでいられるのか?
仕事?
遊ぶのが?
「……っ…」
何が正しいのか、自分が余裕が無さすぎなのかが、わからない。
******
ある日の出来事だった。
「っ…………!!」
母がベッドに蹲っていた。ガリガリとシーツを引っかき回し、もがき苦しんでいる様。
「母さんっ!!」
声にならない悲鳴を上げてベッドの上を打ち上げられた魚のように動き回る。
ユイは持っていた水差しと、体を拭く洗面器とタオルを机に乱暴に放り出し、蹲る母を仰向けにさせた──が。
「ーーっ!?」
寝着の至る箇所から血が滲み、ベッドも赤く所々染まっていた。
「(この匂いっ…!)」
酷い膿の匂いと、浸出液の匂いと、ーー腐敗した臭い。
ドクドクと心臓が嫌に激しく鳴る。大きな音で。
震える手先に何とか力を入れで母の寝着のボタンを急いで、外していく。前にも見た事のある母の鈍器のような白く、美しい肌は……そこにはあるはずもなく。ただただ、酷かった。これが癌なのだろうか?普通の癌?…違う、人獣である、母の末路だと思えた。
もがき苦しむ母の声を聞きながら、出血し、膿が出る箇所を消毒しながらガーゼで覆っていく。手先が震える。自分の手にも血液が付着する。鉄臭い匂い。顎の下、鎖骨、乳房、脇、脇腹、それはもう至るところ、内側から、体の組織を破壊され、体外に出た症状だった。
首を消毒し、ガーゼで覆う時だった。
突然、ピシッ、と肌が裂けた。
「………、」
血と膿が、肌の下では耐えきれずに破裂し、外まで出てきたのだ。
「っ……っ…ぅ…!!」
それを間近で見てしまった。
嫌だ、
嫌だ、
見たくない、
見たくな、い
未だに悶える母、
壊れていく母の姿。
弱っていくすがた。
裂ける皮膚、飛び出る血と膿。
誰でもいい
誰でもいいから助けて欲しかった。
「親父っ…!!」
でも、助けてくれる人はもういない。
自分、一人。
独り。
この時、ユイの中で何かが音を立てた気がした。
『ユイ君』
「…………」
『大丈夫ですか』
「…………」
『目を、逸らしては、なりません』
「…………」
青棘。
俺の異常を波動で掴んだのか。
逸らすな、とは
「……め、ん」
「………!」
「……ごめ…、ユイ」
ワカナが、虚ろな目をして、けれど、ちゃんとユイを視界に捉えて言っていた。
久々だった。母とこうして目を見て会話するのが。
ワカナは、謝っていた。
ごめん、と。
こんな、辛くて、汚くて、嫌な事をさせて。
自分の母の、こんな姿なんて見たくもなかっただろうと。
「………っ!…っ、そんな、ことっ…!!」
謝るくらいなら、早く、良くなって。
生きていて欲しかった。
*****
何だか、最近、変な匂いがする。
ツンとした匂い。
いつもなら、もっと優しい匂いがするのだ。
花の香りのような。優しい、陽だまりのような。
安心するにおい。
「ママー?」
最近、おかしい。
ずぅっと、寝ている事が多くなったのだ。前はたくさん遊んでくれたのに。疲れてしまったのかな。
ご飯は兄やルカリオの作ったご飯が多くなった。
母の作ったご飯が食べたいな。
「パパはー?」
そう。
いつの日か、あのかっこよくて、優しくて、背が高くて、いつも膝の上に置いてくれた父もいなくなっていた。
どこに行ってしまったんだろう。もうすぐ帰ってくるのかな。
「あそぼうよーねー」
ルクシオは遊んでくれる。
楽しいな。
でも、最近は母も遊んでくれないし。父は帰ってこない。忙しいのかな。
つまんないな。
そういえばあの大きなレントラーや、鳥さんや、黒いウサギさんもいない。母の近くにいた、いつも優しくフワフワ飛んでいたあの2匹もいない。
つまんないな。
何でみんなどこかに行ってしまうんだろう。
アヤも連れて行ってくれればいいのに。
「………アヤ?」
「!あ!おきたー!」
「……フフ、おはよう」
「ママ、おねぼうさんだねーおはよー」
「…そう、お寝坊さんですね。本当にね」
近寄ってきたアヤにいつもと変わらない笑みを向ける母。
「ねーあそぼうよー」
「ええ、ええ、遊びましょう。そうしましょう」
「つまんないのー。にーが、遊んでくれないのー」
そう、そうだ。
兄も、遊んでくれなくなった。
いつからだっけ?
いつからだろう?
前より、目を合わせてくれなくなった。
笑わない。
笑ってない。
笑わなくなった。
何でだろう。
「……ごめんね、お母さん、眠くなってしまったから、また……目が覚めたら、あそびましょうね」
「んーやくそく、よー」
笑って言う母は、小さな声をいつもより振り絞っていたのかもしれない。
本当は、喋れる状態じゃなかったのかもしれない。
あの時、小さなボクは、そんなことこれっぽっちも思っていなかった。
手を振って部屋から出ていくアヤ。
ドアが閉まるまで直前に見た母の顔は、最後まで笑っていた。
───この母の顔と、約束がアヤにとって最後の約束になった。
三十五華