act.58 奇跡を信じたい
「ピーカァ…」
はあ、全く。とピカチュウはやれやれとため息をつく。
レッドは人の視線を昔から全く気にしない人間ではあったが、アレは流石にダメだとピカチュウは一匹げんなりと肩を落とした。
公衆の面前で抱き締めたり肩を抱き寄せたり頭を撫でたりするのは、まだ問題ない。しかし普通に口付けしたりするのはちょっと…うん、ダメです。何故ダメなのかと言うとアヤが嫌がっていたからだ。「…もし、誰かに写真なんて撮られてたら」なんて小さく呟いているのを聞いてしまったピカチュウは「あ、そうじゃん」なんて思いレッドに伝えると珍しくしまった、なんて顔をしていた。
いやしまったって。一番気付いてそうで配慮しなきゃならないお前が、今気付きました、なんて顔をするな。
「……つい。すまん」なんてバツが悪そうに親指で顎をかくレッドは本当に素で気にしてなかったらしい。それからというもの、人目がある所では抱き寄せたり手を繋いだりなどは前よりかは減った。けれど公衆の面前では口付けするなどと言ったことは一切しなくなったが代わりにこうした密室…宿泊施設に戻ってくるとそりゃあもう。
やりたい放題である。
寧ろアヤに口付けするのが癖になっているのか気付いたらお互いくっついてちゅっちゅちゅっちゅ…お腹いっぱいです。
ピカチュウは思う。
何がタチ悪いかって言うと、主人はどうか知らないがアヤは見られてないと思っているところだ。恐らく自分達が寝てると思ってたり、姿が見えないから大丈夫かな…くらいにしか思っていないだろうがそんなことはない。バッチリ見えている。
そして最近ではこれから先も自分と一緒にいる、生きてくれるんだろうと何故か当然のように思っていたレッドの意思に反して全くアプローチが伝わってなかったアヤの言質を取った。それからというものレッドのスキンシップが今まで以上、より深いものへと変わってしまったらしい。
ピカチュウがこの前初めて目にした現場は宛ら大型猛獣に兎が貪り殺されているかのような光景だった。何ともまあ目に悪かった。今まで気配を殺して何も見てなかったように、寝室からお暇したが、他の新人ポケモン達がいる手前無視は出来なかった。あれは目に毒だ。流石に放置はしておけなかった。
ああもう。可哀想に。簡単に結婚の約束なんかしちゃって。どうなっても知らないよ。ピカチュウは既に諦めていた。
レッドは今までの興味の対象がポケモンだけだった。
人間には興味を示さない。
レッドと小さな時からの付き合いであるピカチュウは彼をよく理解し、知っている。
それは例え自身の許嫁候補だと連れてこられた複数の容姿端麗の幼女やとっくに成熟した女でも。初めて精通を迎えてから家のルールに無理に従って嫌々相手をした女の顔にも。成長して顔が綺麗な事が分かると有象無象に寄ってくる彼のファンの女達も。嫌いになる一方で“女性”には全く興味を示さなかった。
それなのにアヤにだけ反応を示したのは流石のピカチュウも意味が分からなかった。
見た目はそこら辺の女達より少し良い。けれどそんなのは今までも腐る程会ってきただろうに。
アヤと出会ってからのレッドは異様にも見える程、アヤの存在へと依存していき、ズブズブとレッドの中へ侵食して行った。ポケモンを中心に生活していた彼はどこかへ行ってしまったらしい。今やアヤを中心にして生きている。
まあポケモンを中心に生きていく事に関して、ピカチュウはちょっと懸念していたからそれはそれでいいのだが。
レッド程力と才能があれば、もっと違うことや視野を広げて欲しい、と思っていたのだ。それはピカチュウだけではなくリザードンやカメックス達も同じように。
恐らく、アレは稀に見る逸材だ。数百年に一度生まれる特殊な力を備えた人間。まあ焔の家で生まれたのだから納得と言えば納得なのだが。
だからこそ、そんなレッドが生まれた時点であの家が大騒ぎになる理由がわかるし、人徳を無視して“過保護”に育てられた理由もわかる。
レッドの感情や意志を無視して、彼の尊厳を蔑ろにされて育てられてきた。
だから今、あんな感じで成長してしまった。
彼は自分にも他人にも興味がない。
感情が鈍く表にでない。
他人を簡単に信用できない。
それもこれもあの家のせいで。
「ピィ……」
そのレッドが。アヤという一人の少女を捕まえて。
レッドと結婚の約束をする。
そんなことしたらもう逃げられない。
手放されることなんて万に1つもない。
仮に逃げたりなんかしたら例え地の底までも追ってくるだろう。
あの男の執着心はただの執着ではない。
これはもう執着と依存、愛を一括りした一種の呪いだ。
可哀想に。でもピカチュウとしては嬉しいのでどうこうするつもりもない。
どうなっても知ーらない。
もう一度言おう。ピカチュウはいい笑顔で一匹頷き、全てを諦めた。
「ーーッ、!?〜〜ッ〜〜〜〜〜ッ??!?」
何とも言い難い、物凄い悲鳴が聞こえた。
…………きっと、この扉の先では大変な事になっているに違いない。
これは近い内に、アヤも全てを奪われるかもしれない。いや、もしかしたら夜を迎える内に本当の女にされているのかも知れない。
主人としてはよくここまで本当に手を出さずに耐えたものだとピカチュウは思った。だってもっと貪欲な人間かと思ったんだもの。
それにしてもここにいるのは精神上良くない。
多分扉が閉まってるとはいえ、時間が経つにつれて今みたいに声がより聞こえて来るだろう。ジヘッドなんて顔を真っ赤にして死にそうである。可哀想だから二匹を連れて外に遊びに行くか…とピカチュウが思った所で、なんと救世主が現れたのである。
