act.90 呪いの婚約指輪
7月7日。
それはアヤの誕生日である。
パーンッッ!!!という軽快なクラッカーが弾ける音でアヤは寝床から飛び起きた。
「っっっなに!?なになになにっ!!??」
アヤの体調が完全に戻ってチュリネもそこそこメンバーに馴染んできた頃。いつものライモンシティポケモンセンターの宿の一室にてアヤは叩き起された。
「ピカー!」
「ぴ、ぴか様…」
アヤのすぐ横に居るピカチュウはドヤ顔でクラッカーを構えており、ベッドとアヤを巻き込んでクラッカーの中身がそこらかしこに散乱していた。キラキラのテープやカラフルなテープがアヤの頭に引っかっかって、突然の襲撃を受けた本人は目をパチパチして「……???」と呆然としている。朝からビビり散らかされたアヤは早くも心臓が口から流れ出てきそうだった。
因みにオシャマリとチュリネもアヤのすぐ傍に居て、オシャマリはもう輝かんばかりの笑顔でニコニコ笑っており、チュリネはオロオロしながらもソワソワと何だか落ち着かない。何が何だか訳分からなくて身を隠すように無言のまま布団をそろそろと頭まで被ったアヤは、布団の隙間から室内の様子を見渡すように訝しげに問う。
「え…なに…?なんなの…?新手のドッキリか何か…?」
「違う」
ガチャ、と寝室に入って来たレッドはもう既に頭から足先まで完璧に整えられ普段着に着替えていた。自分が寝ている間にどこかに行っていたのかと聞きたくなる。
そして迷いなくアヤの元へ直進したレッドは頭まですっぽり被った布団を静かに捲り上げ、出てきた寝癖でボサボサになった栗毛を適当に梳いて整えた。
「(なんなの。なんなのこの生暖かい空気と視線…)」
布団という防壁を勝手に取らないで欲しい。
何やらいつもとみんなの空気が何か違う。けれどそれは悪い空気ではなくて、良い方の空気。しかもめちゃくちゃ生温い。「おはよう」といつも通りの挨拶をいつも通り淡々と口にするレッドは手櫛でアヤの髪を整えながらもよしよしと器用に撫でている。今日のレッドも朝から弱点なんかひとつも無さそうな上にいつも通り完璧な顔面ですおはようございます。
そんな彼を見てみんな起きてるなら自分も一緒に起こしてくれればいいのに。何で起こしてくれないの。とか思いながらも「おはよ……」とうつらつらして言うアヤの寝癖がまだ付いた頭を彼は名残惜しそうに離して。
レッドはまだ寝惚けつつあるアヤの手を取った。
しっかり、その小さい手を握り締めて。
「お前、今日誕生日だろ」
「…………たん、?……あっっ」
「7月7日」
「あっ!?」
そうだった!今日自分の誕生日じゃん!
と思い出した頃、右手の薬指に何かが嵌められた。
「え」
―――ガチャン。
突如。
耳の奥で、奥底で。それがどこの奥底なのかわからない。既に閉められた鍵の上から更にガチャン、と何か。重くて鈍い鉄の鍵を閉めたような音が耳の奥で聞こえた気がした。
何となくそれが何の音なのか知るのが怖くて。
そして耳で響いた音より、右手に何か。とてつもなく重たい“なにか”が乗っかっている感じがしたけれど。それより。
それよりもレッドの顔を見る方が怖かった。
「よし」
ゆる、と弧を描く艶やかな唇。
自分の手を掴むレッドの手が、ゆるゆると自分の指と指を絡めて舐めるように掌をなぞった。その掌に集中する暇もなく目が吸い寄せられるようにレッドの顔から目が離せない。否、視線を逸らすことは許されないような、そんな圧力がかかっていた。
どろ、とした熱く沸騰させたような瞳の色が奥底で蠢いているような、何とも形容しがたい瞳で自分を穴が空くほど見つめている。
艶のある唇が嬉しそうに笑みを作り、レッドはアヤの頬をゆるりと撫でた。
「ずっと待ってたんだ」
「な、にを」
「お前の誕生日」
「…ボク……?」
誕生日を?
なんで?
