act.52 海魅家
「お前は、あの愚妹が大事か」
そう呟いたのは、自分のそうであれば、というなんとも身勝手な願いだ。
すぐ側に置いていたペットボトルの水を口に含んで喉を通らせる。時計の針はもうすぐ23時30分を過ぎようとしていた。
すると即答で返答する液晶画面先の男。
『ああ』
「俺は海魅家の人間だ」
『は?』
レッドは海魅家、と聞いて少しその赤い瞳を見開いた。
口を半開きにして驚いている。ユイはこの無表情で鉄仮面なこの男がここまで表情を崩したのは初めて見た。
そうか、こいつこんな顔もするのか。
暫く言葉を無くしたレッドは『……みなみ。…みな、み。海魅?』と視線を画面からずらし何かを考えるように親指を唇に付けて独り言を何やら呟いている。無意識なのだろう。
段々と眉を顰めて少し険しい顔をしていた。
『海魅…間違いなければジョウト地方の、か?』
「ああ。因みに父親は本家の人間で、俺はそこの長男」
『……初耳なんだが。アヤから何も聞いていない。本当か』
「アイツは小さすぎてそんな事覚えてねぇだろうからな。知りもしねぇよ」
『アヤがそれを知らない?アンタ達、別々に暮らしていたのか?…海魅はもう10年以上も前に壊滅被害にあって家ごと無くなったと聞いたんだが…そうか、』
生きていたのか、そうレッドは小さく言った。
『(ーーー海魅家。ジョウト地方に家紋を構える名家)』
海の神、ルギアを祀り、歌や詩、楽器などで啓示や祝辞を伝える一族。
渦巻き島の離れた孤島に、その家はあった。
元々渦巻き島はもっと大きな島で、遥か昔にはそこに大勢の人々が住み、神であるルギアに祈りながら生活を送っていたという。けれど人々の争いが勃発し、戦争までに至らしめ島と海を汚し続ける人間達へ憤怒したルギアは落雷で島を4つに割った。
争いは無くなった、が。
人が住めなくなった島を人々は次々に捨てて行った。その中でも頑なに島に残り続け懺悔し許しを乞い、祈り続けた一族がいた。
それが海魅家。
ルギアから祝福を授かっていたと、そんな伝承が残っている。
特に女には歌による神力が宿りやすいと。要は神職を担う一族だ。
『(確か、“病気や穢れを祓う祈りの歌”だったか)』
実際に見たことがないから何とも言えないが。
それにしてもアヤが海魅の者だったとは。
驚きと同時に、彼女の預かり知らないところではあるが、アヤの事をまた一つ知れて少し嬉しい限りである。しかしアヤの実家は本人が覚えてないとはいえ、海魅が容易く壊滅する程のダメージを負い、その中でアヤが死なずに生きてきたという事実を踏まえるとレッドは楽観視できず重く捉えていた。
レッドがもっと幼い時に家で見たテレビのニュースは、海魅家が何者かによって襲撃され家臣達諸共、大半が虐殺されてしまったという事。ジョウト地方にその海魅家がある為、ジョウトの人間なら誰もが知っている事件だ。
幼い頃からレッドはポケモンしか興味がない。
けれども何となくテレビから中継されるニュースが視界に入り、興味がないながらそれを聞いていた。海魅家壊滅。興味がないのにも関わらず、なぜその家の事を覚えていたのかと言うとそういえば時々自分の家にもその人間達が客として迎えられていたな、と思ったからだ。
まだピカチュウがピチューだった頃、中庭に出て隠れんぼなんて幼稚な遊びをしていたことがある。けれども気配を探り、勘を高めるには丁度いい遊びだった。
その中に海魅の者と思しき大人の男がフラリと中庭に侵入してきては「おや、坊主じゃねぇか。何してんだィ、こんなトコで」なんて声をかけて来た男が居た。
着流しを緩く着こなした男は襟元がだらしなく開いている。初対面のクセにそんな身なりでのこのこ人の家の中を歩き回る。見るからに不敬であった。
家にいた頃のまだ幼く小さなレッドに声をかける人間は家の奴ら含めて、己の利益の為に仲良くなろうと媚びを売ったりする人間がほとんどである。