「マリ、マリ」
「!」
物思いに耽っているとつい先日、アヤの仲間になったアシマリがハイパーボイスを寝室の扉へと打ち付けていた。
不思議なもので、寝室の扉へと音を吸収すると僅かに聞こえていたアヤ達の声がパタリと、全く聞こえなくなってしまった。
技の応用だった。まだ進化もしてない未成熟の身体なのに、こんな細かく技をコントロールできるのか。完全な力任せではない力の出し方。物体や無機物な物に技の効果や力を付与するということは、巧妙な力のコントロールと自分の種族としての力や技そのものを理解していないと出来ないことだ。やりうる。
しかもそんな芸当が出来るということは完璧にコンテスト向きのポケモンだ。
『……やるねえ』
『いいえ。これくらいは』
アシマリはそんなことはない、と謙遜しているのかしていないのか。
そんなことは普通な事だと言わんばかりに首を横に振る。
『人間の交尾は俺らと違って煩いよね』
『そうなのですか?』
『キミ、生まれてからまだ日は浅いの?…ああでも、研究所でずっと隔離されてたんだっけ?まだ幼体だし、生殖については考えないか』
『……?』
『俺達ポケモンの生殖活動は人間よりもっと短い。人間は逆に長すぎるんだよね…』
ピカチュウは今やレッドがどこまでするかわからないが、コトが及んでいるであろう寝室を仰ぎ見る。
人間の生殖活動にはある程度マナーというものがあるらしい。
性感を高めて準備をしなければ、生殖器はまともに使い物にならない。女性側は男性器を受け入れるのも激痛を感じてそれどころじゃないという。何ともまあ面倒な体の構造をしているものだ。人間というのは。
『これは、どうやって使うの?』
アシマリはアヤのポケフォンをピカチュウの前に引き摺って置いた。
アヤの昔の映像を見たいの、とアシマリは昨日レッドから買い与えられた雑誌を指差しピカチュウに言う。
映像。確かここの機能から、アプリというものを開いていたような。
使い方はレッドが操作していた所を見たから何となくわかる。
ピカチュウはレッドの手元を思い出しながら、何とかアヤの動画一覧を引っ張り出した。そこには各々のコンテストで出場してきたアヤの映像と、過去2回に渡るグランドフェスティバルで活躍してきた彼女の映像がズラリと出てきた。
アシマリは前足でそれを再生しながら、一つ一つ、丁寧にその動画を見続ける。
何かを辿るように。
何かを拾い集めるように。
ずっとずっと、眺め続けていた。
あまりにも飽きずに動画を見ていくものだから、ピカチュウはずっと聞きたかった事をアシマリに聞くことにした。
『アシマリは、どうしてあそこに居たの?』
『さあ…分かりません。生まれた時からそこにいたので』
『…………ってことは最初から、タマゴの時から研究所に居たわけね。アヤを知っているようだったけど。なんで?』
『………』
知っているようだけど。なんで?
ええ、ええ。
勿論よ。
知っているわ。
何よりも。
何よりも。
大切だった。
私の、宝物の一つだった。
『………私は。あの子が幸せそうでいるのが、何よりも。嬉しい』
アシマリは動画の中のアヤをひたすら見つめて、噛み締めるように言った。
『あなたは、奇跡を信じる?』
『…常識では起こりえないってこと?…さぁ。どうかなぁ。でもこの世には言葉で説明が付かない事象がたくさんあるのは事実だよね』
『神様なんて、居ないと思っていたの』
『まあねぇ。ポケモンの神って言われてるのは沢山いるけどね』
『私ね、生まれた時から体がとても弱かったの。ずっと動いてられないくらい。最後にはもう布団から起き上がることさえ出来なかった。だから、死んじゃった』
『…………は?』
ピカチュウはふぅん、と話を聞いていたけれど一瞬、何を言っているのか理解できなくて。
アシマリは遠くを見るように、思い出すように宙を見つめ、目を閉じた。
『……思えば、本当に短な時間だった』
崩れる洞窟に置き去りにしてしまった自分。
まだまだ幼い子供にあまりにも酷い事を言った。
痛みと苦痛の果て、意識が途切れた先に“また会えるよ”と誰かの声を聞いた気がする。
『あの時一度、死んだ甲斐があった』
生まれてからまた見慣れたような場所で過ごしてきたけれど、ある日突然そこへ現れた女の子を見て、その子が一体誰なのか一目見てわかった。
理解して。それが“アヤ”だとわかって、理解したら、悲しくなって、怖くなって。
でもそれ以上にとても嬉しくなった。
『今は昔より体が頑丈で……とても良かったわ』
『…………………いや待って?』
『ねぇ、ユイはお元気?』
『ユ、…ユイ?え、え?』
『……ぜんぶ。ぜんぶ任せて、置いてきてしまったの。あなたはアヤのお兄ちゃんだからって。でも。まだ、そんな事を頼んでは…いい歳ではなかったのに』
『い、や…いやいや。…待って、ちょっと情報が、追いつかない……え。………は?』
『あの子は。あのこたちは。ずっとずっと、むかしから。わたしの、大切な子達だから』
そう、ずっーと。
昔から。
『もう母親でもないのかも知れない。今はポケモンですものね。でもね、でも。それでも私は……あの子達を一度はこの腕に抱いて、名前を付けて。愛していたから』
わたしは、アヤが、ユイが。
何よりも大切で、愛しくて、この世の何よりも変え難い存在。
私の宝物。
アシマリはそう言って、綺麗に人間のように微笑んだ。
奇跡を信じたい
(ああ、かみさまって本当にいるのね)