act.102 血塗れトイレの便座事件





「アヤ?」



アヤがトイレに入って30分。

うんともすんとも言わず。トイレの中からも何も音が、一切聞こえなかった。

腹でも壊したのだろうか?それとも気持ち悪いのか。それにしても唸り声も聞こえてこないものだから流石のレッドも心配になって声をかけたが。…何も応答がない。



「アヤ?大丈夫か?」



コンコン。

扉を叩く。

応答がない。

因みにトイレの前にはピカチュウもオシャマリもチュリネも。そしていつも用がない限り『体が大きくて邪魔になっちゃうから』と遠慮してボールから出てこなかったサザンドラも、ついには部屋の隅に出てトイレの中のアヤを心配している。
いや、決してさっき食べたアイスが美味しかったからとかいう余韻でそのまま外に出続けている訳では無い。まだ冷蔵庫に幾つかあるアイスが実は食べたいからとかいうそんな理由ではない。



「ど、ドラ……」

「ピカァ…」



応答はない。

アヤが呼びかけを故意に無視したりすることはまずない。不機嫌な時でも何かしら反応を返したりする子だということはピカチュウは何となく分かってる。もしかして中で寝てたり気絶でもしてんじゃないの?とピカチュウは思った。
サザンドラもサザンドラでトイレの扉と己のトレーナーである青年の顔を交互に見比べてオロオロするばかり。

どうしよう。本当に何か、どこか体調が悪いのかも。

1ヶ月様子がおかしかったのも、もしかしてその間に悪化したのかも。

サザンドラは益々嫌な方向に考えて。オロオロ、3つの首を震わせた。



「アヤ?おい。本当に体調悪いなら言……、…!」



ガチャ、と鍵が内側から解錠された。

そしてギィッ…と扉が静かに開いて、籠城していた女がゆっくり出てくる。

その姿を見てレッド達は卒倒しそうになった。



「ピッ……」

「チュっ……」

「マッ」



サザンドラが「ヒェッ……」と悲鳴を、上げたのが尻目に聞こえた。

それもそのはずだ。

自分でさえギョッとして息を飲んだのだ。それほど衝撃的だった。

トイレから出てきたアヤは青白い顔をしながら、両手が血だらけだった。便器や便座にも所々血液が付着している。おい、なんだこれは。いったい何をしてどうしたらこんなになるんだ…!

アヤは終始黙って俯いており、しかし顔色が悪い。

何を考えているのか全く分からなかった。



「おいっ…アヤ…!これはどうした…!」

「マリっ…マッ…」



レッドはアヤを本格的にトイレから引き摺り出した。こんな真夏に狭い密閉された空間で数十分立てこもっていたせいで、室内からもわっとした嫌な熱気が流れてくる。彼は僅かに眉間に皺を寄せながらも額にじんわり汗が浮かび上がるアヤを見た。

オシャマリやチュリネはもう今にも泣きそうだ。いやチュリネはもう泣いている。

腕を引っ張るとアヤはヨロヨロとしてぎこちなく歩く。



「……っ、……?」



なんだ、どうした。本当にさっきから、フロントに行くと言い出してから様子がおかしい。

とりあえずレッドはアヤをソファに座らせて出血している箇所を特定しようと両手を見るが、全て乾いており傷口が見当たらない。太ももにも血液は付着しており、足か?と思い確認するが見当たらなかった。

どこか怪我を、しているのではないのか?

レッドが焦り始めた時、ピカチュウはハタ、と気付いた。



「ピッ…ピカ?」



くん、とピカチュウはアヤの匂いがいつもと違う事に気が付いた。

血の匂い。血の匂いだが、この匂いはただの血じゃない。くん、くん、と匂いを嗅ぎ続け、申し訳ないが下半身の匂いに集中して嗅ぎとる。

生臭い、独特な香り。

これは月一度の……。

アヤの手に着いた血やトイレから香る匂い。

ピカチュウは深く息を吐いてレッドに声をかけた。



『主人、寝かせてやって』

「、?」

『たぶん、月経だ』

「月…経、」



月経。女にある特有の、月一度の。



「(はっーーー……)」



レッドは冷や汗と共に深く息を吐き出した。

生理か。なんだ。焦った。かなり焦った。どくどくと心臓が煩い。あまりにも、手も太ももも、トイレ内も血まみれだったものだから怯んだ。

深く呼吸を続け、ふぅ、と一息着く。

アヤを改めて見れば、本人は変わらず顔色最悪で、俯いて全く動こうとしない。アヤの生理痛の重さは理解している。何せ半年近くも一緒に寝食共に過ごしていれば、だいたいのルーティーンと生理時の可動域を1ヶ月に必ず一週間は見ているからだ。アヤの生理の痛みはそこまで、寝込んだり動けなくなったり、感情の起伏が劇的に変化する訳では無い。

あまりにも痛い時は薬で抑えていつも何とかなっている。

今までそうしてきたのに。いったい何故?



