act.76 溺れる






「ビガァッーーー!!!!」



洗面器のお湯の中で体を沈めるピカチュウが「あれ?」と、ふいにアヤを振り返った。違和感を感じたのだ。やけに静かというか、自分以外の音がしないな、と思って。ポコポコと水面に浮く気泡。ぴ、と小さく鳴き声を一つ落とし、文字通り尻尾の毛が逆立って。彼はそれを理解する前に反射的に体が動き、湯船の縁に飛び乗ってアヤの髪を力いっぱい掴んで引っ張り上げた。

アヤは、脱力したように湯船に沈んでいた。

いや、溺れていた。

お湯の中に栗色の髪が海藻のように散らばって泳いでいる。流石のピカチュウでも湯船に浸かってアヤの顔を水面から浮かす事は難しかった。水の不重力と身体の重みに従いながら、空気を取り入れる頭部の器官はお湯の中に更に沈んで行って、アヤの髪を引き千切らんばかりに負けじと引っ張り上げるピカチュウがズルズルと一緒に湯船に落ちて行く。

ピカチュウが一緒に湯船にザボンと落ちて、そして。



「ーーーーーッ!!!!」



その時、浴室の扉がバンッ!!とまるで壊れてしまうような音で開き、浴室の光景を見て。

湯船に沈んだアヤを見てレッドは一目散に引っ張り上げた。

水の中から人間を引っ張り上げる作業は実は普通に抱き起こしたりするよりもかなり体力と腕力を要する。彼は水気を含みながら湯船から引き摺り出すアヤの重みに眉を寄せた。重い。普段のアヤの身体の重みの何倍にも感じる。

アヤの肩と腹に手を回して上半身を湯の中から出した。ゲホゲホと激しく咳き込みながら口の中から少量の水を吐き出す。良かった、少し湯を飲んだだけか。ピカチュウは湯船の縁に捕まりながらほぅっと一息着く。そんなピカチュウにレッドは険しい顔をしながらも「ありがとう、助かった」と一言かければ「本当にね」と返された。

するとピカチュウは急ぎ足でバスルームから出ていった。



「っ……!」



本当に、名前を叫ぶ暇もなかった。

ピカチュウの叫ぶ声がバスルームから聞こえた時は柄にもなく肩が跳ね上がった。「アヤ!!!」と怒鳴るように叫ぶ己の相棒の声。普段そんな声を滅多に出すことがないから瞬時に異常があった事だけは分かった。
用意していた自分用のコーヒーカップが倒れ、中身が零れるのを構いもせずそれらを投げ打ってバスルームへの扉を破壊する勢いで開く。すると湯船に沈んだアヤと、アヤの髪を引っ張り上げながらも湯船に落ちるピカチュウの姿だった。

一瞬。ヒュ、と呼吸が止まる程呆然としたが考えもせずに己の身体が勝手に動き出す。すぐにアヤの上半身をお湯の中から引っ張り上げ、顔を水面から上げさせる。ゲホゲホと水を吐き出し、苦しそうに呼吸しているアヤを見て良かった、溺れたのはほんの一瞬だったのか、と安堵した。沈むアヤを見て本当に心臓が止まるかと思ったくらい吃驚した。

アヤ、と柄にもなく切羽詰まったように呟くども本人からは反応はない。
ドクドクと大きく嫌な鼓動をする己の心臓に舌打ちしてバスタブに片足を突っ込んだ。

未だにだらりと脱力するアヤの背中と膝裏に腕を入れて、勢い良く引き上げるとザバーっとまとわりついた水が音を立てて落ちていく。



「(……逆上せたのか)」



顔にべったり張り付いた前髪は表情が良く分からなかった。

密着する体温が異様に熱いのは逆上せたからだろうか。
風呂場からアヤを裸のまま連れ出し、寝室へと直行する。些か足取りがドスドスと乱暴になってしまうのは仕方がない。アヤの身体中にまとわりついた水分と、レッドも湯船に服ごと半浴したようなものだ。二人分の含んだ水分が部屋中を水浸しに汚した。

