act.69 暴食






♪ーー♪、ーーー♪、ーーー♪



「……?歌?………あれ、この歌、」



っていうか、この声。

聞いたことがある。

数日前に見た、母のポートレートをバチッと思い出した。

弾かれたように立ち止まる。



「……って。………!?ここ、どこ…!?」



はた、と辺りを見渡せば暗闇の中。ウバメの森のように深く、暗い。

正気に戻ったアヤは焦ったように前後左右を見渡した。
チュリネやモンメン達が居た広場からだいぶ離れて歩いて来てしまったらしい。レッドもいない。アシマリも、いない。みんな居なかった。

あ、まずい。一人だ。



ーーー♪、♪、♪ーーー♪ー、♪



しかも、この歌。

気付いたらずっと聞こえていたような気がする。いつからだろう。

この声。

この、こえ。



「……お母さ、ん?」



子守唄、だった。

今聞いて、思い出した。この歌、自分が小さな時に母に、歌って貰った子守唄だ。

人影が見えた。仄暗い森の中黒い人影がぼんやりと浮かんでいる。

背丈はとても細くて小さい。子供、だ。

森の奥から小さな子供がゆっくり、ゆっくり歩いてくる。



「ーーー♪、♪ーー♪、♪♪」

「……え?」



聞き覚えのある声で歌を歌いながらゆっくりとした足取りで、アヤの元へ明確な意志を持ち歩いてくる“少女”。雑に伸びきった光悦茶髪に、ガタガタの前髪から覗く白く濁った蒼色の瞳。見た目6歳前後の少女。



「ボク?」



昔の自分、アヤにそっくりの少女だった。



ボッ、ボッ、

ーーー“止まれ”。



紫色の炎が文字を木に刻み、すぐに燃えて消えた。

その文字を確認して、アヤは思わず止まった。するとゴンッ!!と突然物凄い速さで何かがアヤの目の前を通過する。



「ッッ………!!!」



カイロスだった。

ギチギチとその大きな鋏を軋ませ、アヤの前を砲弾のように通り過ぎ、その先の木に食らいついたカイロスはその鋏で樹木をゴリゴリと削っている。

アヤは真っ青になった。全く状況が理解できないし受け入れられなかった。



「“てんじんさん おねむ

じのかみさん おねむ

おねむの里 おろちもねんね

てんじんさん おねむ

じのかみさん おねむ

おねむの里 おろちもねんね”」


「どういう……ことなの……」



わらわらと、迷いの森のポケモン達が幼女の歌につられて姿を表し始めた。

どれもこれも目が正気じゃない。自分によく似た幼女と同じように目が白く濁っている。涎が凄い。ギチギチと、何か歯軋りみたいな音がそこらかしこから聞こえてくる。背中を嫌な汗が流れて、手の中が一瞬で、じっとりと濡れた。

今も歌を歌っているのに、その自分そっくりの幼女が何かを呟いた気がした。歌と別に、何かを喋っている。カサカサで皮がボロボロになった血色の悪い唇から、その蒼くも白く濁った目が、自分を一身に見て、



『いた』



そう呟いたのが分かってしまった。背筋がゾワゾワと何かが這って、呼吸するのを忘れてしまった。足が地面に縫い付けられたように動けない。しかしそれを断ち切るように、アヤの気を紛らわすように目の前に紫色がチリチリと揺れ始める。ツイ、と眼球がそれを追う。

ボ、ボ、ボ、と再び紫色の炎が文字を木に焼き付けた。



ーーー“走れ!!”