「アヤ?……生理痛か?今日からだよな?いつもより痛みが酷いのか」

「………、ぅ  ん」

「?」



この歯切れの悪さ。

なんだ。

まだ、何か隠してる。

いや、それよりも、何か……この顔は、痛みにより放心状態というか。

つい最近、同じような顔を、どこかで。

そこでふと先程の会話を思い出した。



「生活用品が、足りなくて」

「(生活用品?もしかして、生理用品を買いに行っていたのか?)」



フロントに行って帰ってきてから、直行でトイレに籠ったアヤを見て思う。

いや、生理用品はまだストックが残っていた筈だ。全然足りる。それなのに、何を買いに行ったのだろう。ペットボトルやアイスだけでは無いはずだ。……ああ、そうか。腹が痛かったから暖かい飲み物を買ったのか。やっと納得した。

何かを買って、トイレにそれを持って行って、手とトイレの便座周りを血だらけにするなんて。……………手?

………まさか。



「とりあえず、先に手を洗うぞ。そんなに痛いなら横になれ」



アヤを立たせるとふらつく。立った痛みでアヤの顔が苦痛に歪んだ。ぎこちない動きを続けるアヤを洗面所に誘導して、手を洗わせる。タオルで拭き、寝室へと移動する。

その一連の動作を注意深くレッドは見ていた。

そして成り行きを見守っていたポケモン達にレッドは声をかけた。



「お前達、心配かけたな。大丈夫だから今日はもう適当に過ごしておいて欲しい」

『本当?何かすることある?』

『トイレのお掃除しましょうか、レッドくん』

「そんなことしなくていい。大丈夫だから、各自ちゃんと休んでおけよ。……ああ、外に散歩に行くなら単独で行くなよ。必ず二匹以上で行動するように」

『はい』

『わかってるよー。早くアヤ寝かせてあげなよ』

「そのつもりだ。……っと、チュリネはどうした?」



緑の物体が足にへばりついている。

もにもにと動き短な手をいっぱいに伸ばしてレッドの片足にチュリネはすがりついた。



『アヤちゃっ…大丈夫なんですか…?』



小刻みに震えながらボロボロ泣いているチュリネを見て、レッドは少し申し訳ない気持ちになった。相当吃驚したらしい。いや、確かに自分もかなり吃驚したが。吃驚というか本当のことを言うとビビった。一瞬言葉が出なかったし。

生理痛なんて、そんな人間の女の体の仕組みなんてこの前まで野生で生きてきた彼女は知る筈も無いだろう。

そこのところも後でしっかり説明してやらねばならない。おそらくチュリネはまあまあな量の血液を見てアヤが悪い病気か、怪我をしていると思い込んでいる。きちんとそんなことはないと今説明しなければならないが、如何せんそんな時間はない。ぶっちゃけチュリネに使う時間よりアヤに時間を使いたい。申し訳無いが。

レッドは極力チュリネに視線が合うようにしゃがみこみ、そのまんまるな頭を撫でた。



「そんなに心配しなくても大丈夫だ。変な病気でもないし怪我もしてないから安心しろ」

『だっ…だってあんなに血がっ』

『だぁいじょーぶ。生理痛なら大丈夫。死ねないし死なない。そんなんで人間死ぬなら世界は屍だらけだって』

『せ、せいりつー?』

『平気よ、大丈夫。あれは人間の女の子のね、体の仕組みの一部なの』

『……ほんとに、大丈夫なんですか……?』



えぐえぐ泣くチュリネに頷きながら彼は立ち上がる。

そんな少し落ち着いたレッドとピカチュウやオシャマリを見て、サザンドラも少し肩を抜くように息を着いた。実はと言うとサザンドラもコアな人間の体の事情なんて知る筈もなく、「そっか。死なないんだ良かったぁ」なんて勝手に適当に理解して安堵していた。そう、サザンドラもこの前まで野生だったのだ。生理なんてそんなもんは知らない。



「大丈夫だ。とりあえず絶対死なない。」

『(チュリネには私から後で説明しておこう)』

『そ、そう、なんですか…。よ、良かったぁ…あの。おやすみなさい、レッドさん。アヤちゃんも。早く元気になってね』

『私達、先に休みますね。レッドくん。……アヤのこと、お願いね』




そう言って血だらけのトイレの便座事件は幕を閉じ、寝室の扉は閉められたのだった。







血塗れトイレの便座事件





「あとは、なんでアヤがこんなことをしたのか聞かなければ」


それはレッドからしてみればしょうもない事情だったり。自分のせいだったり。

……自分のためを思って思い起こされたことだったり。

けれどアヤからしたら必死に考えた末の方法だったから、怒るに怒れなかったのだ。







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