男は金と地位目当て、女は子種目当てで取り入って来る。
影ではポケモンと会話できるなんて気味が悪い、無口で全然笑わないし愛想がないガキ、でも言うことは正論を得て一丁前な生意気なクソガキ。そんな風に言われて来た。
そんな中でその海魅の男は初対面で会った時から数回、レッドの家に何度か客人として招き入れられ、勝手に家の中を徘徊し勝手に中庭に侵入しレッドに何かとちょっかいかけて帰っていくと言う荒業を毎回やりのけていた。
「おう坊主、相変わらず鉄仮面だな」
「…………」
「子供は子供らしく元気よく振舞ってた方が世の中上手く行くことだってあるんだが」
「…………」
「……参ったね。ガン無視の翁かー…お前さん本当にお子さまなん?子供の皮を被った大人なんじゃねぇのかい…?」
今日も海魅の家の人間が来訪しているらしい。
先程から家中が忙しく走り回っているのを感じる。という事はもしかしたら今回も用もないのに来るかも…とレッドは若干面倒臭そうに息を着いた途端、中庭に続く道を踏み締める音を響かせながら男が現れ、「よぉよぉ坊主!息災か〜!?」なんて馴れ馴れしいことこの上ない。
「これ土産な。ウチで作った西京漬けはうめぇぞ」なんて言いながら男はレッドにタッパーを押しつけるが、レッドは無表情でそれを見たまま何も喋らなかった。
それから一方的に男が喋り倒すと「お前さんは本当に喋らねぇな」と苦笑いし「俺の所と同い年くらいだって聞いたが、育つ環境が劣悪だとこうも違ぇもんなんかねぇ…」としみじみ呟いていた。
男がレッドの頭に手を置き、無遠慮にガシガシと撫でる。
「……」
不愉快きまわりない。
馴れ馴れしい。気安く触るな。
無表情が一瞬不快そうに歪んだ。
レッドは他人から意味もなく触られるなんて不快でしかなかった。どれだけ優しくされても、どれだけ甘い言葉を吐かれてもその心の内は私利私欲で塗れていて、大人なんてろくなもんじゃない。この頃レッドから見た大人はみんな“汚いもの”として一括りされていた。
「おっと、」
レッドの嫌悪感をいち早く察知したピチューが、男の手を尻尾で払い落とした。
「嫌かい。…手厳しいねぇ」
悪かった、と男は両手を上げて“もうしません”と降参の意志表示をした。
そして男はまた時計を見ながら空を見上げて「もうこんな時間か、そろそろ帰らねぇとな」とポツリ、独り言を漏らすと声が聞こえてきた。『見ていましたよ。相手は仮にもこの家のご子息ですよ、失礼のないように』という人間が言葉を発するような音ではない、何か…そう。エスパータイプのポケモンが念力で人間へと意思表示するかのような脳へと直接伝達する方法に似ているが、それとはまた別の力だ。
誰だ、と思うより先に屋根から気配を感じ、そこに視線を送ると見たことない二足歩行のポケモンが立っていた。後にそのポケモンがジョウト地方にはまず生息していないルカリオというポケモンだと知ったのは、アヤと出会ってからである。
『主、そろそろ時間ですよ』
「ああ、そうさな。帰るか」
『……主が失礼な事を』
申し訳ございません、と頭を下げるそのポケモンをレッドは珍しそうに見ていた。この頃のレッドがポケモンに触れる機会は自分のピチューと、家に遣えるポケモン達と、両親のポケモン達と。たまに外出が許されて関わることが出来るこの近辺の野生ポケモンだけだった。
こんなポケモンもいるのか、と考えながら「じゃあな」と帰る男を視線だけで見送った。
「………バウ、」
“それにしても、いつ来てもこの家は薄気味悪い所だ”
恐らくあの男のポケモンであろうそいつは、主人をすぐには追わなかった。屋敷を見渡したそのポケモンが人間へと向ける念力のようなものを使用せず、普通にポケモン同士で会話する声を聞いてしまった。
気味が悪い所。確かに、そうだ。レッド自身も幼いながらも感じている事。
「ならもう来ない方がいい」
「っ!」