その炎の文字を理解する前に、アヤは弾かれたように駆け出した。
それと同時に動き出すポケモン達。

アレはまずい。とりあえず何が何だか分からないが捕まったら人生終了しそうだ。アシマリもいない。とりあえず何とかして森を抜けるか、レッド達と合流しなければ。

アヤに向かって弾丸のように飛びついてくるクルマユを避けながら幼女と距離を出来るだけ取る。

けれどどれだけ走っても、幼女から離れても歌はずっと聞こえ続けている。森中にスピーカーかなんか設置してあるのかと聞きたいくらい、ずっとアヤの耳に聞こえ続けていた。



「“てんじんさん おねむ

すいじんさん おねむ

おねむの里の おろちもねんね

おろちこわや 海呑こわや

おねむでころり てんじんさんでころり

おろちこわや 山呑こわや”」



小さな頃、母がアヤにずっと歌ってくれていた子守唄。

優しい声で紡がれる歌は、とても好きだった。

よく眠れた。

けれど今は。

この歌がとても怖い。まるで呪いの歌のように聞こえる。


歌声は母、外見は自分に似た幼女は薄汚れたボロボロの白いワンピースだけを纏い、アヤをずっと視界に入れてゆっくり追いかけ続ける。幼女の歌声にまるで操られているかのように波打つ野生のポケモンに、アヤはひたすら逃げ続けた。



「な、なんでボクだけっ…!?」



ポケモン達は何故かアヤだけを必要以上に狙い追いかけ続けるが、それが人間だからという理由だろうか。何のために狙うのだろう。けれどそれが理由じゃああの幼女だけ狙われない理由が分からない。

ロゼリアの痺れ粉を避けて、ホイーガの毒針を避けてひたすら走る。

どこに逃げてもどこに走っても必ず追いつかれる。ゼェゼェと上がった呼吸を無理矢理鎮めながら大きな木と草むらの間に身を隠した。



「(あっ…あれっ…本当に、殺すつもりで襲って来てるのかな…!?)」



っていうかこの状況は何だ。なんでこんな状況になってるんだったっけ?
確かゾロアを追いかけて……いや、そもそもゾロアを追いかける自分の行動がもうおかしいのでは?思えばどこからか聞こえてきたあの歌を聞いた時からなんか気分がおかしかった気がする。



「(あの、自分そっくりの子供は誰だ)」



あまりにも自分にそっくりな幼女。え?もしかして自分の子供?産んでた?え?誰と誰の子供?レッド?いやそんな馬鹿な。まだ何もしてない。そう、まだナニも。
もう何が何だかさっぱり分からないが、とりあえずここから逃げなければならない。先程のカイロスは、ヤバかった。あの文字がなければきっと今頃死んでたか良くて重症を負っていた。

それにしてもあの炎の文字をすんなりと疑問も抱かず受け入れていたが、あの文字こそなんなのだろうか。思えばこの森の深くに足を入れる前から「危ない」「引き返せ」とそんなことを言われてた気がする。



「(たぶん、ずっとこの森に入る前から助けてくれてたんだっ…)」



あの文字は誰だろうか。

ポケモンだろうか?それとも幽霊だろうか。

ポケモンなら人間の文字を使うことが出来る個体ということは、相当頭の良いポケモンだ。幽霊なら、きっとここで死んだ人間の魂だろうか。過去の例としてエッカルトに随分と助けられた事例がある。



「………ねぇ?居る?」



アヤがずっと文字で助けてくれる“何か”に向けて小さく問いかけるも、何も応答はなかった。今は、近くにいないということだろうか。それとも死に直面している場面でしか現れないのだろうか。

一人はとても心細いが。もとより全て自分がこんな所に入ってしまったが為引き起こした出来事だ。何とか、せねば。因みにアヤはこんな摩訶不思議な現象に直面するのは今回が……実は初めてでは無い。今までだって、自分一人で…いや、ポケモン達と一緒だったが何とかして来たじゃないか。

昔洞窟で迷った時も、築年数が古い宿に泊まった時も、体調が悪くて病院のエレベーターに乗った時、変な怪奇現象みたいなものに立ち会ったことが何回かあった。それが怪奇現象なのか、それかゴーストポケモンの類の悪戯なのかはわからなかったが。
いずれも、どうやって抜け出せたのかあまり記憶にはないが何やかんや暴れまくって回避してきた。

今になって、過去ユイに無人島に投げ込まれた時のことを感謝する。極限だった。リングマは怖いしリングマに追いかけ回されるし、リングマに食われそうになるし。あの時と比べると怖いことなんてそうそう無いのではないか。ユイ兄ありがとう、あの時は死んで呪ってやるとか思ってたけどやっぱり呪わない。感謝しかないわ。