寝室のベッドには既に大判のバスタオルが雑に敷かれており、そこにはまた何枚かのフェイスタオルやバスタオルが投げつけられたかのように置いてある。
きっと、いや。確実にピカチュウが用意したものに違いない。そして今部屋に居ないところを見ると、恐らくジョーイを呼びに行ったのだろう。

相変わらず万能な電気ネズミである。

レッドは極力衝撃を与えないようにアヤをベッドに寝かせ、顔を横向きにした。万が一嘔吐や、水を吐き出した時の為である。顔に張り付いた髪を払えば、表情が良く見えるようになった。



「…………、逆上せたんじゃないのか」



逆上せたのかと思った。

しかしアヤが入浴を初めてから10分程度だ。最初はシャワーの音が響いていたから、湯船に浸かったのはもっと短いはずだ。

濡れた頬に触るとほんのり熱を持ち熱くて、額や胸元を触ると、もっと熱かった。



「(……あつい。逆上せたんじゃない。熱発してる)」



はぁ、と深い呼吸音がアヤから聞こえる。それと一緒にごほ、と咳き込む音が聞こえて。お湯で温まったような赤みではない、顔が熱を持ったように徐々に赤く染まって行った。

アヤの体調変化には一番気を付けていた筈なのに、気付けなかった理由はなんだ。行動や表情には一切見られなかったが………ああ、いや。予兆はあった。そういえば突然声枯れしていたな。迷いの森からやけにふらついていたりもした。あれは森の中逃げ回った疲労でフラフラしていたものだとばかり思っていたが。

それ以外は…。



「アドレナリンか…」



ポケモンセンターに帰って来るまで、森での出来事が極度の緊張によりアドレナリンが出まくっていたのだろう。これまでの本当の体調の変化に全く本人が感じず、鈍化していた。

そして己の視認不足である、とレッドは舌打ちした。

バスタオルを引っ張ったレッドはとりあえずアヤの身体に被せ水滴を拭い始め、ある程度拭き終えると毛布で包んだ。恐らく、これからもっと熱が上がって来るだろう。服やドライヤーを用意しようと動き出せば、丁度ピカチュウがジョーイを連れてやってきた。バタバタと部屋にカードキーを使って室内に入ってきたジョーイは、部屋の惨状を見て何事かと目を見開いた。

部屋中水浸しだったからだ。しかし風呂場から脱衣所に開けられた扉に、寝室へと続く水溜まり、服を着たまま不自然にずぶ濡れのレッドに、そしてぐったりして毛布で包まれたアヤを見て何があったのかを大まかに予想したようだ。



「ジョーイです!失礼します」



お風呂で溺れたんですか?と聞くジョーイに対してレッドは頷いた。
入浴してからそんなに時間が経っていないこと、溺れた時間は恐らく、数十秒だった事。ポケモンの医師だとしても人間の救助方法なども一通り熟知しているらしい。



いつものエントランスホールで仕事をしていたジョーイの元に、一匹のピカチュウが駆け込んで来たことに彼女は少し、驚いた。何故ならそのピカチュウの口には「help」と書かれた紙が咥えられていたからだ。

何かあったのか、といち早く察したジョーイは簡単なナースバッグを持ってピカチュウの後を着いて行った。するとそこの宿泊部屋は、ジョーイが特別に人通りの少ない部屋を彼らに、と故意に割り当てた部屋であった。
では、このピカチュウはあの青年のピカチュウで間違いはないだろう。おっかなびっくりである。

そんなこんなで室内に専用のカードキーを差し込んで来訪したジョーイは、今この中で起こっている出来事を知った。

彼女は慣れた手つきでアヤを診察し、肺に水が溜まってないかなど、聴診器を使って調べていく。髪はまだたっぷり水気を含んでおり毛布の下は素肌だ。入浴場から引き上げて本当に時間は経っていないのだろう。



「……大丈夫、少し水を飲んだだけのようですね」



すると肌を触って何かに気付いたのか、ジョーイは鞄から体温計を出してアヤの検温を行い出した。

ピピピ、と電子音が鳴りそれを見たジョーイは眉を八の字にして。



「お熱がありますわね」



体温計には38.2の電子文字が表示されていた。

それをレッドが見て。やっぱりか、と彼は溜息を着いた。






溺れる

人間が水の中に沈む様は実際目の辺りにすると死ぬ程心臓に悪い










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