act.15 盲目




コトリ、と揺れるボールをアヤはじっと見つめていた。ただ揺れたのは一度きりで、それ以降動かなくなってしまったのだが。その動かなくなったボールをゾロアは珍しげに匂いを嗅ぎ、ピカチュウはストローでカルピスを飲みながらアヤと同じようにじっと見ていた。

周りの客達の声が雑音となって聞こえる中、それよりももっと低い声が真横から静かに這う。



「断る」



静かに、否定する言葉をレッドは告げる。それは僅かに怒りを含んだ声色だった。まあ、確かに。彼がそう思う事もアヤは理解できる。けれどアヤには怒るより先に何でだろうと言う疑問が先に浮かんだのだが。

Nの言う“頼み事”。それはポケモンを引き取って欲しいとの頼みだった。



「それは何だ。厄介払いか?それとも切り捨てるのか?」

「………正確には、“擦り付ける”が正しいかな」

「…ふざけるな。ボールに入れる事で、時にはこいつらの生き方事態を潰す事を俺らはしているんだ。それを今更手放すと?……無責任にも程がある」

「…………ごもっともだ」

「…理由は何だ」



痛い。空気が詰まったように息がしずらい。アヤは背中に冷たい汗がじわじわと吹き流れているのを感じ、また隣から流れる殺気に肩を潜める。

レッドが、怒っている。こんな風に怒った彼を見たのはアヤは久々で、静かに怒りを露にする彼はとても心臓に悪く、そして苦手であった。とにかく怖い。めちゃくちゃ過ぎるくらいに怖い。

彼が怒る理由は分かっていた。Nは、今の表面上の話で行くとゲットしたポケモンをレッドに擦り付けようとしていた。擦り付けると言うことは実際には捨てる行為ではないが、遠回しに考えればそれは見放す、捨てた事になる。

そしてレッドは、ポケモンを“暴力的に傷付ける”“捨てる”という行為事態が死ぬほど大嫌いな人間である。彼は一般の人間よりもポケモンが大好きの枠を超越えしている人間だ。故に粗末に扱う者…ロケット団(その他)を故意徹底的に潰してきた訳なのだが。そんな今にも捨てるという身勝手な事をしようとしているNが目の前にいる。Nはレッドの人間性を知らない。危険だ。



「(…でも何でわざわざレッドに…?そもそも出会える確率なんてほぼ100%難しいレッドに、そんな捨てるポケモンをわざわざ探してまで押し付けるってどうなの?砂漠に落とした米粒探すもんだよね)」



アヤの中では、この小さな疑問が頭を過っていた。捨てるならそこいらに捨てればいいのに。Nはそれを良しとはしないらしい。わざわざ探す事が面倒なレッドにそのポケモンを引き取って欲しいという。

……よく見れば、彼の表情も重々しくて手放すのを躊躇しているような、そんな気がした。

何か理由があるんだろう。

とアヤは勝手ながらに思う。机に置かれたボールはやはり一度揺れたきり、動く気配はない。



「瀕死状態のところを捕獲したんだ。どうやら群から追い出されたらしくてね」

「………」

「どんな形であれ、勿論ゲットしたからには僕は責任を持って世話をする気でいたよ。ポケモンは…彼らは僕にとって大切なトモダチだから。彼もとても頭の良い子で、僕にも直ぐになついてくれたんだ」

「ならどうして手放すなんて?なついてるならヌエさんそのまま手持ちに置いてあげればいいじゃないですか」

「…………それが、またちょっと難しいところなんだよ」



帽子の下に潜む翡翠色が少し細くなる。

彼は困ったように眉を下げた。



「元から僕の手持ちに居る皆と全然馴染めないんだよ」

「馴染めない?」

「無口や話す気がないんじゃなくて、輪の中に簡単に馴染めない子なんだ。確かに僕の連れているメンバーは殆ど子供の時から…10年以上も一緒に居るからそういう彼らしか無い深い結束が出来てる。その中に突然新しい子が入って来たらやっぱり自分の中で大きな上下差が出て来るっていうか…。最も彼らも僕も、そんな事は気にしてないんだけど。……彼の性格的な問題なんだ」