アヤの頭の上にも頭の中にも大量の?が浮かんでいるだろう。
まあそれでいい。自分だけがわかっていれば。
「今回の旅が一段落したら結婚するんだろう」
「え………う、うん。そのつもり……」
「だから、それまでの約束を形にした物をお前に」
婚約指輪。約束。男避け。
それも含めて嵌めさせたが、レッドの本当の目的は違う。
自分が離れている間、アヤが逃げないように。
心変わりしないように。
約束を反故されないように。
自分と言う存在をアヤの魂に少しずつ刻むように。
そんな自分の願いという呪い(まじない)をかけて。
婚姻前のその為の下準備。
「もっと早くに、付けさせるべきだったな」
実はもっと早くから、前から付けさせたかったが。
けれど誕生日という人間その物が生まれた日の方が約束と契りを課せるには都合が良い。
恐る恐るアヤは急に重くなった自分の右手を見た。その薬指には銀色に鈍く光る指輪が鎮座しており、レッドは指を絡めたまま戯れに遊んでいる。
「…………?」
アヤの目に黒い、藻のような、薄い煙のようなものが一瞬ぼんやりと映っているのが見えた。数回瞬きするとそれは煙が空気に溶けるように消えてなくなって、それと同時に重さも無くなりアヤは首を傾げる。
因みにオシャマリにはソレがずっと“見えていた”。
『(これはまた…もの凄い執着の塊を…)』
アヤが指に着けてからソレは徐々に定着し、アヤに馴染むように収まっている。冷たい汗がオシャマリの頬を伝い、乾いた笑いで誤魔化した。
どうしよう。アヤの為を思うなら彼を引き離した方がいいのかも知れない。けれどアヤ自身はそんなこと、欠片も思っていないだろうからそれはしたくないし、できない。
「え……こ、これ。くれるの…?」
「ああ。婚約指輪な。結婚したらちゃんとしたものをまたやるから」
その藻のような黒い煙や自分の中に響いた音が何かよく分からないながらも、アヤはそれよりも自分の指に嵌められた指輪の存在を見て目を白黒させながら吃驚している。否、そんな事どうでも良くなってしまった。
「(ま、まさかこんな。貰えるなんて思ってなかった)」
「それまで外すなよ」
「…?」
一般的ならばそういうエンゲージリングは左手の薬指ではないのかとも思うが、それでもやはり薬指に異性から贈られた指輪を嵌める意味はアヤでもわかった。
自惚れなのかも知れないが、レッドくらい愛が重い人なら…自分を好きでいてくれるなら意地でも左の薬指にぶち込んで来そうなものなのに。それなのに左手ではなく右手に指輪を嵌めた彼の真意は全くもって意味が分からなかったが、そもそも自分が彼の真意を考えて思い至るなんてこと。馬鹿な自分に出来るわけがなかった。
今までもレッドの思っていることが…考えていることが分からず不可解なことはたくさんあったけど、アヤなんかにわかるはずもなく。
その度にどうしたの?どうして?なんで?と疑問に思ったことをレッドに聞いてもアヤには教えてくれず、濁されたりはぐらかされたことはこれでも結構ある。けれど表情を見ると面倒臭い、鬱陶しいなどを含んだ無表情ではなく、なんかこう…言い難そうな、どうしよう。そんな表情をしていたことが多いから。
そんな顔を見てしまったらアヤはいつも追求する気なんてなくなってしまって、まあいつか彼が教えてくれたならいいかなぁなんて呑気に思っていて。
それにレッドは自分の為に何かを隠していたり言わないこともあるから。
それがいい事なのかは……わからないけど。
「わぁ……ほ、本当に貰ってもいいの…?」
「お前の為に用意したものだから、貰ってもらわないと困るんだが」
「そ…そっか。……うん、ありがとうレッド」
「ああ」
銀色に綺麗に光る指輪はそれはそれは特別なものに見えた。
この前した結婚しましょうという不確かでいつ途切れてしまうかもわからない口頭での口約束が、実際に形にして表されるとこうも違うものなのか。
大切な彼からの誕生日の贈り物。
それがまさか婚約指輪を貰うことになるなんてまず思わなかったけれど。
「(…………あとは、結婚指輪だけ)」
“物理的な呪い”をアヤに施す。
段階的な、レッドにとって儀式みたいなものだ。
「(……こんな、普通じゃない男に好かれて。アヤには心底同情するが。今更手放してなんかやるわけが、ない)」
自分が普通じゃないなんて。普通の人間ではないなど今更だ。
レッドは己のことは己が一番良く理解し、分かっていた。
指輪は“特注品”だ。
素材は最上質なものを。汚れにくく、外部からの衝撃でも水に浸しても壊れにくい。指輪の内側にはダイヤモンドで加工された小型のGPSが共に内蔵されている。(因みに依頼した先はデボンコーポレーションの御曹司…今は社長に当たるダイゴに頼み特注させて貰ったが終始顔色が悪かった。デボンではモンスターボールの開発の他に、宝石を取り扱った商品を多く取り揃えている)
指輪のGPSからレッドのポケフォンを繋いで位置の特定はこれで…もういつでも出来る。本当は盗聴器も細工したかったが何故かできないと言われてしまった。全く使えない。
そして特注で届いた指輪を、あとは己の力と念をアヤの誕生日を迎えるまで、限界まで注ぎ込ませた。そう。自分の思念を。いや、最早邪念に近しい。
好き、愛しい。殺したくなる程可愛い。離れたくない。一緒に居たい。顔を見たい。声を聞きたい。姿が見たい。髪を触りたい。抱き締めたい。匂いを嗅ぎたい。手を繋ぎたい。体を繋げたい。身体を暴きたい。死ぬまで離れたくない。離れるなら殺してしまいたい。死ぬなら一緒に死にたい。死後でも共に在りたい。そして死んだ先でも、転生して共に在りたい。
真っ黒で。ドロドロの。純粋かつアヤに向けていた今まで表に出してこなかった感情をこれでもかとどっぷり注がれた指輪は見事なまでに穢れ、超弩級の呪物と化した。
元々神職の人間である自分が、呪いを生み出し、それをあろう事か他人に呪いを持って害をなそうとしている。
だが、そんなことはどうでもよかった。
アヤが己と共に生きてくれるなら。
さぞかしどうでも良い。
神職だろうが、実家がどうだろうが、ホウオウが憑いていようが。
どうでもいい。
それを露知らず、アヤは己の指に鎮座したレッドの思念を浴びすぎて穢れきった指輪(呪い)を見て。
頬を緩めて嬉しそうに笑ったアヤをみて。
彼女を目に焼き付けた彼は。
「―――誕生日、おめでとう。
アヤ」
レッドはそれはそれは嬉しそうに笑って、アヤに口付けた。
呪いの婚約指輪
こうして彼女は、彼の濃い呪いに塗れて19歳になった。