例えればそれは、



ある刻、ある処。

そこには深い蒼と広い海があった。

海は何処までも深く、何処までも冷たく、そして温かい。
蒼は何処までも蒼く、何処までも深く、そして透き通っていた。

何処を見ても海だった。何処を見ても蒼だった。
変わると言えば気分で変わる揺らぐ波。刻には優雅にたゆたい刻には、逆鱗に触れたかのように波は荒れ狂った。
変わると言えば刻には広い水面に泣きじゃくったような雨が降り注ぎ、刻には燻るような波の上機嫌の良さが緩やかに過ぎ去っていた。

そこには何もない、深い蒼と広い海だけの世界。

波と水だけの世界。



けれど、そこは魔が住む海と言われている。そう伝われていた。

それは例えばこうだ。

波に呑まれた子供は肢体バラバラに砕かれて砂辺に打ち上げられるとか。
人の生首が海の底に沈んでいるとか。
人魂が波と一緒に揺らいでいるとか。
何処からともなく不気味な歌が聞こえてくるとか。

そして、それを見た者は魔の者に骨まで喰い殺されるとか。

そんな噂。そんな言い伝え。

そんな数多の言葉が伝えられている。そんな水面だけの水地に、一つの小さな小さな、島が有った。その島は只の深い森で、奥深くの森を抜けたその先に、また一つの洞窟がある。その奥。また奥。そのまた奥に、


そこに、女がたった一人、有った。

それは身を潜めるように。それは幽閉されるかのように。

女は有った。

女は岩の隙間の鉄格子をただじっと見詰めたまま、ただ歌う。歌う。謳う。詠う。唄う。
女にとってそれは毎日毎日変わらない事。ただ歌っていれば良い。それが生き延びるたった一つの術だから。

今日も、歌う。



「よぉ」



そんな毎日に釘を打った人間が居た。

ひたり、女の真後ろにいつの間にか男は佇んでいた。



「何だ、もう歌わねぇのかィ」



ハタと止んだ歌に男は残念そうに首を揺らす。

女は別段驚きはしなかった。喋らずにじっと、突然の訪問者をその瞳に入れている。

女はこの男を知らない。いつもの世話係と称じている男、いつも必要最低限な食事を持って来る男、カルテや低周波、注射器を持つ男女、…そしていつも女を凌辱する男達しか女は知らない。

ズカズカと洞窟内を歩き回る男。考える素振りを見せる女を尻目に、男はその洞窟内を、女を中心としたその周りに無造作に落ちているモノを見渡して「えげつない事すんのなァ」と他人事のように呟いた。
男は、女に歌う事を強制はしていない。殴ってでも歌わせようとしない。ならばこの男の目的はその外れたアチラ側か。

不意に衣擦れの音が聞こえた。



「おいおい、随分大胆な女だな」



衣擦れの音が聞こえ、男がそちらに目を向けると薄い羽織物を肩から落とした女が居た。洞窟内の暗さからでも分かるのはその肌の白さ。只の白い訳ではなく、病的な白さを持っていたそれに男はふぅん、と呟いた。首元や胸元には切り傷と、赤い痕が無数に刻まれている。

女は何も言わない。何も言わない女に、男はそれが毎日であり普通の事なのだろうかと薄く男は感じる。



「やめときなァ。別にそんな事したい訳じゃねェさね」



女の前にしゃがみ込んだ男は肩から落ちた羽織を引っ張り上げ、胸元を無造作に隠す。指先に微かに触れた皮膚の温度は冷たかった。

かくして男の一連動作を見た女は、初めて表情を動かした。少しばかり驚いた色を浮かべ、男を見る。そんな表情の変化に男は「お、」と声を漏らすと女の前髪をかき上げ、口端を吊り上げた。



「何だ、噂以上のべっぴんさんじゃねぇの」



魔の者は恐ろしい容姿をしている、と聞いたんだか。と男は面白そうに言った。そんな事はしない、と言った男は何故か女の顔を手のひらで確かめるように叩く。

女は訳がわからなかった。

意味が分からなかった。

今の言葉で、女はその噂を聞き付けて来たのだろうと思ったのだが。



「噂は“恐ろしいくらいの美貌を持つ容姿をした”に変更だなァこりゃあ」



面白そうに笑う男に、訳がわからなかった。

手を離すと男は立ち上がる。数歩前に歩き、女に振り向いた。



「べっぴんさんよぉ、一緒に来るかィ?」



例えればそれは、


そこは、魔の住む海と言われていると人は言う。

それは、波に呑まれた子供は肢体バラバラに砕かれて、砂辺に打ち上げられると人は言う。

それは、人の生首が海の底に沈んでいると人は言う。

それは、人魂が波と一緒に揺らいでいると人は言う。

それは、何処からともなく不気味な歌が聞こえてくると人は言う。

それは、魔の者に骨まで喰い潰されると人は言う。


呼応、噂は消えぬ





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