チ、……チャ……、……、



「…………、……なんの音…?」



アヤは実の兄にそう思いつつ、何か、変な音が聞こえてきたことに気がついた。

粘着質な音。ぐちゃぐちゃと何かを混ぜるような。



「ぐちゃ、グチ、グチ、ヂュッ」

「(………咀嚼、音っ……)」



まずい。一番まずい所に出会してしまった。

咀嚼音はまずい。生物を捕食している途中に遭遇するのはまずい。

だって腹を空かしているんだぞ。

餌が目の前に放り込まれるようなものだ。

気付かれない内にここから離れなければ…とアヤは逃げる為に腰を上げたのがいけなかった。その捕食中のポケモンを視界に入れてさえいなければよかった。




「ブッ、ブツッ、ブチブチッ」

「……………、……、」



捕食者はペンドラーだった。

しかも体が通常個体より一回り二回りと大きい。まあそれは良い。捕食中のポケモンは無人島で散々見てきたから、今更どうって事はなかった。けれど。

体格に見合った明らかなレベルの高い個体。
ペンドラーの周囲に散らばる花弁。葉っぱ。周りに転がる食い尽くされたチュリネの亡骸に、散乱する綿。そして頭部に大きな花弁を持つポケモンが複数体横たわっている。全て花弁から腕やら足やら引き千切られており、一目見ただけでもう事切れていると分かった。
まだ生きているチュリネを足で踏み付け逃げないように固定し、別のチュリネを両手で掴み、バリバリと根っこを、頭の葉っぱを食い、頭蓋である球根を砕き汁を啜り蹂躙されていた。

アヤが見てきた中で、一番酷い食事の仕方だった。

その、足元。チュリネと頭部に大きな花弁を持つポケモンの亡骸に混じって、黄色い胴体が体液まみれで乱雑に転がっている。3つの頭は割れて、羽根は欠損していた。

多分、これはさっきレッドと居た時に見たミツハニーだろう。

ミツハニーの亡骸だ。



「……」



ミツハニー。

ミツハニー。


ミツハニー?



「………、…、みつはにー…」




ーーザ、ザザ、ザザザザザッ




「すずむし、」




頭の中で、ノイズが走った。

どこかの部屋の一室で、羽根を引き抜かれて壁に叩き付けられた黄色い体。
もう飛べもしないのにもう片方の羽根も容赦なくもがれて。逃げることも藻掻くことも出来ず、押さえつけられて体内の甘い汁を吸い出そうと噛み付かれ、そのままその子は砕かれた。すぐに目の前で濁った黄色い液体が散らばり、そしてアヤの頬をビチビチ濡らした。

呆気なく足元に転がった肉塊と化したそれは、いつも一緒に遊んでくれていた存在だったはず。

その黄色い子は、アヤを守ろうと必死だった。

突然の襲撃だった。

守ろうとして、でも非力故叶わなくて。

ただの肉の壁になることを余儀なくされた。

毟られて砕かれて、喰われて蹂躙の限りを尽くされた。



ーーザ、ザザ、

ノイズの向こう側で、懐かしい“声”が聞こえる。



「アヤがもう少し大きくなったら、そうね。この子をアヤにあげる。この子、アヤが大好きみたいだから」


幼いながら、拙い頭で。死んでしまった、もう動かない。と初めて生き物の死を理解した瞬間だった。



「いつかアヤと旅に出たいんですって」



ポケモンがポケモンを捕食しているのを見たのは、アヤにとってこれが初めて見た“昔”の記憶である。パキョ、と何かが潰れた音がした。

それが甲殻なのか、内蔵なのか分からない。けれどとても、嫌な音だった。

命を絶たれる、嫌な音。



ーーザ、ザザ、ザザッ。




「ね、鈴虫」

「♪」




…………幼いながら、拙い頭で。死んでしまった、もう動かない。と初めて生き物の死を理解した瞬間だった。その子の体液でベタベタになった顔と、手を見て。悲しいと、嫌いと、怖い、が同時に押し寄せて来て。




幼いアヤは泣き叫んだ所で、ノイズと一緒にブツリと記憶が途切れている。






暴食


母の声と、その子について忘れた記憶

否。ずっとずっと、忘れようとした記憶、だ。







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