三十一華
大きな崩壊の音が聞こえる。
岩と岩が崩れる音。
天井が割れて、砕けて、海上の水が今、地下空洞であるこの洞窟を沈め尽くそうとしているのを。
地面が割れて自分達を、そこらに転がり朽ち果てた遺体達を飲み込もうとしている。早く、早く自分達もここから出なければ、出なければ。
「ああぁぁっ…サクヤさん…!サクヤさんっ…!!血が…ッッ」
止まりません。
そう声にならない声を喉から絞り出したように叫ぶ母。仰向けで倒れたまま、どこもかしこも傷だらけの…いや、傷だらけなんて語弊がある。もうこれは命に関わる程の裂傷、擦傷痕だ。大量の出血。地面に染み込み、水に溶け込む血液。初めてこんな重症人を見る、こんなまだ年端もいかないガキの自分が見てもわかるほどの、もう助からないだろうと思うくらいの大怪我。
『主ッ!主っっ!!!』
「ハッー…ハッー…笑えね、ぇ…」
『喋りなさるな!!今、止血をっ…』
「ハッー……あー…やめとけ」
『何をっ』
生まれて初めて。
震える。
何かを失うかもしれない、恐ろしさ。
恐怖。焦慮。焦燥。慄然。暗澹。悚然。
「……ハッ…蒼棘…もう、わかってんだろ。…おめぇさん、は」
『なにを…何を仰りますかッッ!!!』
吠えてる。吠えている。あのいつも冷静かつ常に一歩後ろで状況を把握するような、優秀なポケモンが。心のままに吠えている。焦燥感に駆けられて。
その間にも流れていく血。
命の、重さとはなんであったか。
「もう…こんな傷じゃあ助からねぇ、なんて…」
消えていく。
震える。
喉が渇く。
大切なものが、手の内側からこんなにもいとも簡単に、
流れていく。
「誰がみ ても、わか る」
それが例え、お前でも。
もう動くのも気だるいのだろう。いや、動かないのかもしれない。
『……ーーッッ!!!私はっ!!私達はっ!貴方を守る剣でも盾でもあるッ!!!それは貴方に拾われた時から、みながそう決め、みながあの日に自ずと誓った!!!それなのにっ』
貴方は、
『俺に何もするなと言うのかッッ!!!!』
あの日の、地獄のような毎日から救ってくれた人間。
あの中の誰もが、そう感じていた。そんな連中しかいなかった。それを、もっと楽しい毎日があってもいいんじゃないかと、もっと気楽な毎日があってもいいんじゃないかと、手を差し伸べてくれた人間がいた。
『俺はっ……何も返せていない…!!』
もう数匹の仲間の波動は、既に感じられない。この世のどこにも。
もう、わかってしまう。これから先、この主が未来を生きていけぬということを。妻と、子と、自分達を残し、死んでしまうということ。
……こんな苛まれるのだったら、この忠誠を持ったまま、自分の主の為に、一緒に仲間達と共に、この場で死んでい れ、ば、
「……ハッー……あお……蒼棘よ、」
『────俺はッ!!これからを生き長らえてこの恩をっ!どう、返してゆけと、いうのですか……』
「蒼棘」
野生ではない。野生では味わうことは一生なかっただろう。
名を貰えるという充実感。
満足。──誇り。
「名を、捨てろ」
『………な、にを』
──貴方は、それすらも置いていけというのか。
バシャン!!!という水飛沫が跳ねる。
崩れ続ける岸壁。割れる地面。崩れる死体。底に沈んでいく沢山の遺体の中の、最早原型を留めていないピジョンと思わしき亡骸が沈んで行った。
もう、もたない。
「このガキ達を、助けてやっちゃあくれねぇかい」
『………!!』
「その恩ってのが、何なのかは…知らねぇが」
『主、』
「俺の為に死んじまうのが恩だとか、そんな……────クソみてぇな恩なら、最初から捨てちまえ」