「ここは普通じゃない」
『……し、失礼しました。噂は本当だったのですか』
「お前達ポケモンと会話が出来ることか。気味が悪いか」
『いいえ、我々と話が出来ることは素晴らしい事だと思います。天からの授かりものでしょう』
「……………」
天からの授かりもの。
そんな事は過去の一度だって言われたことがない。
ポケモンと会話できる。それは普通ならまず有り得ないことで、常識ではない。「気持ち悪い」と陰ながら言われているのに気付いた時、一緒にいるポケモン達も気味悪がられている事を知ってレッドは人前でポケモンと話すことを止めた。ピチューは何か言いたそうにしていたが「俺は気にしないけど、レッドが悪く言われるなら」と静かに口を噤んだ。
人と違うことができるという事は、違う力があると言うのは。
嫌悪や好奇の目をその他大勢から向けられるということ。幼いながらレッドはそれを理解していた。実の両親ですらそうなのだ。
けれどポケモンが好きなレッドにとって会話ができる事を決して嫌悪したりなんてしていない。なんで、とも思わない。自分にとって、彼らと話が出来ることは人間なんかと関わるよりずっと有意義な時間だったし、レッドの唯一心を許した存在達だったからだ。
『主も言っておりました。人にない力があっても良い。その人だけに与えられた、神からの授かりものだからと。胸を張ってもいい。卑下する必要はないかと』
「…………あいつ」
なんだ、知っていたのか。
まあこの家の関係者なら、客として迎えられるくらいなら自分の事を知らないなんてまず有り得ないが。ウザったいくらい馴れ馴れしく絡まれたのは初めてだったから終始無視を決め込もうとして会話なぞ一言もしていなかった。
『………知ったような事を。先程の無礼な失言、お許しください』
「いや、気にしてない。………もう慣れた」
では、お身体にお気を付けなされますよう。
そう言ってそのポケモンは先程の男の後を追って姿を消した。
「…………神、か」
神、とは。
神が本当にポケモン達と会話する力をくれたのだとしたら、それは誰なのだろう。
この世界には神は沢山いる。
それは人間が崇める仏だとか、またはポケモンの神だとか。
それか、または。
「………ホウオウか」
この家が代々奉ってる“ホウオウ様”からの授かりものなのだとしたら、なんと皮肉なものだろう。
人から気持ち悪い、と言われたこの能力。それに最近気付いたがまだ他言していない“他の力”のこともある。それについてはもう一切他人に言葉にするつもりもなかった。
言えばまたどうせ、拍車をかけて陰ながら化け物呼ばわりされるのだとしたら。
言う気も起きなかった。
“気持ち悪い” “本当に人間なの” “化け物”
面と向かって言えばいいものを。
その勇気も肝っ玉も持ち合わせていない連中ばかり。
「(気にしていない)」
生きている限り、それは言われ続けるからだ。
「……………もう慣れた」
人と違う事をすれば、違う力があれば気味悪がられる。怖がられる。
レッドの諦めかけた小さな声はピチューだけが知っていた。
“人にない力があってもいい。胸を張ってもいい。卑下する必要はない”
けれどそんな事はない、もっと誇るものだと他人から言われたのは。
海魅の家の人間が初めてだったのをこの時レッドは思い出したのだった。
「……あの男、また来るのかな」
まあ海魅家ならレッドの実家と縁がある。いつになるか分からないが、次また会ったその時は少し話をしてみようかな、くらいには思っていた。またいつかうるさく勝手に中庭に入ってくるだろう。
ーーーだがそんなことはなく。
後日、海魅家が大量虐殺され家そのものが壊滅したと聞かされたのは。
海魅家
(それはアヤが知り得ない、自分の無くなった実家である)
海魅家。ジョウト地方に家紋を構える名家。
海の神、ルギアを祀り、歌や詩、楽器などで啓示や祝辞を伝える一族。