二十二華



見知らぬ人間が突如家に入ってきたのはつい先刻前の事だった。

ドタバタと荒く廊下を歩く複数の足音にワカナは洗濯物を畳んでいた手を止め、不思議そうにその音へと耳を澄ませる。今日は気分が良い。ワカナが倒れてから家事はユイが請け負っていたから、たまには畳むくらいは、と寝床から出ていた。アヤは毛布に埋もれて寝ている。

時計に時折目をやりながら、残りの家の住人が帰って来るのを待っていた時の事だった。バタバタと廊下を歩く複数の足音。しかしあの気分屋で破天荒な夫や歳の割には突っぱねまくったユイ、ではない。こんな歩き方はしないし、何よりかなり人数が多い。

今まで棚の上に寝ていたワタッコとミツハニーが突如跳ね起きる。ワカナが異変に気付いたのはその直後だった。



「―――見ぃつけたぁ」



音もなく扉が僅かに開かれる。そこから覗くのは光と感情のない漆黒の瞳。その瞳に、彼女は見覚えがあった。否、忘れる筈がない。声にならない叫びが肺から喉を通り、か細く空気が震えた。ゾワリと背筋に氷が這う前に勢いに任せて反射的に立ち上がる。この時、直感的にわかってしまったのかも知れない。終わった、と。



「うふふふ…お邪魔しまぁす。ごめんねぇ勝手に上がっちゃってぇ?んふふ、久しぶり。ずーいぶーんおっきくなったねぇ僕のお人形さん」



この耳に残る癖のある喋り方。間違いない、面白いくらい何年何十年経っても変わらないソレ。ソレは笑いながら扉の隙間を縫って中に侵入した。

その人間は、ワカナの産みの親だ。

産みの親と言っても、細胞を掛け合わせて誕生させた人間として、だが。気づけばこの少年のような青年のような男はいつもいつもワカナの近くに控えていた。ただいつもいつも薄気味悪い笑みを浮かべていたことだけは、覚えている。

良い記憶なんて、当然ない。



「いやぁ、それにしても綺麗になったねぇ。さすが薔薇人形と作品名を付けられた事はある。うーん、さっすが僕!」

「フォン局長、」

「あ、そうだった。じゃ、お前達、連れてって〜。丁寧に運んでよぉ?傷なんて付けたら許さないからぁ」

「―――――、」



フォン局長、と呼ばれた青年の背後から研究員の人間達が次々に入って来る。青年は、至極笑顔だ。きっと研究材料が手元に帰ってきて気分がすこぶる良いのだろう。今か今かと調理するのを楽しみに、その瞳は爛々と暗く鈍い耀きを灯して光っている。

研究員達が押し掛ける中、その手がワカナの眼前に迫った時、ワカナは人形のようにカクンと口を開いた。



「ンンッ!?」

「――――おっーと。駄目だよぉ、君が口開いちゃあ。…とーっても危ないんだからぁ」

「…ッ……!」

「ねぇ、ちょっと君ぃ?何かガムテープでも布でも何でも持ってないのぉ?口開かないように縛っとくなりなんなりしといてぇー」



言葉を発するワカナを察知した青年は掌をグッと唇に押し当てる。クスクス笑う青年に悪寒が走り、振りほどこうともがくも、力の差は歴然で直ぐに後ろ手に押さえ付けられてしまった。変な方向に固められた腕と肩が痛い。ギリギリと間接が嫌に擦れ合う音に、ワカナは顔を苦痛に歪める。

わかりました、と研究員達の内の女の一人がハンカチを持ってワカナに近づき、それを口に詰め込む。喉の奥まで詰め込まれたのか、苦しくてくぐもった声を漏らすワカナに女はごめんなさいね、と何の悪気もなく謝った。

何とか自由である視線を動かし、ポポッコとミツハニーに助けを求めるが既に二匹は力なく倒れていた。…炎タイプのポケモンが四匹。二匹にとって部が悪いのは明らかだ。



「ぅっ…」



しかし彼女は抵抗する事は諦めなく、手足を可能な限り動かす。…ルカリオは、蒼棘は、気付いてくれているだろうか。いや、あの子は気配に鋭いのだから既に気付いてくれているだろう。

だからあと少しでも粘っていれば、あの人が助けに来てくれる、という希望は捨てきれない。サクヤが来れば、絶対に大丈夫だという確信が何故だか彼女にはある。それは絶対な信頼と絆があるからこそ。

アヤは二階で寝ている。暫くは起きないだろう。ユイも学校に行っていて良かった、と切実に思ったワカナだが、それは一瞬にして崩れ去った。



「……ねぇ、薔薇人形。大人しくしてくれないかなぁ?傷付けないように運ぶのって大変なんだよぉーこう見えて」

「…ふ…ッ…」

「うーん…一階にはいないみたいだけど。二階にいるのぉ?女の子」
「――ッ!!」



驚きに目を見張るワカナに青年はニコリと笑う。



「いやぁねぇ…まさか、子供がいるとはねぇ。もう昔何回も流産させてズタズタになった筈だし、使い物にならないと思ってたんだけどぉ。うん、良かったねぇ」

「…ぅっ…ふッ…!!」

「…どうするぅ?どっちでも選ばせてあげるよぉ。あの子、流された子達と同じ末路にしてあげても……」



突如ゾワリ、と背中と心臓を駆け巡る冷たいそれに、青年は言葉を切った。

ピタリと大人しくなったワカナの表情は一つの無表情で固められていた。しかしその瞳には殺意と憎悪、刺さる氷のような暗い暗い感情が押し込められている。紅くたぎるその瞳に、青年はクスリと笑う。これ以上苛めたら視線で殺されそうだ、と。



「………良い子だねぇ」



ピクリとも人形のように動かなくなったワカナの頭を青年は撫でた。



二十二華繚乱


一つ一つ途切れるように

一本一本事切れて行くように

一息一息塞き止められるように

幸せはそう長くは続かない





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