『────………』
「…こんな俺でも、その恩ってぇのに報いてぇなら……生きて、ワカナや、ガキ達を……守ってやってくれや」
大切なんだ。何よりも。
『────…っ……必ず……!!』
「ガゥ………」
『!炎鬼!?お前ッ……』
「おー………よく、生きてたな、お前……いや、もう、くたばりそうだなぁ……おめぇさんも……」
割れた瓦礫を這ってズリズリと移動してきたのは赤い毛並みから黒の毛並みに戻った炎鬼のレントラーだった。
……ヨロヨロとした足並みでゆっくりと近づいてきてはいるが、後ろ足が、切断されていた。
先程の戦闘だろう。片目は潰され、恐らくもう見えていない。眼球ごと抉り取られたような傷痕。前足は骨が砕かれ、腹部をバッサリ切られている。やはりただでは、済まなかった。血を滴りながら地面に跡を残し、それでも自分の主の元へ戻ってきたのだ。
ゆっくり這いながら、最後には崩れ落ちた。
『炎鬼!お前っ……』
「……よぅ。ボロボロだなぁ……おめぇさんも、俺も、」
「………」
「………ここが、墓場か」
ドオン!!!と一際大きな音が鳴った。
水圧に耐えきれずに、岩壁が、完全に崩壊する────!!!
「ユイ」
「……おや、じ」
「…なんつー顔してんだ」
「……っ…親父……!!」
「ちゃあんと、飯食えよ」
あの日、
「この偉大なるお父様との約束な」
あの時、
「……すまねぇな。何だか、これから先にゃあ、おめぇ一人に、重荷を背負わしちまうことに、なるな」
俺 は 、
「───すまねぇ」
何ができただろうか。
この血濡れの父親は今やろくに動かせない筈の腕を持ち上げ、ユイと、 未だに夢の中にいるアヤの頭を笑って力強く撫でた。
もうサクヤには自力で立ち上がり、この場を脱出することは…当然出来るはずもなかった。炎鬼のレントラーにも、この身体では不可能であり、ルカリオはこの手負いの二人よりも…母と、兄妹を連れて洞窟を抜け脱出しなくてはならない。
二人を残して行くしか、あの時は方法が、なかったんだ。
サクヤはユイの呆然とした、今にも泣いてしまいそうな碧い瞳を見て言った。
「────母さんと、アヤを頼むな。ユイ、」
お前一人にこんなにも押し付けて、背負わせて。
なんともまぁ、酷ぇ父親も居るもんだと思うが。
お前は俺の、自慢の息子だからよ。
ちと荷が重すぎるかも知れねぇが。
だから、こんな頼みもしちまうんだ。
『────ッ主!私は、貴方の手持ちになれたこと、本当に誇りに思い、感謝しています…来世は今よりも、良き、幸せな人の世を送られますよう……願っております』
ルカリオが深く会釈をした後、左手にワカナを、右手にアヤを抱えたユイごと抱え込むと、大きく跳んだ。その後ろをルクシオは着いていく。……父親のレントラーを尻目に、涙ごと飲んで。
もう……こと切れていたのかもしれない。
「バカヤロー、何を人の人生不幸だと思ってやがるんだィ…今も、充分良い人生だったよ」
ドオオオオッッッーーーーンッッッ!!!!!
ガラガラガラッッ!!!
岸壁が、崩れる。海水が洞窟内を満たす。──浸水していく。
瓦礫と瓦礫を抜いて、どんどん離れていく後ろ姿を見つめていた。
遠くのワカナが、色の無い瞳でじっとこちらを見ていたのをサクヤは知っている。もう見えなくなっても姿を追うように、ずっと見ていたことも。
「────………すまねぇな、」
ワカナ。
何もりも大切で、守らなければいけなくて、
いとおしい、己の妻
そして何者にも変え難い家族を、
心の底から愛している
三十一華