「……………」

「………何か、人間のいざこざみたいに深い理由もあるんですね…」

「勿論だよ、彼らも心を持ってるから。そして彼は嫌な素振りはしないけど無理して輪の中に居て、常に僕らより一歩引いた所に居るんだ。…毎日張り積めた状態の上に居場所が無い。これじゃあ心身共に疲れ果ててしまう。ストレスで精神的な病気になる前に何とかしなきゃって思ったんだけど…無論そのまま無責任に放置する事なんて僕はしたくないから。……自慢じゃないけど、誰かに頼めるくらいに親しい人はあんまし居ないんだ。そんな中野生のポケモン達が噂していた事、」



ああ、だからレッドを。

アヤが難しい顔をしながら唸れば、罰が悪いようにNは困ったように頷いた。机の上の赤と白のコントラストを指先で撫で、一旦沈黙を置いた後にレッドを翡翠の瞳が捕らえる。



「まあその通りなんだけど、ね。…君はポケモンの声が分かるって本当かい?」

「……否定はしない」

「そうか、」



ゾロアが机の上のボールを前足でつつく。コロコロとゆっくり転がるボールを先に居たピカチュウが受け止めた。まだ姿も知らないボールの中に収まったポケモンを、ピカチュウは覗くようにして視線を投げかける。ピクピク、と長い耳がつねに揺れていた。

レッドの殺気は最早収まっている。無表情でそのボールを見つめる赤の瞳は何を考えているのか分からないが、どうやら何か考え事をしているらしかった。



「あの、ヌエさん」

「何?」

「何でレッドじゃなきゃ駄目なんですか?レッドじゃなくても、ブリーダーとかファンクラブに預けたりしても良かったんじゃ…」

「ああ、それか。……声を聞けた方が彼にとって都合が良いんだ」

「つごう?」

「盲目なんだよ。彼は」



アヤに僅かながら言い様の無い衝撃が走る。
このボールの中に居るポケモンは、盲目。目が見えない子。

Nはボールを人差し指で撫で、視線をレッドへと戻すと小さな声で言った。頼めないかな、と。だがレッドよりもそんな話を聞いて無下に扱えないのはアヤであった。



「ね、ねぇレッド…」

「………」

「引き取ってあげなよ?」

「………俺は今現在ピカチュウだけだとしても、これから先新しいポケモンをパーティーに加える予定は無いんだが」

「…………レッド」

「……………………、」



レッドは無闇やたらにゲットはしない。例えどんなにポケモンが好きで、図鑑を作っていたとしても、だ。そして今はピカチュウだけだとしても、これ以上パーティーを増やすつもりは無いと随分と前にアヤは聞いた事がある。しかもNの手持ちでそんな状態なら、レッドの手持ちの中でも同じ状況になるのではないだろうか。それでは意味がないのと同じ。このポケモンにも辛い思いをさせる事になってしまう。

だがしかし状況が状況だ。ポケモン枠外れ大好き人間の彼が今の話を聞いて無視するとは思えない。しかもイッシュのポケモン。興味は多大にある。加えてアヤも上乗せしてレッドに“頼み事”と来た。

どう引っくり返っても彼は無下に出来なかった。(負けた)



「……………ハァ、」



間を空け、眉間いっぱいに皺を刻んだレッドは溜め息を盛大に着くと共に髪をかき上げる。

ピカチュウからボールを手に取り、じっと見やればボールはまた小さく手の中で揺れた気がした。



「ただし。交換条件だ、」



赤の瞳が反れた視線の先、それはNのボールベルトの最後尾に備えられているボールだった。



盲目

(視線の先、)(強者の気配を感じた)




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